第4話前半 帰還の鐘
「待て待て待て」
ガストンが御者台から飛び降り、悠真と衛兵のあいだに体をねじこんだ。
石畳へ着地した靴が硬い音を立て、荷車につながれたラバが驚いたように鼻を鳴らす。つい先ほどまで帰還の鐘に合わせて静まっていた門の周辺には、少しずつ人の声と車輪の軋みが戻り始めていたが、悠真の前だけは空気がまだ張りつめたままだった。
若い衛兵の左脇には兜が抱えられ、右手は剣の柄に置かれている。
抜いてはいない。
だが、必要ならすぐに抜ける姿勢だということくらい、剣に詳しくない悠真にも分かった。
「こいつは、崖の下で死んだギルドの坊主どもの札を届けに来たんだ。俺が保証する」
ガストンが太い腕を広げるようにして言った。
衛兵は眉を寄せた。
「ガストンさんのことは知っています。ですが、保証人がいても、札の出どころは確かめます。……ギルドまで同行します」
「だから、盗んだわけじゃねえって」
「でしたら確認すれば終わります」
若い衛兵は譲らなかった。声を荒らげるわけでもなく、悠真を睨みつけるわけでもない。ただ、自分の仕事として確認する必要があるという態度だった。
悠真は掌の三枚の札を見た。
もし自分が兵士なら、血まみれの見知らぬ男が死んだ冒険者の札を三枚も持っていれば、たしかに疑う。
「俺は大丈夫です」
悠真が言うと、ガストンが振り返った。
「本当にギルドへ届けるつもりだったし、確認してもらった方が早いですよ」
「お前がそう言うならいいが」
ガストンはまだ不満そうだった。
若い衛兵は剣から手を離した。
「申し訳ありません。ただ、師団長なら、疑ったことより、確かめなかったことをお叱りになる」
最後だけ、誰かに言い聞かされ続けてきた言葉を思い出したような小声だった。
悠真は札をリュックへ戻した。
「その師団長、怖そうですね」
「……怖いです」
一拍も置かなかったので、ガストンが鼻を鳴らした。
「お前も大変だな」
「勤務中ですので」
「そういうとこだぞ」
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
ギルドまでは、衛兵が先導する形で歩くことになった。
荷車を置いていくわけにはいかないため、ガストンもラバの手綱を引き、悠真はその横を歩いた。
門の近くは荷車や旅人で混み合っていたが、少し進むと街の姿がはっきり見えてきた。
石畳の両側には二階建て、三階建ての建物が隙間なく並び、張り出した二階部分の下には看板や布のひさしが連なっている。夕暮れを過ぎた空は濃い青へ変わり、その下で白い光石灯が一定の間隔で道を照らしていた。
火ではない灯りは風に揺れない。
風が吹くたび、軒先に吊るされた布や店の旗だけがはためき、その影が石壁の上をゆっくり動いていく。
森ではあれほど欲しかった人の声が、今は四方から押し寄せてきた。
酒場から漏れる笑い声。何かを売り切ろうと声を張り上げる商人。荷車の車輪が石畳を叩く音。その上に窓を閉める木戸の音が重なり、どこかでは子供が笑った直後、母親らしい女に早く帰れと叱られている。
匂いまで多かった。
焼きたてのパン、炙った肉、酒、馬糞、煙、汗。
森の湿った土と血の匂いしか嗅いでいなかった悠真には、それらすべてが異様なほど濃く感じられた。
通りの一角から、大量の湯気が流れてきた。
大きな建物の戸口を、髪を濡らした男たちが出入りしている。肩へ布を掛けた者もおり、扉が開くたび温かそうな白い蒸気が夜気へ広がった。
悠真は思わず足を止めかけた。
自分の袖を見る。
熊の血が乾いて茶黒くなり、泥までこびりついている。
髪にもまだ汚れが残っている。
昨日の朝までは、汗をかいたらシャワーを浴びることなど当たり前だった。
風呂……入りたい。
