第14話後半 封じられた名前
◇
翌日の午後、リディアは自室の窓辺で、王立書庫から書き写してきた文字をもう一度眺めていた。
十一年前。
王命により削除された六頁。
同じ年の冒険者記録へ、いくつも押されていた赤い印。
マティアス・ロイという名前。
そこまでは分かった。
しかし、その先へ進む道は、どこも同じ場所で閉ざされている。
王立書庫の旧版は回収済みで、ギルドの記録は王命によって封じられ、兄に尋ねても理由そのものは分からない。ただ、父にさえ開けられない封であり、正面から調べれば待っている人の方へ危険が及ぶかもしれないと忠告された。
窓の外では午後の日差しが庭へ降り注ぎ、風が吹くたび芝の表面が波のように色を変えていた。明るく穏やかな景色なのに、机に並べた紙の上だけは、目に見えない壁が立っているように感じられる。
同じ方法を続けてはいけない。
それは分かっていた。
人から人へ悠真のことを聞いて回るつもりも、もうなかった。
リディアが書き写した文字を畳もうとしたとき、そばで衣服を整えていたポーラが、不自然なくらい長く沈黙していることに気づいた。
「ポーラ?」
「……はい」
「何かご存じなのですか?」
「何についてでしょう」
「今、明らかに何かを言うか迷いました」
ポーラの手が止まった。
図星だったらしい。
「よく分かりましたね」
「最近、途中で言葉をやめることが多いので」
「誰のせいだとお思いですか」
返答に迷ったリディアを見て、ポーラは小さくため息をついた。
それから、誰かに聞かれていないか確認するように扉の方を見たあと、声を少し落とす。
「裏のことなら、運河の倉庫街に『帳面の女』がいると……厨房で聞いたことが」
「帳面の女?」
「誰がどこへ荷を運んだとか、どこの商人が誰に金を借りたとか、表の記録には出ないことを知っている人だそうです。私も名前までは存じませんし、本当に会えるかどうかも分かりません」
リディアは畳みかけていた紙へ目を戻した。
「王命の封についても知っているでしょうか」
「お嬢様」
ポーラの声が一段強くなる。
「私は、行ってくださいという意味で申し上げたのではございません」
「分かっています」
「本当に分かっていらっしゃいますか?」
昨日、兄から言われた言葉を思い出す。
正面から行けば、潰されるのは待っている人の方だ。
だから、ギルドへ再び押しかけるつもりはない。
侯爵家の名を使って書庫や役所を動かすつもりもなかった。
それでも、何が危険なのかさえ分からないまま止まることにも、別の怖さがあった。
「悠真さんのことを聞いて回るつもりはありません」
リディアははっきり言った。
「知りたいのは、王命の封についてです。何をしたら危険なのか、それだけでも知らないと、待っている方へ何をしてよくて、何をしてはいけないのか判断できません」
ポーラはしばらく黙っていた。
反論を探しているようにも、リディアの言葉を確かめているようにも見える。
「……一度だけです」
「はい」
「危ないと思ったら、すぐ戻ります」
「はい」
「私の言うことを聞いてください」
リディアは少し考えた。
「できるだけ」
「今の時点でもう不安なのですが」
それでも、ポーラは置いていけとは言わなかった。
◇
中央区を流れる運河へ近づくにつれて、街の匂いが変わった。
水と泥、濡れた木材、麻袋、魚、それから荷車へ塗られた油の匂いが、湿気を含んだ風に混じっている。広い運河の両岸には背の高い倉庫が並び、荷揚げ用の滑車や太い縄が軒から突き出し、道端には運ばれる順番を待つ木箱や樽が何段にも積まれていた。
表の道は人通りが多い。
荷を担いだ男たちが声を掛け合い、馬車が車輪を鳴らしながら通り過ぎ、運河では小舟の櫂が水をかく音が絶えず続いている。
しかし、「帳面の女なら裏へ行け」と荷運びの男に教えられ、倉庫と倉庫の間へ入ると、景色は急に静かになった。
高い壁に陽射しを遮られた細い路地には、昨日の雨でも残っているのか、石畳の隙間に黒い湿り気がある。靴底がそこを踏むたび、乾いた大通りとは違う鈍い足音が返ってきた。
「人がいませんね」
リディアが声を落とす。
「だから戻りたいのですが」
「もう少しだけ」
「その台詞、昨日も聞いた気がいたします」
