第15話後半 毎朝、頭を下げていく人
ロイさんの家を出ると、先ほどまで室内へ差し込んでいた朝の光が、今では通りの石畳まで届いていた。
夜明け直後には静かだった鉄工区も少しずつ目を覚まし、工房の扉を開ける音や、薪を割る乾いた響き、離れた場所から聞こえる槌の音が重なり始めている。煙突から吐き出された煙はまだ冷たい風に押され、屋根の上を低く流れていた。
リディアは閉じた扉を一度振り返った。
その向こうでは、十一年間使われてきた二つのカップのうち、一つが今朝も捨てられるのだろう。
そして夜になれば、また新しい茶が淹れられる。
胸の中には、ロイさんから預かった短い言葉が残っていた。
ありがとう。
自分のためではなく、誰かへ渡すために受け取った言葉だった。
「お嬢様」
ポーラの声に振り向くと、道の向かいにある小さな屋台で、一人の老人が日よけの布を広げていた。
革靴や靴紐、交換用の底革がいくつも吊るされ、低い椅子のそばには釘と道具の入った木箱が置かれている。老人は二人がロイさんの家から出てきたことに気づいていたらしく、作業を続けながらこちらへ何度か目を向けていた。
やがて布を固定し終えると、節の太い指で椅子を引き寄せながら声をかけてきた。
「あんた、あの坊主の知り合いかい」
リディアは足を止めた。
「……え?」
「あの黒髪の坊主だよ」
老人は顎でロイさんの家を示した。
「毎朝、そこで頭を下げていくんだ。ロイさんは気づいてねえ。……鐘が鳴った晩の次の朝から、一日も欠かさずだ」
リディアは閉じた扉へ視線を戻した。
数日前、串焼きの屋台で主人が「毎朝、妙なとこで立ち止まって」と言いかけたまま、聞けなかった続きを思い出す。
毎朝。
妙なところ。
それが、この家だった。
「毎日……ですか?」
「ああ。同じくらいの時間にな」
老人は道具箱から小さな金槌を取り出しながら、何でもないことのように答えた。
「声もかけねえし、戸も叩かねえ。ただ立ち止まって、頭下げて、それで仕事へ行く。最初は何してんのかと思ったが、三つ鐘が鳴った次の朝からだからな。だいたい察した」
ロイさんは知らない。
それなら、この老人が誰かへ言わない限り、悠真自身も見られているとは思っていないのだろう。
リディアが何か尋ねようとした、そのときだった。
時計塔から鐘が鳴り始めた。
一つ目の音が、朝の街へ低く広がる。
老人が道の先を見る。
「来るぞ」
二つ、三つと鐘が続く。
ポーラはすぐに周囲を確認すると、リディアの頭巾からわずかに覗いていた髪を襟巻きの内側へ押し込み、そのまま靴直しの屋台の日よけの陰へ引いた。
「今日は絶対に光らせませんから」
「はい」
「返事だけはとてもよろしいのですが」
小声で交わしているうちに六つ目が鳴り、最後の七つ目が石壁の間へ長い余韻を残した。
その音が完全に消える前に、通りの向こうから一人の青年が歩いてきた。
リディアの呼吸が、自然に浅くなった。
悠真だった。
少し大きめの見慣れたシャツにジーンズを合わせ、肩には仕事道具を入れた袋を提げている。特別急いでいる様子もなく、かといって周囲を眺めながら歩くわけでもなく、仕事へ向かう人間らしい一定の歩幅でこちらへ近づいてくる。
リディアたちには気づいていない。
視線は前だけを向いていた。
そしてロイさんの家まで来ると、老人が言った通り、その足が止まった。
悠真は閉じた扉の前へ身体を向けた。
何かを置くわけではない。
扉を叩くことも、名前を呼ぶこともしない。
ただ、深く頭を下げた。
挨拶として行う礼より明らかに長く、誰かが扉を開けてくれることを待っているようにも見えなかった。
通りを抜けた風がシャツの裾を揺らし、離れた工房から槌の音が一度響いても、悠真は頭を上げない。
家の中にいるロイさんには届かない。
見ている人間がいるとも知らない。
それでも毎朝ここへ来て、同じことを続けている。
やがて悠真はゆっくり身体を起こし、扉を一度見たあと、何事もなかったように歩き始めた。
その背中を見ながら、リディアの中へ別の光景が重なった。
庭の植え込みから見た、落ちた鳥の巣。
誰かに褒められるわけでもないのに、悠真はそれを元の枝へ戻し、そのことを誰にも話さなかった。
あのときと同じだった。
——誰にも見られていないところで、あの人は、毎朝。
胸の奥が強く締めつけられた。
悲しいわけではないのに、息を吸う場所が少し狭くなったように感じられ、悠真の背中から目を逸らすことができない。
声をかけようと思えば、できた。
名前を呼べば、きっと振り返る。
ロイさんから預かった言葉だって、今すぐ追いかければ渡せる。
それでもリディアは動かなかった。
昨日、自分の聞き回りが商品になり、知らない誰かがそれを買っていたことを知ったばかりだった。ここで悠真を追えば、また自分の足跡が彼のところまで続き、本人が望んでもいない視線を増やすかもしれない。
悠真はそのまま角へ近づき、やがて建物の陰へ消えた。
リディアは、姿が完全に見えなくなってからも、しばらく同じ場所を見つめていた。
隣でポーラが小さく息を吸った。