その欲求があまりにも切実で、一瞬だけギルドも三枚の札も忘れそうになった。
「おい、置いてくぞ」
ガストンの声で我に返る。
「今の建物、風呂ですよね」
「そうだが」
「あとで絶対入りたい」
「その格好なら、先に宿探した方がいいぞ」
「どっちも必要です」
「贅沢言うな。一文無しみてえな格好して」
「一応、四十銅ありますから」
「それ俺が渡した金だろうが」
そんな話をしながら歩いているうち、先を行く衛兵が大きな建物の前で止まった。
周囲より横幅が広く、正面には頑丈そうな両開きの扉がある。入口の上には複雑な意匠の看板が掲げられていた。
文字そのものは読めた。
王立冒険者管理機構。
やはり見覚えのない字体なのに、視線を向けると意味だけは不思議なくらい自然に頭へ入ってくる。
ガストンが看板を顎で示した。
「王立冒険者管理機構。長えから、みんなギルドって呼んでる」
「正式名称、ちゃんとあるんですね」
「誰も使わねえけどな」
衛兵が扉を押した。
途端に、外とは比べものにならないざわめきが流れ出してきた。
建物の中は、役所と酒場を無理やり一つへ押し込んだような場所だった。
正面奥には石造りの長い受付があり、その背後には棚や書類が整然と並んでいる。
一方、一階の半分ほどは完全に酒場だった。
木の卓を囲んだ男女が酒を飲み、装備を外した剣士が笑い、泥だらけの男が椅子へ足を投げ出している。食器がぶつかる音と酒杯を置く音、その上に何十人分もの会話が重なっていた。
悠真は入口でわずかに足を緩めた。
受付と掲示板があり、そのすぐ横では武器を持った者たちが酒を飲んでいる。
初めて来たはずなのに、奇妙なほど見覚えのある組み合わせだった。
ただ、画面や文章越しに想像していたものとは違って、実際の場所には匂いも熱もあった。
「酒くさ……」
「夜だからな」
ガストンが平然と答えた。
壁には大きな色刷りのポスターが貼られていた。
七人の人物が並んでいる。
鎧姿の者。
杖を持つ者。
長い外套を纏う者。
その中央では、一人の剣士が大口を開けて笑っていた。
題名や周囲の文面からすると、英雄を題材にした芝居の広告らしい。
だが、その下には黒い炭で乱暴な文字が書き足されている。
悪魔。
悠真がその一語を見ていると、近くを通った男が鼻で笑った。
「また『悪魔』なんて書かれてら」
「悪魔?」
悠真が反射的に聞き返すと、ガストンはポスターをちらりと見ただけだった。
「酔っ払いの落書きだ」
「でも、英雄っぽい人たちの下に?」
「酔っ払いは何にでも書く」
それ以上話す気はないらしい。
ちょうどその時、掃除用の布を持った老人がやって来て、炭で書かれた一語を黙々と擦り始めた。
悠真は少し気になったものの、ガストンが先へ歩き始めたため、その背中を追った。
その途中、酒場の隅から明るい女の声が聞こえた。
「私、余ってますよ! 料理もできますし!」
あまりに場違いなほど元気な声だったので、悠真はつい振り向いた。
数人の冒険者が座る卓の前に、一人の少女が立っている。
服装を見た瞬間、悠真の足が止まりそうになった。
赤と白。
長い袖。
日本の神社で見た巫女装束に似ている。
もちろん細部は違うのだろう。
それでも、この世界へ来て初めて目にする、はっきり日本を思わせる服だった。
「……悪い。その、気味悪いんだよ。あんたの、それ」
卓に座った男が、申し訳なさそうに言った。
何のことを指しているのか、悠真の位置からは分からない。
少女は一瞬だけ黙った。
しかし次の瞬間には、ぱっと笑った。
「ですよねー! また今度!」
明るい声だった。
断られた直後の人間とは思えないほど、軽かった。
少女はくるりと身を翻す。
悠真は無意識に一歩そちらへ向きかけた。
巫女服……?
