第14話前半 封じられた名前
「本日は、指輪をお外しになってから、三日たちましたね」
アンネットは顔も上げずに言った。
昼のギルドは、前に訪れたとき以上に混み合っていた。入口が開くたびに外の冷たい風が差し込み、泥の乾いた靴や革鎧の匂い、酒場側から流れてくる煮込み料理の湯気を短くかき混ぜていく。受付前には依頼を終えた者と、これから出発する者が入り交じって列を作り、それぞれが書類や札を手に順番を待っていた。
そのざわめきの中でも、アンネットの手元だけは妙に静かだった。
紙を一枚めくり、必要な数字を書き込み、次の書類へ移る。その一連の動作を終えてから、ようやくリディアの右手へ目を向けた。
「……跡、消えましたか」
「はい」
あまりにも迷いのない即答だったため、リディアは自分でも右手の薬指を確かめた。
数日前まで指輪があった場所には、もう目立つ痕はない。
隣に立つポーラも覗き込み、今度は自分の確認に落ち度がなかったことへ密かに安堵しているようだった。
「では、今日はお話を伺ってもよろしいでしょうか」
「内容によります」
アンネットの表情も声も、いつもと変わらない。
答えられることと答えられないことを、感情ではなく規則によって分けている。その態度を知っているからこそ、リディアも余計な前置きをせず本題へ入った。
「十一年ほど前に行方不明になった冒険者の記録は、ありますか。……ロイ、という方です」
アンネットのペンが、一拍だけ止まった。
ほんのわずかな間だったが、これまで淀みなく動いていた手だったからこそ、その停止がはっきり見えた。
「なぜ、その方を?」
「その方を待っている人がいます」
リディアは昨日までに知ったことを、必要以上に広げないよう言葉を選んだ。
「十一年間、帰りを待っている方です。記録があるのなら、その方のために知りたいのです。亡くなられたのか、それとも、まだどこかにいる可能性があるのか」
アンネットはしばらくリディアを見たあと、何も答えず席を立った。
受付の奥には、何年分もの台帳が収められた棚が並んでいる。彼女はその前で年月を確かめ、背表紙を指先で追い、やがて一冊の分厚い革表紙を抜き出した。
長く使われてきたものらしく、角は丸く擦れ、革にも細かな傷がいくつも刻まれている。
台帳がカウンターへ置かれると、どす、と重い音がした。
アンネットは古い紙を傷めないよう、指先で一枚ずつ慎重にめくっていく。乾燥した頁が擦れ合う音は周囲の喧騒に埋もれそうなほど小さいのに、待っているリディアには一枚ごとにはっきり聞こえた。
やがて、その手が止まる。
台帳の向きがわずかに変えられた。
リディアの位置からも一行だけ読むことができた。
マティアス・ロイ 第五等 東方巡礼路・護衛依頼 行方不明
名前があった。
これまで「ハンスの父」としてしか知らなかった人に、初めて一人の人間としての名前が与えられる。
マティアス・ロイ。
その文字の横には、年月を経た紙の色とは不釣り合いなほど濃い赤の印が押されていた。
照会不可(王命)
昨日、王立書庫で見たものとは文面が違う。
けれど、同じ二文字がそこにあった。
王命。
「これは……」
アンネットのペン先が、また一拍だけ止まった。
「……この印のある記録は、どなたにもお見せできません。ご遺族にも」
「ご遺族にも、ですか?」
「はい」
リディアは台帳の一行を見つめた。
目の前に記されている範囲では、マティアスは護衛依頼を受け、その途中で行方が分からなくなった冒険者でしかない。それなのに、何が起きたのかを知ることさえ、家族にも許されていない。
「理由を伺うことはできますか」
「できません」
答えは短かった。
それなら、ここで終わるはずだった。
ところがアンネットは台帳を閉じない。
何も言わないまま次の頁をめくった。
一枚。
別の名前。
別の依頼。
その横にも、赤い印があった。
さらに一枚めくられる。
また同じ印。
アンネットはリディアを見ないまま、古い頁を静かに送り続けた。
三枚。
五枚。
十枚。
すべてが同じ人物についての記録ではなく、依頼先も内容も異なっている。それでも赤い印だけが、同じ年の記録のあちらこちらへ繰り返し現れた。