ポーラの声が終わるより早く、路地の先から三人の男が現れた。
偶然通りかかったような歩き方ではなかった。
一人は腕まくりした太い腕を見せつけるように歩き、二人目は短い棍棒を肩へ乗せ、最後の一人だけが壁際を少し遅れて進んでいる。
三人とも、リディアとポーラの姿を見たあと、来た道を塞ぐように広がった。
「お嬢様」
ポーラが小さく呼んだ。
その呼び方を聞いた男の一人が笑う。
「お嬢様だってよ」
失敗した、とポーラの顔に浮かんだ。
リディアは男たちとの距離を測りながら、できるだけ平静な声を出す。
「道をお譲りいただけますか」
「こんなとこに迷い込んだのか?」
腕の太い男が近づいてくる。
「表の通りまで案内してやるよ」
「必要ありません」
横を抜けようとした瞬間、男の右手が伸び、リディアの手首を掴んだ。
力任せに引き寄せるつもりだったのだろう。
リディアは逆らって腕を引かなかった。
むしろ相手の方へ半歩踏み込み、掴まれた右手を内側へ回しながら、空いている左手で男の手の甲を押さえる。
男の肘が伸び切った。
そのまま親指の開く側へ手首を返し、身体ごと捻る。
乾いた音がした。
「がっ……!」
男の膝が崩れ、掴んでいた指が開く。
リディアが手を離したときには、二人目がすでに棍棒を振り上げていた。
頭を狙った横薙ぎだった。
リディアは一歩下がるのではなく、棍棒が最も力を持つ先端より内側へ踏み込んだ。風を切った木の棒が髪の上を通り過ぎ、振り切った男の胸元が無防備に開く。
腰を沈め、その勢いのまま膝を跳ね上げる。
鈍い衝撃が伝わった。
男は鼻を押さえ、後ろへよろめいて石畳へ崩れた。
「ポーラ、下がってください!」
振り返った瞬間、三人目の男が動いた。
手には短い刃物がある。
最初から持っていたのか、それとも今抜いたのかは分からなかった。
男は倒れた二人の間を抜け、リディアへまっすぐ踏み込んでくる。
避けられる。
そう判断して身体を横へ移そうとしたとき、視界へポーラの肩が入り込んだ。
「お嬢様!」
ポーラが間へ入った。
刃が横へ走る。
布の裂ける鋭い音がして、ポーラの左腕が跳ねた。
「っ……!」
袖に細い赤い線が走り、それがみるみる布へ広がっていく。
リディアの身体が動いた。
男がもう一度刃を振ろうとした右手首を、外側から左手で掴む。親指を手首の内側へ押し込みながら腕を外へ開かせると、握力が緩み、刃物が石畳へ落ちて甲高い音を立てた。
そのまま一歩前へ入る。
右手で男の胸元を押し、足を引っかけるように体勢を崩すと、男の背中が倉庫の石壁へぶつかった。
逃げようと身を起こした男の喉を、リディアの右手が掴む。
背中を壁へ押しつける。
男が息を呑んだ。
指へ力を入れるたび、喉の奥から細い呼吸音が漏れ、こちらの手首を両手で掴んだ男の指が必死に動く。
まだ力を入れられる。
このまま握れば。
視界の端で、ポーラの袖から赤い雫が落ちた。
石畳に一つ、濃い点ができる。
怒ったことと、傷つけることは、別。
リディアの指から力が抜けた。
男を突き放すように手を離すと、壁にもたれて激しく咳き込む。
先に倒した二人も立ち上がりかけていたが、もう向かってくる様子はない。
「行ってください」
静かに言った。
三人は互いの様子を確認する余裕もなく、よろめきながら路地の向こうへ逃げていった。
足音が完全に遠ざかるまで、リディアはその場を動かなかった。
それから急いで振り返る。
「ポーラ、腕を」
「大丈夫です。浅いですから」
「見せてください」
「本当に、これくらいなら」
「私が連れてきたのです」
思った以上に強い声が出た。
ポーラが黙る。
右手で押さえていた左腕を少し見せると、切られた布の下から血がにじみ、肘へ向かって細く流れていた。
その赤を見た瞬間、自分が「危なければ戻る」と言ったばかりだったことが胸へ重く落ちた。
謝ろうとした、そのときだった。
ぱち、ぱち、と頭上からゆっくりした拍手が響いた。
二人が同時に顔を上げる。
倉庫の外壁に取り付けられた古い階段の踊り場へ、一人の女が腰掛けていた。
膝の上には分厚い帳面。
片手には細い筆記具。
三十代ほどに見える指先は黒いインクで汚れている。
女は穏やかな笑みを浮かべたまま、下の惨状を眺めていた。
「いい腕だ」
