第15話前半 毎朝、頭を下げていく人
ポーラの包帯は、朝になると巻き直されていた。
巻いたのが誰なのか、ポーラは言わなかった。結び目が、ヒルダの鍵束の留め金と同じ形をしていた。
まだ夜の名残が濃い侯爵家の裏口では、東の空だけが薄い青へ変わり始めていた。庭の芝には細かな露が降り、植え込みの葉先に溜まった水滴が、風に揺れるたび一粒ずつ下の葉へ落ちている。
屋敷の大半は眠っており、使用人棟にも人の気配はほとんどない。聞こえるのは遠くで目を覚ました鳥の声と、木々の間を抜ける朝風、それからポーラが外套の袖を整えるときに布が擦れる微かな音だけだった。
リディアは、その左腕へ視線を落とした。
昨日の夜、自分が最後に見た包帯とは巻き方が違っている。布は皺一つなく重ねられ、腕を曲げても傷へ無理な力がかからないよう、端まで丁寧に留められていた。
「痛みませんか?」
「昨日よりは、ずっと」
「本当に?」
「はい。ですから、その顔をなさらないでください」
ポーラはそう答えたあと、裏口へ向かうリディアを見て、ひとつ息を吐いた。
「お嬢様。私は侍女です。討ち入りの供ではございません」
昨日起きたことを思えば、冗談として聞き流す気にはなれなかった。
細い路地。
光った刃。
裂けた袖から滲んだ血。
自分が倉庫街へ行くと決めなければ、ポーラが傷を負うこともなかった。
リディアは扉へ伸ばしかけていた手を下ろし、きちんと彼女へ向き直った。
「ごめんなさい、ポーラ。……本当に」
ポーラの表情から、わずかに力が抜けた。
怒るために用意していた言葉が、行き場を失ったような顔だった。
「……謝られると、怒れないじゃないですか」
「怒っていただいても構いません」
「では、今日はお屋敷から出ないでください」
「それは困ります」
「やはり反省していないのでは?」
「反省はしています」
ポーラはしばらくリディアを見つめたあと、追及を諦めたらしく肩を落とした。
「本日はどちらへ。倉庫街ですか、討ち入りですか」
「お茶を、いただきに」
予想外だったのか、ポーラが目を瞬く。
「……どなたの」
「ハンスさんの、お母様の」
その答えと重なるように、遠くの時計塔から鐘が鳴った。
ひとつ目の低い音が夜明け前の王都へ広がり、まだ閉じられた窓や石壁へ反響しながらゆっくり薄れていく。二つ、三つと続くうちに、ポーラの表情から先ほどまでの冗談めいた色が消え、六つ目の余韻が庭の向こうへ溶けるころには、二人とも何も言わなくなっていた。
リディアは裏口を開ける。
冷たい朝の空気が頬へ触れた。
昨日、悠真について聞いて回るのはやめると決めた。
今日会いに行くのは、彼について知るためではない。
十一年間、一人の帰りを待ち続けている人の話を、その人自身から聞くためだった。
◇
鉄工区へ着いたころ、空はようやく朝の色を取り戻していた。
屋根の間から差し込む低い陽光が、夜露の残った石畳を淡く照らしている。工房の煙突では火を入れ始めたらしく、細い煙が一本、また一本と立ち上り、冷えた空気の中へ薪の焦げる匂いを混ぜていた。
昼間の鉄工区なら、槌の音と職人たちの怒鳴り声が絶えない。
今はまだ静かだった。
店先を箒で掃く音や、荷車へ木箱を積む音が、少し離れた場所まで聞こえる。
教えられた家は、宿から大通りへ出る角にあった。
小さな石造りの家で、長い年月を経た外壁には雨の跡が残り、木の扉には何度か修理された痕がある。窓辺には小さな鉢植えが二つ並び、その片方には季節の終わりかけた白い花が、朝風に細く揺れていた。
リディアは扉の前で足を止めた。
ここまで来ても、何を聞くべきかは慎重に考えなければならない。
王命の封について尋ねるつもりはなかった。
それを知ったことで、目の前の人を巻き込むことだけは避けたい。
リディアは一度だけ深く息を吸い、木の扉を軽く叩いた。
