第3話前半 空には飛ばさない
唸り声が、輪になっていた。
灯りを向けた先で目が消え、別の場所でまた光る。数える意味はなかった。囲まれている。それだけ分かれば十分だった。
悠真は墓石に背をつけたまま、右手のスマートフォンをゆっくり動かした。
白い光が夜の森を横切るたび、濡れた幹や低い藪が闇の底から切り取られるように浮かび上がる。その外側はどこまでも黒く、昼間には見えていた崖も木々の梢も形を失い、光の届かない場所に何が潜んでいるのか分からない。
左手には火打ち石が残っていた。
何度打っても火を起こせなかった、ただの石だ。
右手にあるスマートフォンも残量は四パーセントしかない。
剣もない。
防具もない。
火すらない。
「異世界初日の夜って、もうちょっと初心者に優しくないのかよ……」
乾いた声で呟いても、返ってくるのは喉の奥で転がる獣の唸りだけだった。
低い。
近い。
悠真の体が硬くなる。
ライトを熊の死骸へ向けると、黒い影が二つ、その肉へ頭を突っ込んでいた。
狼に似ている。
だが、日本で写真や映像を見た狼より一回り以上大きく、肩まわりは厚い。灰黒色の毛並みはところどころ逆立ち、長い口元から伸びた牙がスマートフォンの白い光を鈍く返している。
一頭が熊の肉へ噛みついた。
ぶち、と湿った音がした。
悠真は無意識に顔をしかめる。
噛み千切った肉を別の獣が奪おうとすると、短い唸り声が重なった。暗闇の中で体同士がぶつかり、枯れ葉が激しく擦れる。
熊を食べているだけならいい。
こちらへ来なければ。
そう思った直後だった。
ライトの端から、一頭が静かに進み出てきた。
ほかより大きい。
左耳が途中から裂けている。
悠真をまっすぐ見たまま、低く頭を下げ、一歩ずつ距離を詰めてくる。
「……そっちに飯あるだろ」
熊の死骸へ光を振った。
「十分でかいんだから、そっち食えよ」
当然、言葉は通じない。
耳の裂けた獣は、鼻先を何度か動かしたあと、墓へ近づいた。
前脚が石へ載る。
ハンスたちの上に悠真が積んだ石だった。
「それは駄目だ」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
獣の前脚が止まる。
悠真は立ち上がった。
膝が震えていた。
熊に襲われた時の恐怖が消えたわけではない。むしろ、一度死にかけたせいで、巨大な獣がこちらを見るだけでも体が勝手にあの時を思い出す。
背中が冷たい。
掌には汗が滲み、スマートフォンが滑りそうになる。
それでも墓から離れる気にはなれなかった。
「そこ、降りろ」
耳の裂けた獣が牙を見せた。
唸りが一段低くなる。
悠真の右手が上がった。
熊に向けた時と同じように。
頭の中に、あの白い空が浮かびかけた。
空に上げれば、死ぬ。
理解した瞬間、熊が地面へ落ちた音まで蘇った。
腹に響く衝撃。
頬へ落ちた温かい血。
熊だったものが、形を失った光景。
今なら、たぶんできる。
目の前の獣を空へ送る。
待つ。
落ちてくる。
それだけだ。
殺したら、たぶん楽になる。
……でも、たぶん、あの音を一生思い出す。
「違う」
悠真は右手を下げなかったまま、顔を上げた。
夜空には星が見えた。
その下、崖の上端だけが黒い線となって空を切っている。
昼間なら少し高い程度に感じた崖も、夜の底から見上げれば巨大な壁だった。
だが、上面は見えている。
あそこなら。
悠真は耳の裂けた獣を見た。
次に崖の縁を見る。
「あそこ」
意識を定めた瞬間、獣が消えた。
光らない。
音もない。
ただ、そこにいたものが突然いなくなる。
次いで頭上から、甲高い鳴き声が響いた。
「っ!」
悠真はライトを上へ向けた。
崖の上。
星明かりを背にして、一頭の獣が立っていた。
耳が裂けている。
足元を何度も確かめ、こちらを見下ろしている顔は、獰猛というより困惑しているようにさえ見えた。
「……生きてる」
胸の奥から空気が抜けた。
やはり、転移そのものが対象を傷つけるわけではない。
熊が死んだのは、高く上げすぎたからだ。
その事実は分かっていたはずなのに、生きた獣を実際に無傷で移せたことで、初めて確信に変わった。
その間にも別の一頭が低く身を沈めた。
悠真は今度は迷わなかった。
獣を見る。
崖の上。
移す。
二頭目が消え、すぐ上から驚いた鳴き声がした。
さらに一頭。
同じ場所へ。
崖の上に三頭の影が並んだ。
下に残った獣たちが明らかに怯んだ。
さっきまで墓へ向いていた鼻先が上を向き、仲間の匂いでも探すように落ち着きなく動いている。
