第3話後半 空には飛ばさない
「熊に会って、ぴんぴんしてる奴は初めて見た」
ようやく動き出した荷車の横で、ガストンは何度目か分からないほど悠真の姿を見回した。
泥のついたスニーカーに、乾きかけた血で斑になったパーカー。本人には大きな怪我らしい怪我がないことが、かえって不自然に見えるのだろう。
「ぴんぴんってほどでもないです。かなり疲れてます」
「そういう話じゃねえ。熊だぞ」
「ああ……熊は、死にました」
何気なく答えたつもりだったが、ガストンの表情が変わった。
「熊が死んだ?」
「はい」
「どんな熊だ」
悠真は少し迷ってから、覚えている特徴を話した。
「かなり大きくて、背中から肩にかけて灰色の板みたいなのが重なってました。普通の毛じゃなくて、鎧みたいな」
ガストンが目を見開く。
「——鎧熊か! 崖の下の!」
声が大きく、繋がれていたラバが耳を震わせた。
「知ってるんですか?」
「知ってるも何も、八日前からあの曲がり角の先へ行けなくなってた元凶だ。荷を運ぶ連中が何度も見てる。あんなもん、まともに相手できるのは冒険者でも腕の立つ連中くらいだぞ」
そこでガストンの顔から驚きが薄れた。
代わりに、何かを思い出したように眉間へ深い皺が寄る。
「……男を、見なかったか」
「男?」
「四十過ぎの、口笛のうるせえ野郎だ。こっちの言うことを聞かねえくせに、人の仕事にはいちいち口出ししやがる」
悪口のような言い方なのに、その声には冗談で済ませられない硬さが混じっていた。
悠真の頭に、一つの物が浮かぶ。
土の近くへ落ちていた革手袋。
「……手袋が、ありました」
ガストンの顔が固まった。
「どんなだ」
「片方だけです。甲のところに焼き印があって、四角の中に線が三本」
風が道を抜けた。
荷車に積まれた切り石の間から、細かな白い粉が舞い上がる。
ガストンはしばらく何も言わなかった。
「……ヤコブの印だ」
低い声だった。
悠真は、そのあとに続ける言葉を持っていなかった。
死体を見たわけではない。
だから「亡くなっていました」とも言えない。
けれど、あの場所に残されていた手袋と、巨大な熊が獲物を埋めていた土の山を考えれば、何が起きたのか想像するのは難しくなかった。
ガストンは荷車の轅へ腰を下ろした。
太い腕を膝へ置き、道の向こうを見たまま動かない。
ラバが道端の草を噛み始めた。
ぶち、ぶち、と茎を引きちぎる音だけが、長い沈黙の間に続いた。
悠真は急かさなかった。
やがてガストンは大きく息を吐き、荷台へ手を伸ばした。
「食え」
「え?」
「顔色が死人みてえだ」
荷の隅から小さな鍋を下ろし、道端に残っていた焚き火の跡へしゃがみ込む。灰の下にはまだ赤い火が残っており、ガストンは枯れ枝を足して火を起こすと、その上へ鍋を掛けた。
「でも、それガストンさんの飯じゃ」
「腹が減ってると、ろくなこと考えねえ。……食え」
有無を言わせない声だった。
鍋の中には豆と、小さく切った干し肉が入っていた。
温め直されるにつれ、脂と塩気のある匂いが立ち上り、悠真の腹が情けないほど大きく鳴った。
ガストンが木の椀へスープをよそい、差し出す。
「ほら」
「……いただきます」
一口飲んだ。
熱かった。
舌が少し痺れるくらいなのに、吐き出す気にはならなかった。
塩気。
豆の柔らかさ。
干し肉から出た脂。
喉から胸へ、温かさがゆっくり落ちていく。
昨日からずっと、冷たい水と固いパンしか口にしていなかった。
体の内側へ熱が戻ってくる感覚に気づいた瞬間、視界がぼやけた。
「あったかいって、こんなに痛いのか」
「何だ?」
「……何でもないです」
悠真は顔を伏せた。
椀の中へ涙を落としたくなくて、少しだけ横を向く。
ガストンは見て見ぬふりをしたのか、それ以上聞かなかった。
半分ほど食べたところで、悠真は自分のリュックを思い出した。
「そうだ」
中から最後のおにぎりを取り出す。
包装を外し、ガストンへ差し出した。
「これ、よかったら」
「何だこりゃ」
「食べ物です」
海苔に包まれたおにぎりを見て、ガストンは露骨に怪しんだ。
「……黒い紙か?」
「紙じゃないです」
「本当だろうな」
「紙だったら俺も食べませんよ」
半信半疑のまま、ガストンが一口齧った。
海苔が歯切れよく裂れる。
しばらく咀嚼したあと、眉を上げた。
「……蒼環の港の味がする」
「そうなんですか?」
