第2話前半 この魔法、何の役に立つんだ
悠真は、血でぬかるんだ地面を四つん這いで進んだ。
手が滑る。膝が滑る。それでも、土の下から伸びたあの手だけは見失わなかった。
熊が落ちた衝撃で崩れた土は、表面だけなら柔らかい。だが指を差し込んで少し掘ると、雨と重みで締まった土が粘るように爪の間へ入り込み、細い木の根が何本も邪魔をした。
「待ってろ……今、出すから」
声をかけても返事はない。
それでも、土から突き出た男の指は、確かに一度動いた。
そのわずかな動きだけを頼りに、悠真は両手で土を掻き出した。
ひと掴み。
もうひと掴み。
指先へ小石が当たり、爪の端がめくれる。
「っ……」
鋭い痛みが走った。
反射的に手を引きかけたが、すぐに土へ戻した。
悠真は痛いことが嫌いだった。
注射も嫌いだし、運動で筋肉痛になることさえできれば避けたい。小さい頃から転んで膝を擦りむけば、それだけで一日中気にするような人間だった。
だが今は、そんな自分の性格がどうでもよかった。
痛い。
……知るか。
腕の周囲を掘る。
手首。
肘。
肩。
少しずつ人間の形が出てくるにつれ、逆に焦りが強くなった。
もし途中で動かなくなったらどうする。
さっき一度動いたからといって、まだ生きている保証などない。
「おい! 聞こえるか!」
返事はない。
「今、顔出すから! もう少しだから!」
聞こえているかも分からない相手へ、悠真は必死に話しかけ続けた。
顔の位置を予想し、そこだけは指を立てず慎重に土を崩す。
湿った髪が見えた。
額。
頬。
若い男だった。
口元まで土に埋まっている。
悠真は指で泥を掻き出し、唇の間へ詰まった土を取り除いた。
「おい! 聞こえるか!」
男の喉がひくりと動いた。
次の瞬間、体全体が痙攣するように震えた。
「げほっ……げほっ!」
激しく咳き込み、泥混じりの唾液を吐き出す。
「生きてる……」
悠真の口から、勝手に言葉が漏れた。
昨日から見つけた人間は、誰も動かなかった。
若い女も。
土から突き出ていたブーツの持ち主も。
初めて、生きている人間だった。
「大丈夫か!?」
叫んでから、自分でもおかしな質問だと思った。
大丈夫なわけがない。
男は土に半分埋まり、顔には血の気がなく、唇は冷え切ったように青かった。
それでも目が薄く開いた。
焦点の合わない視線が悠真を通り過ぎ、その向こうを探す。
「……熊、は」
かすれた声だった。
最初にそれを聞くのか。
悠真は一瞬答えに詰まり、振り返った。
数歩先には、落下して原形を失った巨大な熊が転がっている。
「落ちてきた」
男の目がわずかに動く。
「……は?」
「空から。落ちて、死んだ」
悠真は説明しながら、自分でも意味の分からないことを言っていると思った。
男も同じだったらしい。
熊だったものへ目を向け、次に悠真を見た。
「……なんだ、それ」
笑おうとした。
だが口元がほんの少し動いたところで、その表情が強く歪む。
息を吸っただけで、胸の奥から湿った嫌な音がした。
「動くな。今、全部出すから」
悠真は男の脇へ腕を差し入れた。
土から引き抜こうと、ほんの少し力をかける。
「……引っ張るな!」
突然の大声に、悠真は反射的に手を離した。
男は歯を食いしばったまま何度か浅く息をし、痛みが引くのを待っている。
「腹の中が、ずれる」
「……ごめん」
その言葉が何を意味しているのか、詳しく考えたくなかった。
ただ、無理に動かしてはいけないことだけは分かった。
「じゃあ、周り掘る。触らないようにするから」
悠真は男の体を持ち上げるのをやめ、左右から少しずつ土を除けていった。
肩。
胸。
腹。
脚。
掘り出せば助けられると思っていた。
だが、土の中から体が現れるほど、その期待は逆に削られていった。
腹には、獣の爪で横薙ぎにされたような傷が走っている。
衣服は血を吸い、乾いた部分とまだ湿っている部分が入り混じって黒く見えた。
胸は左右で形が違っていた。
片側だけが不自然に沈み、男が息をするたび、その奥から小さな泡が弾けるような音がする。
左脚は途中から向きがおかしい。
折れているという言葉では足りないほど、自然な角度から外れていた。
しかも、この状態で一晩。
冷たい土の中にいた。
「……」
悠真の手が少し遅くなった。
それでも止めることはできなかった。
「……お前、誰だ」
男が目を半分だけ開けた。
「冒険者じゃ、ねえな」
「相馬悠真。……ただの、学生」
「ソウマ、ユウマ」
一音ずつ確かめるように繰り返す。