「お嬢様。それを世の中では——」
「……言わないでください」
言葉が途中で止まる。
ポーラはリディアの横顔を見たものの、それ以上続けることはしなかった。
「……はい」
何を言おうとしたのか、聞かなくても分かるような気がした。
だからこそ、最後まで聞きたくなかった。
言葉にしたら、あの人に、何かを望んでしまう。
先ほど、背中へ声をかけたくなった気持ちも、その続きを考えれば、自分が何を求め始めているのか分かってしまいそうだった。
リディアは襟巻きの下で静かに息を整える。
「帰りましょう、ポーラ」
「はい」
二人は靴直しの老人へ一礼し、ロイさんの家から離れた。
背後の扉は最後まで開かなかった。
◇
昼になり、リディアは自室の机へ一冊の帳面を広げていた。
窓から差し込む光は朝より白くなり、机の上に置かれたインク壺の影を短く落としている。庭から入り込む風が薄いカーテンを揺らし、そのたび帳面の頁がめくれそうになるため、リディアは片手で端を押さえながら以前書いた文字を眺めた。
そこには、悠真を植え込みから見るために考えた三つの計画が残っている。
読み返してみれば、どれも違う案のように書いてありながら、結局は植え込みへ隠れるという一点だけは共通していた。
今なら、ポーラがなぜあれほど困った顔をしていたのか少し分かる。
あのときは、ただ知りたかった。
不思議な魔法を使い、それを隠しながら、誰も見ていないところで鳥の巣を戻す人が何を考えているのか知りたかった。
そこから鐘の意味を知り、ハンスを知り、片翼の鳥を知り、ロイさんの十一年を知った。
そして今朝、自分が知らなかった悠真の毎朝を見た。
知るほどに、次を知りたくなる。
その気持ちのまま動き続ければ、自分だけではなく悠真まで目立たせてしまうことも、もう分かっている。
リディアは新しい頁を開き、ペン先へインクを含ませた。
急がず、一文字ずつ書く。
一、ロイさんの『ありがとう』を、いつか、あの人に渡す
そこで一度、ペンを置いた。
今すぐ渡しに行くことはできる。
悠真が働く場所も知っている。
けれど、会いたいからという理由で再び彼の居場所を追えば、昨日決めたことと同じところへ戻ってしまう。
だから、自分から探して追いかけることはしない。
次に正面から会えるときまで、預かった言葉は自分が持っている。
リディアはもう一度ペンを取り、その下へ二行目を書いた。
二、鳴らなかった鐘を、鳴らす
書き終えた文字をしばらく見つめる。
マティアス・ロイが生きているのか、亡くなっているのか、自分にはまだ何も分からない。
王命の封が何を隠しているのかも知らない。
だから、結果を決めつけることはしない。
ただ、十一年間止まったままのものを、分からないからと放置したくなかった。
インクが乾いたのを確かめ、帳面を閉じる。
あの人の前に立つのは、ロイさんの言葉を、ちゃんと渡せるときにしよう。
胸の中に小さな痛みは残ったが、その痛みまで消そうとは思わなかった。
◇
夕方、悠真は崩れた壁の前で、最後の道具を片づけていた。
西日が鉄工区の屋根と煙突の間へ沈みかけ、積み直した石壁には長い影が斜めに伸びている。昼間は汗ばむほどだった空気も急速に冷え始め、作業でまくっていた袖を下ろすと、石粉のついた布が腕へざらりと触れた。
ボリスが壁の出来を確認し終えると、手袋についた砂を払いながら悠真へ声をかけた。
「来週から、半分だ」
「分かりました」
数日前にも聞いた話だったため、それ以上の会話は続かなかった。
周囲の職人たちが酒場へ行く相談を始める中、悠真は道具袋を肩へ掛け、いつもの帰り道へ出た。
宿へ戻る道とギルド区へ向かう道は、途中まで同じだった。
分かれ道へ着いたところで足が少しだけ止まり、そのあと宿とは違う方向へ進み始める。
夕方のギルド区は、仕事を終えた者とこれから夜の仕事へ向かう者が入り交じり、昼間とは別の騒がしさに包まれていた。店先には灯りが一つずつともり、酒場からは焼いた肉や煮込みの匂いが流れ、荷車を片づける車輪の音が石畳へ響いている。
やがて、見覚えのあるギルドの建物が見えてきた。
扉の脇には何枚もの依頼書や求人の紙が重なる掲示板があり、その中の一枚には、
荷運び(冒険者登録者に限る)
と書かれていた。
悠真が文字そのものをどこまで読み取ったのかは、まだ自分でも確かではなかった。
ただ、掲示板の前にいた二人組のうち一人が、紙を指しながら「荷運びまで登録者だけか」とぼやいたことで、ガストンから聞いていた仕事がここにあることは分かった。
悠真はその紙から、ギルドの扉へ視線を移した。
初めてここへ来た夜のことを思い出す。
三枚の札を握り、血と泥の乾いた服のまま、この扉をくぐった。
何をどう説明すればいいのかさえ分からず立っていた場所だった。
悠真は扉の前まで歩くと、取っ手へ手を伸ばした。
夕方の冷気を吸った金属が、指先へ冷たく触れる。
ギルドの扉の向こうには、あの綱がある。三つの鐘を鳴らした綱だ。
冒険者なんて絶対に無理だと思った夜から、まだ半月しかたっていない。
悠真は、冷たい取っ手に手をかけた。