リディアは何も尋ねなかった。
アンネットも説明しない。
見せられないと言った本人が、なぜ台帳を閉じないのか。その問いへの答えまで口にしてしまえば、彼女が守っている線を越える気がした。
やがて、アンネットの指が止まった。
「お見せできることは、ございません」
革表紙が静かに閉じられる。
赤い印も、マティアス・ロイの名前も、その下へ隠れた。
リディアは深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
アンネットは台帳を抱え上げる。
「何のことでしょう」
それだけ言い、奥の棚へ戻っていった。
リディアはしばらくその背中を見送った。
周囲では冒険者たちが今日の依頼について声を上げ、酒場では杯が触れ合っている。少し離れた受付では報酬の額をめぐって誰かが不満を漏らし、係員が淡々と規則を説明していた。
いつものギルドの昼だった。
けれど、リディアの中では、昨日見つけた六頁の欠落と、今見た無数の赤い印が、同じ一つの年へ重なっていた。
十一年前。——聖国ラステアが滅んだ年。
◇
その夜、兄の書斎には紙と蝋の匂いが満ちていた。
窓の外では風が強まり、庭木の枝が揺れるたび、外灯に照らされた影が厚いカーテンの隙間を行き来している。机の上には領地から届いた報告書や封蝋の残る手紙が何段にも重ねられ、灯火の下では細かな文字がびっしり並んでいた。
扉を叩くと、短い返事がある。
リディアが入室しても、兄はすぐには顔を上げなかった。
「珍しいな。この時間にお前から来るとは」
「お聞きしたいことがあります」
「聞こう」
机の前まで進んだリディアの頭には、昼に見た赤い印がまだ鮮明に残っていた。
「お兄様。『照会不可(王命)』という印は、どういうものですか」
兄のペンが止まった。
紙の上へ触れたまま、完全に動かなくなる。
それまで部屋を満たしていた微かな筆記音が消えたため、窓の外で枝が擦れる音が急に近くなったように感じられた。
兄はゆっくり顔を上げる。
「どこで見た」
大声ではない。
それでも、いつもの問い方とは明らかに違った。
「……ギルドで」
「誰の記録だ」
リディアは答えなかった。
マティアス・ロイの名をここで出せば、待っている家族まで侯爵家の調査へ巻き込む可能性がある。兄を信用していないわけではないが、昼に見た印の意味すら分からない今は、無闇に人を増やさない方がいい気がした。
兄は妹の沈黙を見て、それ以上追及しなかった。
ペンを置き、椅子へ深く座り直す。
「その言葉を、この屋敷の外で口にするな。父上でも開けられない封だ」
リディアは目を見開いた。
「お父様でも?」
「ああ」
父は侯爵であり、領地だけでなく多くの人間と情報を預かる立場にある。その父にさえ開けられないのなら、この封がどれほど上に位置するものなのかは想像できた。
「なぜ、そんなものがあるのですか」
「知らない」
兄は迷わなかった。
「俺も理由までは知らないし、知ったふりをする気もない。ただ、王命の封を正面から開けようとすれば、それを調べていること自体が残る。それくらいは分かる」
リディアの指先がわずかに冷えた。
誰かについて知りたいと思うだけでは済まない。
調べたという事実そのものが、別の誰かに知られることがある。
ガストンから言われたことも、ルシアンから受けた忠告も、ここへ来て同じ方向を向き始めていた。
兄は妹の表情を見ながら尋ねる。
「誰のために調べている」
悠真のため、と答えるのは違うと思った。
始まりは確かに彼だった。
彼がなぜ鐘を数えるのかを知りたいと思い、そこからハンスを知り、その父を待ち続ける人の存在へたどり着いた。
「……待っている人のためです」
兄はしばらく黙ったあと、静かに息を吐いた。
「なら、やり方を考えろ。正面から行けば、潰されるのはその人の方だ」
その言葉は、リディアが最も考えたくなかった可能性を正面から突いてきた。
自分が動いたせいで、守りたかった人の生活へ別の危険が持ち込まれる。
善意で始めたからといって、結果まで善意の形になるとは限らない。
リディアは唇を結んだ。