弱っているのに、その顔へほんの少しだけ怪訝な表情が浮かんだ。
「……変な名前だな」
「そっちではそうなんだろうな」
思わず返す。
男の口元がまた少しだけ緩んだ。
今度は痛まないように、笑うところまで行かなかった。
「俺は、ハンス。第七等。……この三人組の、頭だ」
三人組。
悠真の手が止まりかけた。
ハンスの視線が、悠真の肩越しへ向かう。
「……ニナは」
悠真は土の山を見た。
半分開いた目。
冷たくなった顔。
言葉にすることができず、ゆっくり首を横へ振る。
ハンスは目を閉じた。
呼吸が一度だけ乱れた。
しばらくして、またまぶたが上がる。
「……テオは」
もう一度、悠真は首を振った。
それだけだった。
ハンスは叫ばなかった。
誰かを責めもしない。
目を閉じたまま、何度か浅い呼吸を続ける。
その横顔を見ながら、悠真は言葉を探した。
けれど何も出てこなかった。
会って数分の自分に何が言えるのか。
大丈夫だと言える状態ではない。
残念だったと口にするには軽すぎる。
悠真は代わりに、もう一度土へ手を入れた。
今は話すより、何かするしかなかった。
だが何をする。
傷を治す方法はない。
包帯もない。
薬もない。
救急車を呼ぶこともできない。
病院の場所も知らない。
そもそも、この世界に病院と呼べるものがあるのかすら分からなかった。
そこで悠真の頭に、さっき熊が消えた瞬間が浮かんだ。
目の前にいた巨大な熊が、一瞬でいなくなった。
数秒後、空から落ちてきた。
もしあれが、自分の力なのだとしたら。
場所さえ間違えなければ。
この人をどこか安全な場所まで運べるのではないか。
思いついた瞬間、胸の奥へ希望が生まれた。
同時に、崖の下で潰れている熊が視界へ入る。
悠真は表情を硬くした。
いきなり人間では試せない。
自分が何をしたのかさえ、まだ分かっていない。
「ちょっと待ってて」
「……何すんだ」
「分からない。だから、先に確かめる」
悠真はハンスから数歩離れ、地面に落ちていた小石を拾った。
親指の先ほどの大きさ。
軽い。
これなら失敗しても、誰も傷つかない。
掌へ載せる。
熊を消す直前の自分を思い出した。
右手。
目の前の熊。
恐怖。
その向こうに見えた白い空。
そして。
消えろ。
どこか遠くへ。
そう思った。
悠真は無意識に顔を上げた。
巨木の枝の切れ間から、霧で白くなった空が見える。
そこを見ながら。
遠くへ。
頭の中で念じる。
手の中から感触が消えた。
「……っ」
悠真は掌を見る。
ない。
小石が消えている。
熊の時と同じだ。
光もない。
音もない。
ただ、そこにあった物だけがなくなる。
悠真は周囲を見た。
右。
左。
後ろ。
どこにもない。
胸が速くなる。
失敗したのか。
それとも、本当にどこかへ。
一。
二。
三。
熊が戻ってきた時を思い出し、無意識に数を数える。
四。
五。
六。
七。
八。
こつん。
背後で小さな音がした。
悠真は振り返った。
落ち葉の上を、小石が一度跳ねて転がっている。
「……」
見上げる。
白い空。
次に、熊の死骸。
小石。
もう一度、空。
背中を冷たいものが流れた。
「……俺が、上に飛ばしたんだ」
熊は消えたのではない。
移動した。
しかも、最後に見ていた場所へ。
少なくともその可能性が高い。
「上に上げるだけで、殺せる」
小さく呟いた声が、妙に重く聞こえた。
高い場所へ送る。
落ちる。
それだけ。
相手が熊でも、人間でも、落下することに違いはない。
悠真は指を握った。
能力を見つけた喜びはなかった。
むしろ、手に知らない武器を握らされたような気分だった。
だが今は、怖がっているだけでは何も進まない。
使い方を変えればいい。
落とさないように。
近い場所へ。
地面の上へ。
悠真は別の小石を拾った。
五歩ほど先に、太い木の根がある。
苔が生え、地面から大きく盛り上がっている。
その中央へ視線を固定する。
今度は「遠く」ではない。
場所を決める。
あそこ。
小石が消えた。
耳のそばで、空気がわずかに鳴った。
ぱち、とも、ふっ、とも言えない小さな音。
ほとんど同時に、木の根の上で石が転がった。
「できた……」
悠真はすぐに近づいた。
間違いない。
今まで掌にあった小石が、根の上に載っている。
空から落ちたわけではない。
高さは変わっていない。
狙った場所へ直接移ったように見える。
胸の奥へ希望が戻った。
だが、そのままハンスへ使う気にはなれなかった。
一回うまくいっただけだ。
人間の命を預けるには、少なすぎる。