その時、袖を引かれた。
「ユウマ。こっちだ」
ガストンだった。
「あ、はい」
数歩進んでから、悠真はもう一度振り返った。
だが、酒場の隅に少女の姿はなかった。
人混みへ紛れたのか、別の場所へ移ったのかも分からない。
「どうした」
「いや……ちょっと変わった服の子がいて」
「この街には変わった奴なんざいくらでもいる。いちいち見てたら日が暮れるぞ」
「もう暮れてますけど」
「そういうとこだけ返しやがる」
ガストンが呆れたように言った。
夜の受付には、一人の女性が座っていた。
髪をきっちりまとめ、シャツの袖を肘までまくっている。
手元ではペンが止まることなく動き続け、書類を一枚処理すると次を引き寄せる動作にも無駄がない。
悠真たちが近づいても、すぐには顔を上げなかった。
衛兵がカウンターの前で止まる。
「失礼します」
そこで初めて女性のペンが止まった。
顔を上げる。
整った顔立ちだった。
派手ではないが、目鼻立ちがはっきりしており、髪も服も乱れがない。
……美人だ。
いや、今それどころじゃない。
昨日から死にかけたり死体を埋めたり獣に囲まれたりしていたくせに、一瞬でそういうことを考えられる自分に悠真は少しだけ安心した。
「ご用件は」
女性の声は淡々としていた。
愛想が悪いわけではない。
ただ、仕事に必要な分だけ喋る声だった。
悠真はリュックから三枚の札を取り出した。
「これを届けに来ました」
石のカウンターへ並べる。
チリ、と金属同士が触れた。
女性のペンが、ちょうど一拍だけ止まった。
表情はほとんど変わらない。
だが、札を見つめる目だけが少し細くなった。
棚から分厚い台帳を一冊取り出す。
頁を何枚かめくり、指先を止めた。
「……北西街道、石切り場周辺の調査。第七等三名。五日前に受注」
札を一枚ずつ確かめる。
台帳。
札。
もう一度台帳。
「一致します」
若い衛兵が目に見えて肩の力を抜いた。剣の柄から手を離すと、兜を左脇へ抱え直し、悠真へ向かって深く頭を下げる。
「疑って、申し訳ありませんでした」
「いや、仕事なら仕方ないですよ」
「ありがとうございます」
衛兵は顔を上げると、それ以上は口を挟まず、受付から少し離れた場所へ退いた。札が本物だと確認できたことで警戒は解けたらしいが、届け出そのものはまだ終わっていない。兜を脇に抱えたまま、受付の女性が手続きを終えるのを待っている。
女性は、すでに次の書類を手元へ寄せていた。
「状況を」
短かった。
悠真は少し迷い、どこから話せばいいのか考えた。
「崖の下で、熊に襲われた人たちを見つけました」
女性のペンが動き始める。
「熊の特徴は」
「背中から肩にかけて、灰色の板みたいなのが重なってました。かなり大きいです」
「アーマーベアと思われます。続けてください」
鎧熊。
ガストンが使っていた呼び方と同じものらしい。
「二人は、見つけた時にはもう……」
悠真は一度言葉を止めた。
土から出ていた白い手。
半分開いたニナの目。
中身の入ったままのブーツ。
鮮明に思い出せる。
「亡くなっていました。一人だけ、生きてました。ハンスさんです」
ペン先が紙を走る。
「負傷状態は」
「腹と胸と脚。かなり酷くて……土の中に一晩いたって」
「救命措置は」
「水を飲ませました。動かそうとしたら本人に止められて、それ以上は……」
自分の声が少し小さくなった。
もっとできたのではないか。
その考えは、まだ残っている。
「それから、ニナさんが最後に、ハンスさんの傷を塞いだって」
女性のペンが止まった。
「ニナ・ブラムが?」
「はい。ハンスさんが言ってました。自分も怪我してたのに、最後に治療してくれたから、自分だけ余計に生きたって」