リディアは警戒を解かなかった。
「あなたが、帳面の女ですか?」
「そう呼ばれてることもある」
女は立ち上がると、帳面を小脇へ抱えた。
「その侍女、先に手当てした方がいいだろ。話は上で聞くよ」
◇
外階段を上った先の屋根裏部屋は、倉庫の荒れた外観からは想像できないほど整っていた。
天井は低いものの、壁際には棚が隙間なく作りつけられ、革表紙の帳面や紐で束ねられた紙が年代ごとに並べられている。窓辺にはインク壺がいくつも置かれ、蝋と古い紙、それから新しいインクの匂いが部屋全体へ薄く染みついていた。
その匂いを吸い込んだ瞬間、リディアは足を止めそうになった。
鉄工区。
夕暮れの細い路地。
背中へ感じた視線と、振り返ったあとに残っていた匂い。
同じだった。
断定できる証拠はない。
けれど、偶然だと片づけるには似すぎている。
考えを深める前に、ポーラの傷を見なければならなかった。
女に呼ばれて入ってきた男が、水と清潔な布を用意し、裂けた袖を慎重に持ち上げる。血を洗い流すと、刃が走った跡は長いものの深くはなく、出血も少しずつ治まり始めていた。
帳面の女も横から一度だけ傷を見る。
「傷は浅い。縫わなくていい」
その言葉を聞いて、リディアはようやく胸の奥に溜めていた息を吐いた。
「本当に、大丈夫ですか」
「大丈夫でございます。お嬢様が同じことを三度お尋ねになっても、傷の深さは変わりません」
「……ごめんなさい」
ポーラはそこで返す言葉を失ったようだった。
少しして、困ったように顔を逸らす。
「そうやって素直に謝られますと、こちらも怒りにくいのですが」
包帯が巻き終わるのを確認してから、リディアはようやく女へ向き直った。
「まだ、お名前を伺っていません」
「ネレア・フォルン」
女は窓辺の椅子へ腰掛け、膝の上で帳面を開いた。
穏やかに笑っている。
けれど、その目は先ほど路地にいた男たちとはまるで違い、リディアの服装、靴、手元、ポーラの傷、そして部屋へ入ってから一度も触れていない財布の位置まで、すべて見ているようだった。
ネレアの視線が最後にリディアの頭へ止まった。
「その髪、隠すなら頭ごと隠しな」
リディアは頭巾へ手を伸ばした。
先ほどの格闘でずれたらしく、淡い金色の髪がかなり外へ出ている。
「……光っていましたか」
「倉庫街の端から見えたよ」
ポーラが包帯を巻いた腕を抱えたまま、遠い目をした。
昨日、一昨日から何度目になるのか分からない失敗だった。
リディアは頭巾を直し、話を進めるために財布から金貨を一枚取り出した。
ネレアは、それを見ても手を伸ばさなかった。
「金で買えないもんを買いに来たんだろ、お嬢様」
金貨を持ったまま、リディアの指が止まる。
隣でポーラが静かに口を開いた。
「お嬢様、これはもう潜入ではなく、討ち入りです」
リディアは反論しようとして、やめた。
路地で三人を倒し、一人を壁へ叩きつけたあと、情報屋の屋根裏へ乗り込んできた現在の状況を振り返れば、少なくとも「潜入」という言葉が似合わないことだけは分かった。
ネレアが楽しそうに笑う。
膝の帳面を閉じ、その角でリディアの顎をほんの少しだけ持ち上げると、値踏みするように顔を眺めてからすぐ離した。
「さて、何を知りたい?」
「王命の封についてです」
ネレアの笑みは消えなかった。
リディアは続ける。
「『照会不可』と記された記録があります。正面から調べれば、その記録に関わる人を危険に晒す可能性があると言われました。何をしてはいけないのかだけでも知りたいのです」
「なるほど」
ネレアは帳面の表紙を指で二度叩いた。
それから、何でもない話を始めるような調子で言った。
「その前に一つ教えてやるよ。侯爵家のお嬢様が、鉄工区で『鐘の坊主』を嗅ぎ回ってる。——その話は、三日前から売り物になってる」
身体の芯が冷えた。
リディアは何も答えられなかった。
三日前。
自分が最初に鉄工区へ出た日そのものではない。
けれど、その翌日にはすでに、自分が誰かを探して歩いていることへ値段がついていたことになる。
昨日まで見えなかったものが、急に形を持った。
鉄工区で振り返った人々。
背中へ感じた視線。
誰もいなかった路地。
そこで残っていた、インクの匂い。
今この部屋を満たしているものと同じ匂いだった。
