第4話後半 帰還の鐘
悠真は、深く頭を下げたままのアンネットを見つめていた。
何に対して礼を言われたのか、すぐには分からなかった。
ハンスを助けられたわけではない。
ニナもテオも、悠真が見つけた時にはすでに亡くなっていた。三人を背負ってここまで運んだわけでもなく、できたことといえば土の上へ石を積み、託された札を持ってきただけだ。
それでもアンネットは、受付係としての形式的な会釈ではない深さで頭を下げていた。
やがて静かに姿勢を戻すと、三枚の札を両手で揃えた。
その時だった。
酒場の喧騒の中で、何かが変わった。
まだ鐘は鳴っていない。
誰かが大声を出したわけでもない。
それなのに、アンネットが受付の奥へ歩き始めただけで、近くの卓から会話が止まった。
笑い声が消える。
酒杯を置く音が止まる。
その静けさが隣の卓、そのまた隣へと広がっていき、波が引いていくように酒場全体から音が消えていった。
ついさっきまで何十人もの声が重なっていた場所とは思えない。
悠真は振り返った。
立ち上がる者がいる。
帽子を脱ぐ者がいる。
さきほど門から同行してきた若い衛兵も、いつの間にか入口近くに残っており、兜を両手で胸の前へ抱えていた。
「何が……」
小さく呟いた悠真の横で、ガストンが何も言わず帽子を脱いだ。
アンネットは受付の奥、壁際に垂れている太い綱の前へ立った。
綱は高い天井を抜け、その先が見えない。
片手に持った札を確認する。
静寂の中で、アンネットの声が響いた。
「第七等、テオ・ラング——帰還」
綱が引かれた。
ゴォン。
一音だった。
だが門で聞いた時よりも、ずっと近い。
低い振動が空気を震わせ、床から足裏を通り、悠真の胸の骨まで直接叩いた。
音は大きいのに、不思議と耳を塞ぎたいとは思わなかった。
長い余韻が建物を抜け、夜の街へ広がっていく。
悠真の頭に浮かんだのは、テオの顔ではなかった。
土から突き出ていたブーツ。
中に人がいると分かった瞬間、自分が目を逸らしたあの光景だった。
ポケットの中には、片方の翼がまだ彫られていない鳥がある。
あのブーツの中にいた男が、それを少しずつ削っていた。
誰かに渡すために。
鐘の余韻が消え切るまで、誰も喋らなかった。
アンネットが二枚目の札を取る。
「第七等、ニナ・ブラム——帰還」
二度目の鐘が鳴った。
ゴォン。
今度は、土の中から現れた若い女の顔を思い出した。
半分開いたままの目。
自分も傷ついていたのに、最後にハンスの傷を塞いだという女。
ニナを待っている人がいるのか、悠真は知らない。
家族がいるのか。
恋人がいるのか。
友人がいるのか。
何も知らない。
それでも鐘は同じ音で鳴った。
待つ人が多くても。
一人もいなくても。
帰還の音は変わらない。
アンネットが最後の札を手にした。
悠真の喉がわずかに詰まった。
「第七等、ハンス・ロイ——帰還」
ゴォン。
三つ目。
森の光景が蘇った。
冷たい土。
青くなった唇。
透明な革袋か、とペットボトルを不思議そうに見た顔。
変な名前だと言って笑った声。
そして最後に空を見ながら言った言葉。
——お前は、ちゃんと帰れよ。
悠真は俯かなかった。
泣かなかった。
ただ、鳴り続ける鐘の余韻を聞いていた。
ハンスは帰った。
テオも。
ニナも。
死んでいる。
それなのに、この街では帰ってきたと言う。
その言葉の意味が、少しだけ分かった気がした。
余韻が消えようとした時、扉の近くで椅子が大きく鳴った。
悠真が振り向く。
若い女が立っていた。
エプロンを着けている。
卓の上にはパンの入った籠が置かれていた。
顔が真っ白だった。
三度の鐘のうち、どの名前に反応したのか、考える必要はなかった。
テオ。
ハンスが言っていた。
姉のソフィは、毎晩ギルドで待っているはずだと。
悠真はポケットへ手を入れた。
木彫りの鳥を取り出す。
掌に載せると、昼間よりさらに小さく見えた。
片方の翼だけが途中で止まっている。
悠真は女の前まで歩いた。
何と言えばいいのか、途中まで分からなかった。
ソフィも、悠真の手にあるものを見たまま動かない。
「ソフィさん……ですか」
女の唇がかすかに動いた。
「……はい」
悠真は木彫りの鳥を差し出した。
「……テオさんが、あなたに彫ってたって。ハンスさんから、預かりました」
ソフィの目が鳥へ落ちた。
すぐには受け取らなかった。
指が一度伸び、それから途中で止まる。
