第2話後半 この魔法、何の役に立つんだ
ハンスはそれ以上、転移のことを聞かなかった。
悠真も、もう小石へ手を伸ばさなかった。
助けるための力になるかもしれないと思ったものが、使い方を間違えれば人を空から落とす力になる。その事実が分かってしまった今、傷だらけのハンスを試しに飛ばすなどできなかった。
霧の向こうでは、枝葉が風に擦れ合っている。熊が落ちた時に舞い上がった土埃はほとんど沈んでいたが、鉄臭い空気だけはまだ崖の下に残っていた。
しばらくして、ハンスが乾いた唇を動かした。
「水、あるか」
「あ、ある」
悠真は慌ててリュックを開き、残っていたペットボトルを取り出した。
透明な容器を見たハンスの眉が、わずかに寄る。
「……なんだこれ。透明な、革袋か」
「革じゃないけど……まあ、今はいいか」
上半身を無理に起こさないよう首の下へ手を添え、少しずつ水を口へ流した。
ハンスの喉が動く。
一度むせ、そのたび胸の奥から湿った音がしたが、それでももう一口を求めるように唇を開いた。
「……うまいな」
ただの水なのに、その言葉を聞いた瞬間、悠真はボトルを持つ手へ余計な力が入るのを感じた。
日本なら、蛇口をひねればいくらでも出てくる。
自販機でもコンビニでも買える。
そんなものを、死にかけている男が宝物のように飲んでいる。
何口か飲ませると、ハンスは小さく首を振った。
「もう、いい」
悠真はボトルをしまった。
傷口を見ないようにしても、呼吸のたび胸の片側が不自然に動くのが視界へ入る。腹部を覆う服は黒く濡れ、折れた脚は土の上でまったく動かなかった。
それでもハンスは、苦痛を訴えるより先に自分たちがここへ来た理由を話し始めた。
「石切り場の人夫が消えたって、届けがあってな。……調べるだけの依頼だった」
途中で一度息を整える。
「血の跡を追おうって言ったのは、俺だ」
声に自分を責める響きが混じった。
「テオは、弦が切れるまで射った」
ハンスの視線が、土と枝に埋もれた一角へ動いた。
「ニナは……最後に、俺の傷を塞いだ。だから俺だけ、よけいに生きちまった」
悠真は返事を探した。
けれど、「あなたのせいじゃない」と言えるほど何も知らない。
そう言えば慰めになるのかさえ分からない。
結局、黙って聞いた。
ハンスも返事を求めてはいなかった。
「王都は……崖を右に見て、沢を下れ。石切り場の道に出たら、轍を……朝日の方へ」
悠真は教えられた順番を頭の中でもう一度なぞった。
崖を右。
沢を下る。
石切り場の道へ出る。
轍を朝日の方へ。
「王都に行けば、人がいるんだよな」
「ああ」
ハンスは目を閉じた。
呼吸が一度途切れたように見え、悠真は思わず身を乗り出したが、少し遅れて細い息が戻ってきた。
「……頼みがある」
「何?」
「札を、三枚。ギルドに持ってってくれ」
悠真は枝に掛かっていた金属札を思い出した。
ニナの首元にも似た札があり、ハンスも同じ形のものを身につけている。
「持ってったら、どうなる」
「鐘が鳴る」
「鐘?」
「死んだって認められたら……一人に一回、鳴るんだ。帰還の鐘っつってな」
ハンスは短く息を吐いた。
「……親父のは、鳴らなかった。死体が見つからなくてな。母さんは今でも……親父を待ってる」
声が少しだけ弱くなる。
「行方不明のままじゃ、待ってる奴は、泣くこともできねえんだ」
悠真はハンスの顔を見た。
母親に生きて帰りたい、と言っているのではない。
もう帰れないと分かっているからこそ、せめて死んだことだけは届けてほしいと言っている。
「俺の鐘は、ちゃんと鳴らしてくれ。……母さんが、泣けるように」
「……分かった」
それ以上の言葉を足せなかった。
約束だけは曖昧にしたくなかった。
ハンスの目が、悠真のパーカーのポケットへ向いた。