「……私が、あの方のことを尋ねていた話が?」
「ああ」
「誰が、その情報を買ったのですか」
「買ったのが誰かは、言えないね。お得意様だ」
ネレアの声音からは何も読み取れなかった。
男なのか女なのか、個人なのか組織なのか、それすら分からない。
リディアの手のひらが冷たくなる。
自分は悠真について知りたかっただけだった。
なぜ鐘を数えるのか。
どんな人なのか。
それを知るために人へ尋ねた。
しかし、その行為を見ていた別の誰かにとっては、「侯爵令嬢が探している黒髪の若者」という事実そのものが情報になる。
兄の言葉が、今になって別の重さを持った。
潰されるのは、その人の方だ。
「王命の封は、金じゃ開かない」
ネレアが話を戻した。
「開けようとした奴は何人もいたが、全員、途中でやめた。理由は聞かない方がいい」
リディアは「なぜですか」と尋ねかけ、口を閉じた。
理由は聞くな。
それは「知らない」のではなく、知ることそのものに代償があるという言い方だった。
「一つだけ、ただで教えてやる」
ネレアは帳面を開かず、指先だけで表紙を撫でる。
「ギルドだけじゃない。教会の名簿にも、同じ印がある」
リディアは顔を上げた。
「教会にも?」
「ああ」
それ以上、ネレアは説明しなかった。
王立書庫。
冒険者ギルド。
教会。
別々の場所に同じ封が存在する。
十一年前という一点だけが、それらの向こうに見えている。
もっと知りたい。
その気持ちは消えていなかった。
けれど今は、それより先に止めなければならないものがある。
「あの方の噂を、止めていただけますか」
ネレアが少しだけ目を細めた。
「王命の封じゃなくて、鐘の坊主の方かい」
「はい。私が探しているという話も含めて、それ以上広がらないようにしていただきたいのです」
「できる範囲ならね」
「お願いします」
ネレアはしばらくリディアを眺めたあと、穏やかな笑みを戻した。
「いいよ。貸し一つだ」
ポーラが反応する。
「お嬢様」
忠告する声だった。
兄からも言われている。
手伝えることがあるなら言え、と。
ここで屋敷へ持ち帰り、相談するという選択もある。
リディアは分かっていた。
それでも、すでに売られている噂を今止められるのなら、先延ばしにしたくなかった。
「……お受けします」
答えてから、自分がまた誰にも頼らず決めたことには気づいた。
ネレアは何も指摘しなかった。
「成立だ」
その一言だけで、取引は終わった。
◇
倉庫街を出るころには、太陽は建物の向こうへ沈みかけていた。
運河の水面には細長い夕日が揺れ、船が通るたび赤い光が幾重にも砕けていく。昼より冷たくなった風が水の上を渡り、リディアの頬と、ポーラの包帯からわずかに覗く指先を冷やした。
二人は並んで歩いていた。
リディアは何度もポーラの腕へ目を向け、そのたび本人に「大丈夫です」と先回りされるため、四度目からは見るだけにした。
今日知ったことを頭の中で整理する。
王命の封。
教会にも存在する同じ印。
途中で調査をやめた人々。
そして何より、自分が悠真について聞いて回っていたという事実が、すでに誰かの商品になっていたこと。
ガストンも、ルシアンも、兄も、それぞれ違う言葉で同じ危険を教えようとしていた。
自分だけが、まだ十分には分かっていなかった。
もう、あの人のことを聞いて回るのはやめます。
その決意は、知りたくなくなったからではない。
むしろ以前より知りたいことは増えている。
だからこそ、自分の好奇心によって、本人の望まない視線まで彼へ集めることはしたくなかった。
ただ、一人だけ会っておきたい人がいる。
悠真について聞くためではない。
十一年間、夫を待ち続けている人本人の話を聞くために。
明日は、ロイさんの家へ。
リディアは隣を歩くポーラの包帯を一度だけ見て、今度は目を逸らさなかった。
今日、自分の判断で傷つけてしまったものを、忘れないようにするためだった。
運河の向こうでは、最後の夕日が倉庫の壁へ反射し、やがて建物の影に飲まれて消えていった。
貸し一つ。それが何を意味するのか、リディアにはまだ分からなかった。
分かっているのは、自分の足跡が、あの人のところまで続いてしまっていたことだけだった。