「この黒いの、海のもんだろ。あっちじゃ似たようなのを食う」
偶然だった。
だが、ガストンは勝手に納得したらしい。
「お前、蒼環の出か。道理で妙な格好だ」
「……まあ、遠いとこです」
嘘をついたわけではない。
少なくとも、日本は間違いなく遠い。
悠真はそれ以上訂正しなかった。
ガストンも詳しく聞こうとはせず、おにぎりをもう一口食べた。
やがて二人の椀が空になる頃、ガストンが火を見つめたまま言った。
「ギルドの若いのが三人、調べに行ったはずだ」
悠真の手が止まった。
「……俺が、届けを出したんだ」
火の中で枝が弾けた。
「ヤコブが戻らねえ。荷を出した連中も山道を通れねえ。それでギルドに頼んだ。調べてくれってな」
ガストンは奥歯を噛んだ。
「三人とも、まだ帰ってねえ」
悠真はリュックを開けた。
中から三枚の金属札を取り出し、掌へ並べる。
ガストンの視線がそこへ落ちた。
「これを……届けてくれって頼まれました」
ガストンは札へ触れなかった。
ただ、じっと見つめている。
「三人とも?」
「はい」
「……そうか」
長い息が漏れた。
「俺が届けなんか出さなきゃ」
悠真は顔を上げた。
その言葉だけは、聞き流せなかった。
「……出さなかったら、ヤコブさんは、ずっと行方不明だったんですよね」
ガストンは何も言わない。
「行方不明のままじゃ、待ってる人は泣くこともできないって。……ハンスさんが、言ってました」
自分の言葉ではなかった。
昨日会ったばかりの男から受け取った言葉を、そのまま別の人間へ渡しただけだ。
だから悠真自身の胸に残っているものは、何一つ軽くならない。
ハンスを助けられなかった事実も、自分なら何かできたのではないかという考えも、そのままだった。
それでもガストンには届いたらしい。
男は長い間黙ったあと、火の向こうで小さく頷いた。
「……ああ。そうだな」
それだけだった。
無理に納得したようにも見えなかったし、急に救われたようにも見えなかった。
ただ、先ほどより少しだけ肩の力が抜けていた。
食事を終え、荷車へ戻る途中で、ガストンがふと思い出したように尋ねた。
「そういや、お前、昨夜はどこで寝た」
「崖の下です」
「……は?」
「墓の近くで」
「熊の死骸がある場所でか?」
「はい」
ガストンが足を止めた。
「夜、何も来なかったのか」
「狼みたいなのが」
「何頭だ」
「数えてません」
「お前……」
ガストンの顔が引きつる。
「ガルムウルフだ。群れで来る。……よく生きてたな」
「……運が、よくて」
嘘だった。
正確には、崖の上へ何頭か飛ばしたから生きている。
その説明を今ここでする勇気はなかった。
熊を消して空から落としたなどと言えば、まともに信じてもらえるとも思えない。
ガストンはしばらく悠真を見ていたが、最後には大きく首を振った。
「もういい。乗れ。王都まで半日だ」
「乗っていいんですか?」
「お前をまた森へ放り出して死なれたら寝覚めが悪い」
「ありがとうございます」
「礼は着いてから言え」
悠真は荷車へ上がった。
荷台には切り出された白い石が積まれていた。
その隙間へ腰を下ろすと、車輪がゆっくり回り始める。
ガタン。
轍を越えるたび尻へ硬い衝撃が響く。
それでも、自分の足で歩かなくていいだけでありがたかった。
森から離れるにつれ、景色は少しずつ変わっていった。
深い木立が途切れ、畑が現れる。
低い石垣で区切られた土地では、腰を曲げた人々が作物を収穫していた。荷車とすれ違う子供がガストンへ手を振り、道端では籠を背負った女たちが立ち話をしている。
その誰も、悠真を特別気にしなかった。
知らない服を着た見知らぬ男が荷台に座っていても、一度視線を向ける程度で、それぞれ自分の仕事へ戻っていく。
遠くの家から細い煙が上がっていた。
別の家の庭では洗濯物が風にはためき、土の道を走っていた子供が母親らしい女に呼ばれて振り返る。
悠真は荷台の端へ腕を載せ、その光景を眺めた。
昨日から目にしてきたのは、巨大な森と、死体と、熊と、獣ばかりだった。
けれど、それだけではない。
朝になれば起きる人がいて、畑へ出る人がいる。
食事を作り、働き、子供を叱り、誰かの帰りを待っている。
自分の知らない場所で、自分が来るずっと前から、こうして毎日を暮らしている人たちがいる。
その当たり前の光景を見ているうちに、異世界という言葉が少しだけ違って感じられた。