返事はすぐにはなかった。
家の中で椅子が引かれるような小さな音がして、それからゆっくりとした足取りが近づいてくる。
扉が開いた。
肩掛けを羽織った女性が立っていた。
髪は白いものの方が多く、後ろで簡素にまとめられている。痩せた頬には細かな皺が刻まれていたが、病んでいるようには見えない。ただ、目の奥だけに、長い時間同じ場所を見続けてきた人の疲れが静かに残っていた。
「朝早くに、申し訳ありません」
リディアは頭を下げる。
「ギルドの古い記録のことで、伺いました」
女性の目がわずかに揺れた。
問い返されると思ったが、しばらくリディアを見たあと、彼女は扉を大きく開いた。
「……中へどうぞ」
案内された室内は、小さいが丁寧に暮らされている家だった。
壁際の棚には使い込まれた皿や鍋が整然と並び、暖炉には昨夜の火が灰の下へわずかに残っている。鉄瓶からは細い湯気が立ち、朝の冷気が残る室内に、茶葉の柔らかな香りが漂っていた。
中央には木の卓がある。
リディアは、そこへ並べられた二つのカップに気づいた。
一つは女性が座る椅子の前にあり、今しがた注いだものらしく、細い湯気が静かに上がっている。
もう一つは、その隣の誰も座っていない椅子の前に置かれていた。
こちらには湯気がない。
表面は完全に冷え、薄い膜が張るほど長い時間そこに置かれていた。
リディアは二つ目のカップへ一度だけ視線を向けたが、何も聞かなかった。
勧められた椅子へ座り、ポーラも少し離れた場所へ腰を下ろす。
ロイさんは自分のカップを両手で包むと、すぐには口を開かなかった。
リディアも急かさなかった。
質問を重ねることも、沈黙を埋めるために何か話すこともせず、彼女が自分から言葉を選ぶ速さに合わせて待った。
やがて、ロイさんの視線が湯気の向こうへ落ちる。
「あの人は、東の巡礼路の護衛に出たんです。十一年前の春に」
声は驚くほど静かだった。
「少し遠い仕事でしたけど、冒険者でしたから、あれくらいなら何度も行ったことがあって……私はいつものように、気をつけてねって送り出したんです」
カップを包む指先が少しだけ動いた。
「それきりです」
外で、最初の槌音が響いた。
まだ一軒だけらしく、乾いた音が朝の通りへ長く残った。
「帰ってこなかった。ギルドに聞いても、『照会できない』って。……それだけ」
リディアは膝の上で手を重ねた。
「何があったかは……」
「教えてもらえませんでした。事故だったのか、誰かと一緒だったのか、最後にどこまで行ったのかも分からないままです」
ロイさんは、誰も座っていない椅子へ目を向けた。
冷え切ったカップが、朝の光の中にある。
「死んだって言われたら、泣けたんです。生きてるって言われたら、待てたんです。どっちも言ってもらえなかった」
その言葉を聞いたとき、リディアは何か答えなければならないとは思わなかった。
十一年間を知らない自分が、その苦しみを短い言葉で慰めることなどできない。
ロイさんはしばらく冷えたカップを見つめたあと、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「だから、毎晩、あの人の分のお茶を淹れて。朝になったら、捨てて」
リディアはカップへ目を戻した。
夜に淹れられ、待つ人のいない椅子の前で一晩かけて冷えた茶。
これから捨てられ、夜になればまた新しいものが注がれる。
それが十一年間続いている。
その事実だけで十分だった。
リディアは説明する言葉を探さず、静かに尋ねた。
「ハンスさんは、お父様のことを覚えていらしたのですね」
ロイさんの目が少し細くなった。
「ええ。あの子は父親を見て育ちましたから」
自分のカップへ口をつけようとして、途中でやめる。
「ハンスは、自分は必ず帰ってくる冒険者になるって。……帰ってきたのは、札だけでしたけど」