「それと……テオの鳥」
「これ?」
悠真は木彫りの小鳥を取り出した。
片方の翼には細かな羽根が彫られているのに、反対側は途中で止まっている。
「姉貴に渡してやってくれ。ソフィ。パン屋の。……毎晩、ギルドで待ってる、はずだ」
テオ。
その名を聞いて、悠真は森で見つけた金属札を思い出した。
札に刻まれていた文字そのものは、不思議なことに意味として理解できていた。そこに記されていた「テオ・ラング」という並びが、今初めて木彫りの鳥を作っていた誰かの名前としてつながった。
文字は読める。
なのに、その人間がどんな顔で、どんな声で、この鳥を削っていたのかは何も分からない。
悠真は未完成の翼を親指でそっと撫でた。
毎晩待っている姉へ渡すためだった。
「帰るまでが依頼だ、ってな。……ギルドの講習で、いちばん最初に教わるんだ」
ハンスの口元がわずかに歪んだ。
「……帰れなかったな、俺ら」
悠真は木彫りの鳥を握ったまま、土の山を見た。
三人をここへ置いて、自分だけ町へ行く。
それが帰ることだとは思えなかった。
だから、できる範囲でいい。
札と鳥を届ける。
名前を届ける。
待っている人のところまで、せめてその事実を持っていく。
「……俺が、連れて帰る」
ハンスが薄く目を開けた。
しばらく悠真を見てから、小さく息を吐く。
「……頼むわ、ユウマ」
この世界で初めて、誰かに名前を呼ばれた。
たったそれだけのことなのに、胸の奥へ何かが残った。
風が崖に沿って流れ、頭上の葉を揺らした。木漏れ日が霧の中でゆらぎ、土の上に落ちた光の形がゆっくり変わっていく。
ハンスがしばらく目を閉じたあと、かすれた声で尋ねた。
「お前の国は、どんなとこだ」
悠真は少し考えた。
日本という名前を出しても、おそらく何も伝わらない。
何を説明すればいいのか迷った末、最初に浮かんだ景色をそのまま言葉にした。
「……霧が出ても、迷わない国。道に全部、名前がついてて。夜でも、明るくて」
今朝まで、何とも思っていなかったものばかりだった。
駅までの道。
電柱。
街灯。
コンビニ。
スマートフォンの地図。
失って初めて、それがどれだけ便利だったのかを思い知る。
ハンスの口元がわずかに緩んだ。
「……いいとこ、だな」
「住んでる時は、そんなふうに考えたことなかったけど」
返事はなかった。
眠ったのかと思った。
だが少しして、ハンスの唇がもう一度動いた。
「……お前は、ちゃんと帰れよ」
悠真は息を止めた。
ついさっき、日本へ小石一つ送れないことを確かめたばかりだった。
帰る方法など何も分からない。
それでも、その事実を今ここで口に出す気にはなれなかった。
「……うん」
ハンスの胸が、ゆっくり沈んだ。
悠真は次の呼吸を待った。
来ない。
森の中では風が鳴っていた。
枝が擦れ、遠くで鳥が鳴く。
世界には音が残っているのに、目の前の男からだけ音が消えた。
「ハンス?」
返事はなかった。
開いたままの目が、霧の薄くなった空を見ている。
悠真は震える指を伸ばし、まぶたへ触れた。
ドラマでは簡単に閉じていた。
実際には、手を離すと少し戻ってしまう。
何度も触ることが嫌になり、悠真はしばらく掌をそのまま置いた。
日差しは、いつの間にか真上を少し過ぎていた。
悠真は三枚の札を集めた。
枝へ引っかかっていた札には、テオ・ラング。
ニナの首元にあった札には、ニナ・ブラム。
そしてハンスが身につけていた札には、ハンス・ロイ。
形そのものは似ているが、それぞれに違う名が刻まれている。
見慣れない文字なのに、読むことだけなら不思議なくらい自然にできた。
日本語へ置き換えて考えている感覚とも少し違う。文字を見れば、その音と意味が最初から頭の中へ入ってくる。
だが、試しに指先で土の上へ同じ文字を書こうとして、悠真は手を止めた。