悠真はスマートフォンを熊の死骸へ向けた。
「……熊は、やる。そいつらには、触るな」
伝わったのかどうかは分からない。
それでも残った獣たちは悠真へ近づくのをやめた。
しばらく睨み合ったあと、一頭が熊の肉へ噛みつき、首を大きく振って引き千切る。それをきっかけにほかの獣も死骸へ集まり、やがて大きな肉片を咥えたり、二頭がかりで引きずったりしながら、一頭ずつ森の暗闇へ消えていった。
最後の影が見えなくなっても、悠真はしばらく動かなかった。
ライトを左右へ動かす。
目はない。
唸りも聞こえない。
ただ、夜風に揺れる葉の音だけが残っている。
「……終わった?」
答える者はいなかった。
それでも、今度の静寂は少しだけ違って聞こえた。
悠真は墓へ背を預け、ずるずると座り込んだ。
力が抜ける。
手の震えが止まらない。
危険が過ぎてからの方が、むしろ怖かった。
「怖かった……」
誰も聞いていないので、素直に口にした。
ポケットから木彫りの鳥を取り出す。
片方の翼だけが未完成の、小さな鳥。
掌の中で握っていると、木の硬さが妙に安心できた。
スマートフォンを見る。
残り二パーセント。
「うわ、マジか」
すぐにライトを消した。
画面まで落とす。
完全な闇が戻った。
けれど少しずつ目が慣れると、木々の間から落ちる星明かりで、墓の輪郭くらいは見えるようになった。
「最後に一回だけ、見られるように」
何を見るためかは、自分でも決めていなかった。
時計かもしれない。
日本の写真かもしれない。
どうしても暗闇で何かを確かめなければならない時かもしれない。
ただ、残り二パーセントを今使い切ってしまうのだけは嫌だった。
悠真は膝を抱えた。
崖の上では、転移させた獣の影はもう見えない。
どこかへ去ったのだろう。
熊の血の匂いはまだ残っている。
夜は長い。
何かがまた来る可能性だってある。
それでも。
殺さなくても、どうにかなった。
その事実だけを何度も頭の中で確かめながら、悠真は木彫りの鳥を握ったまま夜明けを待った。
森の色が戻り始めたのは、鳥の声が聞こえてからだった。
最初に一羽。
少し離れてもう一羽。
夜の間、息を潜めていた森がゆっくり目を覚ますように鳴き声が増え、木々の枝先も黒い影から深い緑へ変わっていく。
東から差し込んだ朝の光が霧を薄く照らし、その中を細かな水滴が漂っていた。
悠真はほとんど眠れなかった。
座ったまま短く意識を失っては、葉の音だけで目を覚ますことを何度も繰り返したせいで、首も腰も痛い。
「大学の椅子って、すごかったんだな……」
体を伸ばすと、背骨がいくつも鳴った。
ハンスたちの墓は夜のまま残っている。
悠真は折れた弓を拾った。
テオのものだろう。
弦は切れ、片側が折れている。
それを墓石の隙間へ差し込み、できるだけ真っ直ぐ立てた。
遠くからでも、人の手が入った場所だと分かる。
「また来るから」
自分でも、いつのことかは分からなかった。
それでも何も言わず立ち去るのは嫌だった。
悠真はハンスの荷をまとめ、自分のリュックと一緒に肩へ掛けた。
「重っ……」
体が後ろへ引かれた。
ハンスの荷には食料の残りや火打ち石だけでなく、毛布や細かな道具も入っている。冒険者が森へ入るための荷物なのだから当然なのだろうが、寝不足の大学生が二人分を背負って山道を歩くにはかなり重い。
ハンスから聞いた通り、崖を右手に見ながら沢を探した。
ほどなく、水音が聞こえてくる。
木立を抜けると、崖から染み出した水が集まった細い流れが谷間を下っていた。
石の間を透明な水が走り、朝日を反射して細かく光っている。岸には腰ほどまで伸びた草が生え、風が通るたび先端についた露を散らした。
悠真はその流れに沿って歩き始めた。
数分も経たないうちに、肩が痛くなった。
「これ半日とか無理だろ……」
ハンスなら普通に運べたのだろうか。
そう考えてから、悠真は背負っていた荷を下ろした。
ふと、昨夜のことを思い出す。
獣を崖の上へ送れた。
石も送れる。
だったら。
悠真は二十歩ほど先を見た。
沢の脇に、大きな平たい岩がある。
その上なら荷物を置ける。
ハンスの荷へ手を触れ、岩の上を意識した。
「そこ」
荷物が消えた。
岩の上に現れる。
「……便利じゃん」
思わず声が出た。
悠真は自分のリュックだけ背負って歩き、岩まで進む。
また先を見る。
今度は倒木の脇。
荷物を送る。
歩く。
拾う。
さらに先へ送る。