リディアの胸の奥へ、ガストンから聞いた言葉が蘇った。
行方不明のままじゃ、待ってる奴は泣くこともできない。
十一年間、この家で父を待つ母を見続けたからこそ、ハンスはその言葉を知っていたのだろう。
けれど、それをリディアの口から説明することはしなかった。
ロイさん自身が、今話している。
「鐘が鳴って。……十一年分、泣きました」
そこで初めて、声が大きく揺れた。
「帰ってこないって、やっと分かったんです。札しかなくても、もうあの子は帰ってこないんだって」
目元が赤くなる。
それでも涙は、すぐには落ちなかった。
「あの子の分は、泣けたんです。でも、あの人の分は——まだ、どうしていいか分からなくて」
ロイさんの視線は、冷えたカップから離れない。
リディアも同じものを見た。
待つことをやめれば、死んだと決めてしまうように感じるのかもしれない。
けれど悲しむことまで我慢し続けなければならない理由も、本当はないのではないか。
リディアが口にしたのは、それだけだった。
「待つことと、泣くことは、どちらか一つにしなくていいと思います」
ロイさんが顔を上げた。
子どものように戸惑った表情だった。
「……両方で、いいの?」
「はい」
リディアは、それ以上続けなかった。
待ち続けるべきだとも、諦めるべきだとも言えない。
マティアス・ロイがどこにいるのか、自分も知らない。
分からないものを、分かったことにして答えを渡すことだけはしたくなかった。
ロイさんの手がゆっくり動く。
自分の前に置かれた温かい茶ではなく、誰も座っていない椅子の前にあった、冷え切ったカップへ伸びていった。
両手で包み込む。
当然、そこから温かさは返ってこない。
それでもロイさんは離さなかった。
「……あなた」
声が途切れた。
最初に落ちた涙は一滴だけで、冷えた茶の縁を濡らした。
それから呼吸が乱れ、肩が震え、抑えていたものが少しずつ崩れるように涙が続いた。声を上げて泣くのではなく、長い時間かけて閉じ込めていたものが、ようやく外へ流れ出していくような泣き方だった。
リディアは席を立たず、慰める言葉も探さなかった。
ただ卓の向こうへ手を伸ばし、冷たいカップを包んでいるロイさんの手へ、自分の手をそっと重ねた。
そのまま、泣き止むまで待った。
◇
窓から差す光が少し高くなったころ、ロイさんはようやく顔を上げた。
目元は赤く腫れていたが、先ほどまでより呼吸は落ち着いている。
「ごめんなさいね」
「謝らないでください」
「朝から、こんな話を聞かせて」
「聞きに来たのは私ですから」
ロイさんは布で目元を押さえ、小さく息を吐いた。
冷えたままのカップは、まだ彼女の手の中にあった。
少しして、それを卓へ戻す。
「ハンスを連れて帰ってくれた人がいるそうなんです。どこの誰かも分からなくて……お礼も言えていないの」
リディアの指が、膝の上でわずかに動いた。
知っている。
顔も、声も、名前も知っている。
けれど、悠真自身が自分のことをこの家へ伝えてほしいと望んでいるかは分からない。本人の知らないところで名前を渡すことは、もうしたくなかった。
「……もし、その方に会えたら。お伝えしても、いいですか」
ロイさんがゆっくりうなずいた。
「ええ。……ありがとう、って」
短い言葉だった。
それでも、リディアは軽く受け取ることができなかった。
いつ渡せるかは分からない。
必ず届けるとも約束できない。
ただ、預かったことだけは忘れない。
「お預かりします」
リディアは深く頭を下げた。
家を出ると、朝の光はすでに通りの端まで届いていた。
あちこちの工房で炉が動き始め、鉄を打つ音が少しずつ重なっている。煙突から上がる煙は、冷たい風に押されて屋根の上を低く流れていた。
背後で扉が静かに閉まる。
リディアの胸には、一つの言葉が残った。
いつか、本人へ渡すための言葉だった。