触ってしまえば何かが決まってしまうとでもいうように、ためらっていた。
やがて両手で、そっと鳥を包んだ。
「……片っぽ、まだじゃない」
小さな声だった。
ソフィが笑った。
笑ったまま、涙が落ちた。
「これ、いつもそうなんです。途中までやって……あとでやるって置いといて」
鳥の未完成の翼を親指で撫でる。
「パンだって半分食べて、あとで食べるって。服も脱ぎっぱなしで。何でも途中で……」
そこで声が続かなくなった。
ソフィは木彫りの鳥を胸へ抱いた。
肩が震える。
泣き声を押し殺そうとしているのか、何度も息を吸うのに、それでも涙は止まらなかった。
「……おかえり、テオ」
悠真は立っていた。
何か言った方がいいのかと思った。
けれど何も浮かばなかった。
大丈夫ではない。
元気を出してと言える状況でもない。
だから黙っていた。
しばらくして、ソフィが涙を拭いながらアンネットを見た。
「アンネットさん。……毎晩、パン、ありがとうございました」
アンネットはもう受付へ戻っていた。
いつものように表情はほとんど動かない。
「……おいしかったです」
それだけだった。
悠真は卓の上の籠を見た。
パンが入っている。
毎晩。
ハンスはそう言っていた。
ソフィは毎晩、この場所でテオを待っていた。
五日前に依頼へ出た弟が今日なら帰るかもしれないと思い、その分のパンまで持ってきていたのだろう。
そして帰らなかった夜、そのパンをアンネットが食べていた。
食べなければ、ソフィは弟の分が残った籠を抱えて家へ帰らなくてはならない。
アンネットが説明したわけではない。
ソフィも詳しく話していない。
それでも悠真には、何となく分かった。
五日間。
毎晩。
「……ありがとうございます」
ソフィが悠真へ頭を下げた。
「いや」
悠真は困って頭を掻いた。
「……俺、そんな大したことしてないけど」
本当にそう思っていた。
札を持ってきた。
鳥を届けた。
それだけだ。
だがソフィは首を横へ振った。
「帰ってきましたから」
木彫りの鳥を胸に抱き直す。
「ちゃんと」
悠真は何も返せなかった。
その時、酒場の奥から椅子を引く音がした。
一人の男が立ち上がり、杯を掲げていた。
「帰還に」
低い声だった。
別の卓で誰かが杯を上げる。
「帰還に」
それが広がった。
「帰還に」
「帰還に」
やがて酒場にいるほとんど全員が、同じ言葉を口にした。
ガストンも帽子を持ったまま杯を上げる。
アンネットは受付の向こうで、静かに頭を下げた。
悠真には杯がない。
だから三人の札が置かれた受付へ向かって、ただ深く頭を下げた。
ギルドを出ると、夜風が思っていた以上に冷たかった。
酒場の熱気に慣れていた皮膚を、乾いた風が撫でていく。
悠真は何度か深呼吸した。
その時になって、自分の手が震えていることに気づいた。
「……なんだよ、今さら」
森では震える暇もなかった。
熊から逃げた。
人を掘り出した。
死ぬ瞬間を見た。
夜には獣へ囲まれた。
それら全部が終わり、ようやく安全らしい街へ入ってから、体の方が遅れて恐怖を思い出したらしい。
指先だけではない。
膝の奥まで微かに震えている。
こんなの、命がいくつあっても足りない。冒険者なんて、絶対に無理だ。
その決意だけは、かなり強かった。
「ユウマ」
ガストンが荷車のそばから呼んだ。
「明日、鉄工区に来い。仕事を紹介してやる」
「仕事?」
「働かなきゃ飯も宿もなくなるだろ。石運びなら腕が二本ありゃできる」
「俺、一応大学生なんですけど」
「だいがくせいが何をする奴か知らん」
「ですよね」
ガストンがラバの手綱を取る。
「……ただし親方は、嘘をつく奴を一発で見抜くぞ」
悠真の背中に冷たい汗が一筋流れた。
岩の件……。
今日の朝、荷車に噛んでいた岩は、最初から道端にあったことになっている。
少なくともガストンとの間では。
「どうした」
「いや、何でもないです」
「今の顔が一番怪しいぞ」
「気のせいです」
「まあいい。来るなら朝だ」
慰めるでもなく、鐘の話を蒸し返すでもなく、ガストンは歩き始めた。
悠真もその横をついていく。
夜のグランセルは、森とは違う意味で暗くなかった。
通りには一定の間隔で光石灯が灯り、その白い光が石畳を淡く照らしている。建物の窓からは黄色い明かりが漏れ、酒場の扉が開くたび人の笑い声と暖かな空気が流れてきた。
鉄工区へ近づくにつれ、建物は少し低くなった。