兄は書類へ目を戻しかけたが、その前に一度だけ手を止める。
「……手伝えることがあるなら、言え」
頼ればいい。
兄なら、自分よりも慎重に動く方法を知っているかもしれない。
侯爵家として確認できる範囲もあるだろう。
それでも、その場で素直に「お願いします」と言うことができなかった。
「大丈夫です」
考えるより先に、その言葉が出た。
兄はすぐには返事をしなかった。
リディアの顔をもう少しだけ見ていたが、やがて何かを言う代わりに目を伏せ、机の上へ置いたペンを取り直した。
「そうか」
紙を擦る音が戻る。
それ以上は何も言われなかった。
リディアは一礼して部屋を出た。
静かな廊下には灯りが一定の間隔で並び、磨かれた床へ淡い光の輪を落としている。そこを歩きながらも、兄の最後の言葉だけが胸に残った。
手伝えることがあるなら、言え。
自分で「大丈夫です」と答えた以上、少なくとも次に動くなら、同じやり方を繰り返すべきではない。
リディアはそう考えながら、自室へ戻った。
◇
同じ夜、鉄工区の安宿で、悠真は寝台の上に銅貨を並べていた。
部屋は狭く、寝台と小さな机、それから荷物を置けば、人一人が歩ける場所が辛うじて残る程度しかない。壁は薄く、隣室から床を踏む音や咳払いが聞こえ、小さな窓の隙間から入り込む夜気が、火を落とした室内の温度を少しずつ下げていた。
悠真は財布から銅貨を取り出し、十枚ずつ重ねていく。
金属同士が触れる小さな音が、狭い部屋の中では思った以上によく響いた。
十。
二十。
五十。
さらに次の山へ手を伸ばす。
「五十、百……」
そこまで口にしたところで、指が止まった。
何をしているのかは分かっている。
金を数えているだけだ。
宿代も食費もかかるのだから、所持金を確かめること自体は何もおかしくない。
それでも、一枚ずつ数を重ねる自分の声を聞いているうちに、別の音が頭の奥へ混じり始めた。
三つの鐘。
そのあと、屋敷の庭で数えた二十七の音。
鐘が鳴れば、手が止まる。
ボリスに指摘されるまで、自分では気づいていなかった癖だった。
今度は硬貨まで同じように数えていることが急に嫌になり、悠真は途中で手を離した。
積み上げかけた銅貨の山が一つ崩れ、布の上へ小さく散る。
今夜の時点で手元にあるのは、銅貨五百四十一枚と銀貨一枚だった。
すぐに生活できなくなる額ではない。
ただし来週から仕事が半分になれば、その状況は変わる。一日の宿代だけで三十銅かかるのに、日当が半分になれば、それだけで足りなくなる可能性が高い。食費を加えれば、働いた日でさえ手持ちを削ることになる。
貯えがあるうちは暮らせる。
しかし冬がどの程度続くのかも分からないまま、それだけを当てにするのは危うかった。
悠真は散らばった銅貨を眺めた。
ガストンの言葉が浮かぶ。
ギルドなら、冬でも荷を運ぶ仕事がある。
そのとき、遠くから低い鐘が一つ鳴った。
ごうん、と夜気を震わせる音が、小さな窓と薄い壁を越えて部屋へ届く。
悠真の手が止まった。
考えるより先だった。
窓の向こうへ顔を向ける。
夜の鉄工区には煙突と屋根の黒い輪郭が重なり、そのさらに向こうに、ギルド区の灯りがわずかに見えている。
荷物を運ぶだけなら、魔物と戦う必要はない。
少なくとも、ガストンの話では街の中だけで済む仕事もある。
自分の能力を使うかどうかは別にしても、重いものを運ぶ仕事なら、今やっている石積みとまったく無関係というわけでもない。
運ぶだけなら。……いや。
悠真は考えをそこで止め、小さく息を吐いた。
冒険者という言葉の向こうには、どうしても三枚の札と、あの夜の鐘がついてくる。
寝台へ視線を戻すと、銅貨の間に一枚だけ色の違う硬貨があった。
侯爵家でもらった銀貨だった。
悠真はそれを指先でつまみ上げる。
銅貨より大きく、夜の冷気を吸ってひんやりしている。
表面へ刻まれた模様を親指でなぞった瞬間、夕暮れのテラスと、風に揺れる淡い金色が脳裏へ浮かびかけた。
悠真は銀貨から目を逸らした。
そのまま財布を開き、一番底へ戻す。
散らばった銅貨もまとめて袋へ入れると、硬貨同士が触れ合う乾いた音がしばらく部屋へ残った。