女性は何も言わず、台帳の別の場所へ一行書き足した。
それが何を意味するのか、悠真には分からない。
「ハンス・ロイさんは」
「俺が話してる途中で……死にました」
ほんの一瞬だけ、女性の目が悠真を見た。
「ご遺体は」
「三人とも同じ場所にあります。獣に荒らされないように、石で覆いました。墓みたいにして。折れた弓を立ててあります」
「位置は説明できますか」
「崖を右に見ながら沢を上ったところです。石切り場の道からなら、二時間くらい歩きました」
「後ほど地図上で確認します」
返事が早い。
悠真は少しだけほっとした。
これなら、少なくとも三人の場所は伝えられる。
「熊はどうなりました」
来た。
悠真は一度口を閉じた。
ガストンを見る。
ガストンは何も助けてくれそうにない。
「熊は……消えて、空から落ちてきて、死にました」
女性のペンが止まった。
今までで一番長く。
「……空から」
「空から」
女性は悠真を見る。
悠真も見る。
何も足せない。
事実なのだから仕方がない。
「近くに、崖は」
「……ありました」
女性はペンを動かした。
「では、崖からの転落、と記録します」
「ちょっと待ってください」
「何か」
「いや……俺、消えたって言いましたよね」
「伺いました」
「空から落ちてきたとも」
「伺いました」
女性は平然としている。
「崖はありましたね」
「ありましたけど」
「転落で矛盾しません」
「だいぶ矛盾してると思うんですけど」
「記録には原因の確定できない消失現象という項目がありません」
そこで会話を終わらせるように、ペンがまた動き始めた。
悠真は口を閉じた。
俺の説明より、崖の方が信用されてる。
まあ、自分が受付でもそうするかもしれない。
「ご遺体は回収して、聖環教の作法で弔います。アーマーベアの死骸についても、確認後、規定どおりに処理します」
悠真は少し迷った。
「規定って……俺の取り分とか」
女性の目が悠真を見る。
「冒険者登録のない方には、ありません」
「……ですよね」
期待していなかった。
期待していなかったはずなのに、少しだけ残念だった。
「登録されますか」
「しません」
即答だった。
昨日だけで何回死にかけたと思っている。
熊。
狼のような獣。
生き埋め。
血まみれの死体。
冒険者という職業に夢を抱くには、実物を見すぎた。
女性は何の感想も挟まず、一枚の紙を差し出した。
「受領確認をお願いします」
悠真は紙へ目を落とした。
内容は読める。
届けられた札が三枚であること、届け出をした者の確認欄、それから最後に署名する場所がある。
女性からペンを渡され、悠真は受け取った。
そこで手が止まった。
読むことはできる。
話すこともできる。
だが、現地の文字で自分の名前を書くことだけは、まだできない。
形を見れば意味は分かるのに、いざ自分の手で書こうとすると、頭へ浮かぶのは「相馬悠真」という日本語だけだった。
「……読むのは大丈夫なんですけど、この文字で名前を書くのができなくて」
女性は特に驚かなかった。
「では、拇印で結構です」
「あ、それでお願いします」
悠真はペンを戻した。
用意された印泥へ親指を押し、指定された場所へ指をつける。
赤い指紋が紙に残った。
「確認しました」
女性は書類を重ね、三枚の札を丁寧に揃えた。
これで終わりか。
悠真が少し力を抜いた、その時だった。
「……ハンス・ロイさんを、看取られたのですね」
さっきまでと同じ声だった。
悠真は一瞬、返事が遅れた。
「……はい」
女性が立ち上がった。
そして、頭を下げる。
「ありがとうございます」
事務的な会釈ではなかった。
それまで一度も崩れなかった姿勢を深く折り、悠真が戸惑うほど長く、そのまま頭を下げていた。