珍しい魔法や怪物がいる場所、というだけではない。
ここにも生活がある。
ハンスにも。
テオにも。
ニナにも。
ヤコブにも。
帰るはずだった場所と、待っていた人がいた。
掌の中の三枚の札が、少しだけ重く感じられた。
「見えてきたぞ」
御者台からガストンの声が飛んだ。
悠真は顔を上げる。
遠くに灰色の線が伸びていた。
最初は岩山かと思った。
近づくにつれ、その線が人の手で積み上げられた巨大な城壁だと分かる。
「でか……」
「王都グランセルだ」
初めて聞く名前だった。
城壁は左右の視界の端まで続き、その向こうにはいくつもの屋根と塔が見えている。
ガストンが手綱を操りながら顎をしゃくった。
「俺の石は鉄工区に運ぶ。ギルドはギルド区。貴族様は白冠区。……灰路区には、夜は近づくな」
「最後だけ説明が怖いんですけど」
「近づかなきゃいい」
「理由を知った方が近づかないと思いますよ」
「知らなくても近づくな」
どうやら本当に近づかない方がよさそうだった。
悠真は素直に頷いた。
しばらくして、ガストンが腰の袋を探り始めた。
片手で手綱を握ったまま、もう片方の手で何かを掴み、後ろへ差し出す。
「ほらよ」
悠真が両手で受け取った。
銅色の硬貨だった。
数えると四十枚ある。
「……いいんですか」
「手間賃だ」
「でも、俺ほとんど何も」
「荷車押しただろうが」
岩を消したことは言えない。
実際に押していた時間だけなら大したことはしていなかった。
悠真がまだ戸惑っていると、ガストンが鼻を鳴らした。
「タダ働きさせたら、ヤコブに化けて出られる」
冗談めかしていたが、少しだけ声が沈んだ。
「……じゃあ、もらいます」
「ああ」
悠真は銅貨をしまった。
この世界へ来て初めて手にした金だった。
日が傾き始める頃、城壁はもう見上げなければ上端が見えないほど近くなっていた。
西へ傾いた光が灰色の石を斜めに照らし、壁に刻まれた細かな凹凸へ長い影を作っている。
その壁に沿って、小さな白い光が一つ灯った。
悠真は目を細めた。
次。
その隣。
さらに向こう。
夕暮れが街を包むのに合わせるように、城壁沿いの灯りが順番に点いていく。
火ではない。
炎の揺らぎがなく、白く安定した光だった。
電灯とも違う。
初めて見る仕組みなのに、その明かりの下を人々は当たり前のように歩いている。
「……異世界、なんだな。本当に」
これまでも分かっていたはずだった。
巨大な熊も、見知らぬ獣もいた。
言葉も通じる。
それでも、こうして人の暮らす巨大な街と、自分の知らない仕組みで灯る明かりを目の前にすると、ようやく逃げ道がなくなった気がした。
自分は本当に、日本ではない場所まで来てしまった。
門の前には荷車と人の列ができていた。
悠真たちの番になると、兜をかぶった若い衛兵が近づき、荷台へ積まれた石を確認する。
「鉄工区行きですか」
「ああ。いつものだ」
ガストンが答える。
衛兵は顔見知りらしく軽く頷いたが、次に悠真を見た時、その視線が止まった。
血の染みたパーカー。
泥だらけの服。
どう見ても普通の旅人ではない。
「この方は?」
「こいつは俺の手伝いだ」
ガストンが先に答える。
衛兵はまだ悠真を見ていた。
何か尋ねようと口を開いた、その時だった。
街の奥から低い音が響いた。
ゴォン。
鐘。
一度だけ。
時計が時刻を知らせるような軽い音ではなく、腹の底へ沈むような低い響きだった。
門を行き交っていた人々が足を止める。
帽子をかぶっていた男が脱いだ。
荷車の御者も手綱を緩め、静かに頭を下げる。
若い衛兵も兜を脱ぎ、左脇へ抱えた。
ガストンも帽子を取った。
それまで動いていた街の入口が、ほんのわずかな時間だけ静かになる。
鐘の余韻だけが、石壁に沿って遠くへ消えていった。
「今の……」
悠真が小声で尋ねる。
ガストンは街の奥を見たまま答えた。
「帰還の鐘だ。冒険者がひとり、帰ってきた。……死んでな」
悠真の手が、無意識にリュックへ伸びた。
三枚の札を取り出す。
ハンス。
テオ。
ニナ。
この街のどこかで、今の鐘を聞いて泣いている人がいるのかもしれない。
そして、自分の手の中にも、まだ帰っていない三人がいる。
——あの鐘を、三回。鳴らさなきゃいけない。
手の中で、三枚の札が小さく鳴った。
その音に、兜を脇に抱えたままの若い衛兵が振り向いた。
「——その札。どこで手に入れた」
右手が、剣の柄にかかっていた。