「……書けないのか」
形を見れば分かる。
読めば意味も分かる。
ところが何も見ずに再現しようとすると、線の順番も細かな形も頭から抜け落ちてしまう。
妙な感覚だった。
会話もできる。
読むこともできる。
なのに、自分の手から出てくる文字だけは日本語のままだ。
「中途半端だな……」
今すぐ困るわけではない。
札そのものを持っていけばいい。
悠真は三枚をそれぞれ確かめ、リュックの内側へ丁寧に収めた。
ニナのところへ戻り、半分開いていた目にも触れた。
ハンスと同じように、すぐにはうまく閉じなかった。
「……ごめん」
何に対して謝ったのか、自分でも分からなかった。
この世界で死者をどう弔うのか知らない。
土へ埋めるのか。
焼くのか。
何か祈りを捧げるのか。
悠真に分かるのは、このまま置けば夜になれば獣が来るということだけだった。
崖の下には、大きな石がいくつも転がっている。
普通なら、とても一人で動かせない。
悠真はその一つを見た。
次に三人のいる場所を見る。
そこ。
石が消え、音もなく土の上へ現れた。
二つ目。
三つ目。
昨日までなら、何人がかりでも苦労しそうな大きさの石が、一つずつ三人を覆っていく。
便利だった。
恐ろしくもあった。
熊を殺した力と、今この石を運んでいる力が、まったく同じものだとはまだうまく受け止められない。
荷物運びみたいな魔法の、最初の仕事は、墓だった。
最後に、表面の平たい石を一つ選んで上へ置いた。
悠真は先の尖った小石を拾う。
三枚の札をもう一度確かめた。
テオ・ラング。
ニナ・ブラム。
ハンス・ロイ。
現地の文字を見ながらなら写すこともできるかもしれない。
けれど、そうはしなかった。
今、自分が確実に書ける文字で残したかった。
平たい石の表面へ、小石の先を押しつける。
ハンス。
テオ。
ニナ。
カタカナで、一文字ずつ刻んでいく。
石が硬く、線は何度も歪んだ。
指先も痛くなった。
それでも途中でやめなかった。
この文字を、この世界の人間が読めるとは思わない。
それでいい。
「読めなくていい。俺が覚えてるって、印だ」
三人の名を刻み終えると、悠真は小石を置いた。
墓の前へ座り込む。
ハンスの荷物を確かめると、固いパンと干し肉、それから火打ち石が入っていた。
勝手に食べることを一瞬ためらったが、何も食べなければ自分も動けなくなる。
悠真はパンを手に取った。
「……いただきます」
噛んだ。
固い。
顎が痛くなるほど固く、味も薄い。
それでも何度か噛んでいるうちに、視界が滲んだ。
悠真は俯いた。
涙がパンの表面へ落ちる。
一滴だけではなかった。
止めようとは思わなかった。
日が傾くにつれ、崖の下には早く影が落ちた。
空にはまだ明るさが残っているのに、森の地面は急速に色を失っていく。
湿った空気が冷え、汗の乾いた服が肌へ冷たく張りついた。
悠真は集めた枯れ枝の前で火打ち石を打った。
火花が散る。
もう一度。
小さな光が一瞬だけ生まれて消える。
「なんでつかないんだよ……」
やり方が悪いのか、枝が湿っているのかも分からない。
何度試しても火は残らなかった。
やがて手元さえ見えにくくなり、悠真は諦めてスマートフォンを取り出した。
電源を入れる。
残量は四パーセント。
「減りすぎだろ……」
ぼやきながらライトを点けた。
白い光が闇を細く切り取る。
三人の墓。
湿った土。
盛り上がった木の根。
数歩先には、落下したままの巨大な熊の死骸がある。
昼間よりも、夜の方が匂いが濃く感じられた。
悠真は周囲を確認するため、ゆっくりスマートフォンを横へ向けた。
光が木々の間を走る。
止まった。
光の先に、目が並んでいた。
ひとつ、ふたつ——悠真は、数えるのをやめた。