昼間なら炉の煙や槌の音で騒がしいのだろうが、夜は多くの工房が戸を閉めている。
それでも遠くのどこかから、金属を打つ乾いた音が時折響いていた。
カン。
少し間を置いて。
カン。
街にも夜があるのだと分かる音だった。
細い通りへ入ったところで、ガストンの歩みが少し遅くなった。
悠真も何となく前を見る。
小さな石造りの家があった。
戸口に、一人の老女が座っている。
薄い肩掛けを羽織り、両手を膝の上に置いていた。
顔はギルドの方角へ向いている。
遠い。
鐘が鳴った場所など、ここからは見えない。
それでも老女はそちらを向いていた。
声は聞こえなかった。
ただ、肩だけが小さく震えている。
光石灯の淡い光の中で、頬を流れたものが細く光った。
ガストンが低い声で言った。
「……ロイの婆さんだ。聞こえたんだな」
悠真の足が止まった。
ハンスの母親。
昨日まで、息子が帰ってくるのを待っていた人。
ハンスが言っていた。
父親の鐘は鳴らなかった。
だから母親は二十年近く待ち続けている。
せめて自分の鐘は鳴らしてくれ。
母親が泣けるように。
その願いどおり、鐘は鳴った。
目の前の老女は泣いている。
悠真は一歩、そちらへ進みかけた。
ハンスの最後を伝えた方がいいのではないかと思った。
水を飲んだこと。
自分の国の話を聞いたこと。
最後まで母親のことを考えていたこと。
伝えられることはある。
けれど、足が動かなかった。
今、自分が近づいて何を言うのか。
あなたの息子は最後まで立派でした。
苦しまなかった。
大丈夫です。
どれも違う。
立派だったかどうかを悠真が決めることではない。
苦しんでいた。
大丈夫なわけがない。
かける言葉を、悠真はひとつも持っていなかった。
通りの反対側から、悠真は深く頭を下げた。
老女は気づかなかった。
それでいいと思った。
ガストンも何も言わなかった。
二人は再び歩き始めた。
安宿は鉄工区の外れにあった。
狭い部屋。
硬そうな寝台。
小さな机。
それだけだった。
「三十銅」
宿の主人に言われ、悠真はガストンからもらった四十銅のうち三十枚を払った。
残り十銅。
この世界での全財産だった。
「明日働けなかったら終わるな、これ」
部屋へ入り、扉を閉めた途端に力が抜けた。
それでも寝台へ倒れ込む前に、血まみれのパーカーだけはどうにかしたかった。
宿で借りたたらいへ水を張り、脱いだパーカーを沈める。
揉む。
水が一気に濁った。
「うわ……」
赤ではなかった。
乾いた血と泥が混じり、たらいの水は茶色く濁っていく。
何度水を替えても、完全には落ちそうにない。
昨日までは普通に着て大学へ行くつもりだった服だった。
悠真は濡れたパーカーを見つめた。
たった二日。
まだ二日しか経っていない。
それなのに、日本で着ていた服がひどく昔のものに見えた。
疲れ切った体を寝台へ横たえる。
木の板越しに硬さが背中へ当たったが、もう気にならなかった。
目を閉じる。
鐘の音が、まだ胸の奥に残っていた。
◇
同じ頃。
ギルドの上階にある一室では、一人の小柄な女性が机へ向かっていた。
体格に対して椅子が高すぎる。
足元と床の間には、わずかな距離があった。
机の上には書類が積まれ、その横で一本のペンが規則正しく動いている。
一度目の鐘が鳴った時、ペンが止まった。
女性は何も言わなかった。
しばらくして、また書き始める。
二度目の鐘。
再びペンが止まる。
目を閉じることもなく、ただ鐘の余韻が消えるのを待った。
そして。
三度目。
ゴォン、と低い音が建物全体を震わせた。
女性の手が止まった。
今度は、すぐには動かなかった。
鐘の音が遠ざかっていく。
完全に消えたあと、女性は目を閉じた。
「……帰ってきた」
それだけ呟いた。
机の引き出しから、分厚い帳面を取り出す。
使い込まれた表紙。
背には「三」と数字が記されていた。
帳面を開く。
一頁。
次の頁。
さらにその次。
どの頁にも、同じ筆跡で名前が並んでいる。
女性は空いている場所を見つけ、ペン先を紙へ置いた。
テオ・ラング。
ニナ・ブラム。
ハンス・ロイ。
一人ずつ。
急がず。
同じ大きさの文字で書き足していく。
三人目を書き終えたあと、ペン先が止まった。
女性は泣かなかった。
名前を指でなぞることもしない。
ただ帳面を閉じた。
帳面を閉じても、彼女はしばらく、ペンを置かなかった。