最初は岩の端へ危なっかしく載っていた荷物も、何度か繰り返すうちに中心へ置けるようになった。
目標を見る。
そこへ移す。
単純なことなのに、少しずつ感覚が変わっていく。
距離。
形。
置きたい位置。
その三つを意識すると、前よりずれにくい。
「昨日より、うまい」
言った瞬間、足が止まった。
沢の水だけが変わらず流れている。
昨日の俺に、今の俺がいたら。
そこから先を考えたくなかった。
ハンスを運べたかもしれない。
もっと早く能力の使い方に気づいていれば。
もっと正確なら。
もっと遠くへ送れる場所を知っていれば。
頭では、それが後から知ったことだと分かっている。
昨日の自分には何も分からなかった。
それでも胸の奥に生まれたものは、理屈だけでは消えてくれなかった。
悠真は黙って歩き出した。
沢は次第に広くなり、その両側に人の手が入ったような跡が増えていった。
削られた岩。
切り株。
靴底で踏み固められた土。
やがて木々の間が開き、一本の道へ出た。
道の表面は白っぽい粉で覆われ、深い轍が二本、遠くまで続いている。
「石切り場の道……」
ハンスの言った場所だ。
悠真はスマートフォンを起動しないまま、太陽の位置を確認した。
墓を出てから、おそらく二時間ほど経っている。
二時間。
悠真は轍を見たまま立ち尽くした。
「……ハンスは、あと何分って顔をしてた」
この道を知っていたとしても、間に合わなかった。
普通に歩いて二時間。
さらに王都までは半日。
重傷の人間を連れて行けば、もっとかかる。
だから、どうしようもなかった。
理屈では分かる。
「それでも、と思う自分がいた」
もし転移を使っていれば。
もしどこかへ送れていれば。
そんな考えだけがしつこく残る。
悠真は首を振った。
今ここで答えの出ないことを考えても仕方がない。
轍に沿って歩き始めた。
白い石粉がスニーカーへ付着し、歩くたび細かな砂がじゃり、と鳴った。しばらく進むと道が大きく曲がり、その先から動物の荒い鼻息と男の声が聞こえてきた。
「だから動けっつってんだろ!」
悠真は足を速めた。
曲がり角を抜ける。
荷車が止まっていた。
四角く切り出された白い石を何段も積んだ大きな荷車で、その前では茶色いラバが四本の脚を踏ん張っている。車輪の片方が轍の奥へ落ち込み、その後ろに拳よりずっと大きな岩が噛んでいた。
荷車の脇には、ごつい男が一人立っている。
日に焼けた太い腕。
埃まみれの服。
右手には大きな金槌。
悠真に気づいた男が振り返り、警戒するように金槌を持ち直した。
「止まれ。……山賊にしちゃ、ひょろいな」
「山賊じゃないです。……熊に、会って」
男の視線が、悠真の血で汚れたパーカーを上から下までなぞった。
「熊に会って、その格好で歩いてんのか?」
「いろいろありまして」
「いろいろで済む血じゃねえだろ、それ」
もっともだった。
悠真自身、今の自分がどんな姿をしているのか、できれば見たくなかった。
男はしばらく警戒していたものの、悠真が剣どころかまともな武器すら持っていないのを確認すると、金槌をわずかに下げた。
「まあいい。手が空いてんなら押せ。車輪が噛んじまった」
「手伝ったら、道教えてもらえます?」
「王都か?」
「はい」
「なら話は早え。こいつを出せたら、同じ道だ」
悠真は荷物を道端へ置いた。
二人で荷車の後ろへ回る。
「せえので押すぞ」
「はい」
「せえの!」
力を入れる。
動かない。
石を満載した荷車は、悠真の想像以上に重かった。
ラバも前へ進もうと踏ん張るが、車輪が岩へ乗り上げるだけで、また轍の中へ落ちる。
「もう一回!」
男が前を向いた。
その隙に悠真は、車輪の後ろへ食い込んでいる岩を見た。
道端。
誰も見ていない場所。
そこ。
岩が消えた。
次の瞬間、荷車が急に前へ動いた。
「うおっ!」
力いっぱい押していた男がつんのめり、危うく顔から地面へ突っ込みかける。
悠真も慌てて荷台へ掴まった。
車輪は轍を抜け、ラバが何事もなかったように数歩前へ進んだ。
男が振り返る。
轍を見る。
道端を見る。
もう一度、轍を見る。
「……おい。今の岩、どこ行った」
悠真は道端へ移した岩をちらりと見た。
「……最初から、そっちにあったんじゃないですか」
男は悠真を見る。
悠真も男を見る。
朝の風が二人の間を通り過ぎ、道端の草がさらさらと揺れた。
男はしばらく何も言わなかった。
やがて金槌を肩へ担ぎ、岩をもう一度見た。
「……運がいいな、俺ら」
「ですね」
悠真はそれ以上、何も言わなかった。