悠真はもう一つ石を拾った。
今度は木の根をしばらく見て、その形を頭に焼きつける。
目を閉じた。
苔の色。
根の曲がり方。
落ち葉の位置。
そこへ。
手が軽くなる。
目を開く。
石は根の上にない。
「……え」
視線を下げると、根の横の土に落ちていた。
さっき狙った場所から、手のひら一つ分ほどずれている。
悠真はしゃがんだ。
「見えてる方が、狙いやすい……?」
そう見える。
ただし、たった一度の失敗だ。
目を閉じたせいかもしれない。
集中が足りなかったのかもしれない。
条件はまだ分からない。
少なくとも。
今の自分が人間を動かすなら、見えている場所へ飛ばす方が安全そうだ。
そう考えていた時、手の甲へ小さな感触があった。
一匹の甲虫が止まっている。
黒い殻に光が反射していた。
悠真はその虫を見つめた。
物だけでは足りない。
熊には使えた。
生き物も移動できる。
ただ、熊は死んだ。
落下したから死んだのか。
それとも、転移そのものが体に何か影響を与えたのか。
確認する必要がある。
悠真は指を差し出し、甲虫を手の甲から移した。
小さな脚が皮膚の上を歩く。
少し迷う。
虫とはいえ、生きている。
もし消えて戻らなかったら。
もし現れた時に死んでいたら。
それでも、ハンスへ使う前に確かめなければならない。
悠真は木の根を見る。
低い場所。
落ちても問題のない高さ。
「……そこ」
甲虫が消えた。
すぐに視線を移す。
いた。
黒い虫が木の根の上を歩いている。
脚を動かし、何事もなかったように苔の上へ進んでいく。
悠真は長く息を吐いた。
転移しただけで死ぬわけではない。
少なくとも、今の甲虫は無事だった。
「ハンス」
悠真は振り返った。
「あんたを飛ばせるかもしれない」
ハンスが目を開けた。
その顔へ希望が浮かんだようには見えなかった。
ただ、短く聞いた。
「……どこに」
悠真の口が止まった。
周囲を見回す。
霧。
巨木。
崖。
二十歩、三十歩も進めば、白い霧と木の幹に視界を遮られる。
人家はない。
道もない。
遠くから煙が上がっているわけでもない。
安全な場所がどこにあるのか分からない。
移動させられる。
でも、行き先がない。
「……病院」
悠真の口から、反射的に言葉が出た。
日本。
駅前の病院。
何度も通った場所。
外観も知っている。
自動ドア。
白い壁。
救急車が入るロータリー。
今は見えない。
だが、頭の中にははっきり浮かべられる。
記憶だけでも届くなら。
悠真は小石を一つ握った。
病院の入口を思い浮かべる。
ガラス戸。
舗装された地面。
白い建物。
そこへ。
小石は消えなかった。
「……」
掌に残っている。
悠真は眉を寄せた。
「もう一回」
今度は目を閉じた。
できるだけ鮮明に思い出す。
駅から歩いてくる道。
駐車場。
救急入口。
あそこへ。
力を込めるような感覚はない。
ただ願う。
それでも。
石は、手のひらの上で一ミリも動かなかった。
悠真は目を開けた。
同じ小石が、同じ場所にある。
「……びょういん?」
ハンスが聞いた。
「……俺の国の、治療院」
日本には、届かない。
その事実が、妙に静かに胸へ落ちた。
自分が帰れるかどうかを試したわけではない。
ハンスを助けるために、日本を目的地にした。
初めてだった。
それでも。
届かない。
悠真は小石を握り込んだ。
嘆いている時間はない。
だったら他の方法を考える。
「じゃあ、見える所まで、何回でも——」
「お前、手、震えてるぞ」
ハンスの声で言葉が止まった。
「……え?」
右手を見る。
指が細かく震えていた。
いつからだ。
能力を試していた時か。
病院へ届かなかった時か。
熊を思い出した時か。
「震えてねえよ」
反射的に否定する。
自分でも馬鹿な返事だと思った。
「震えてる」
ハンスは笑わなかった。
視線が悠真の手から、その向こうへ動く。
崖の下。
熊の死骸。
「熊みたいに、俺を空に上げたら?」
悠真の息が止まった。
落下音が、耳の奥へ戻ってきた。
地面が揺れた感触。
温かい血。
あれがハンスだったら。
「……」
答えられない。
「……やめとけ」
ハンスが言った。
「でも」
「それに、たぶん、もう持たねえ」
「そんなの、分かんないだろ」
「分かるんだよ。冒険者だからな」
その声には、投げやりな響きがなかった。
自分の傷を何度も見てきた人間が、自分の状態を判断している声だった。
だからこそ、悠真には受け入れにくかった。
見える場所へなら飛ばせる。
何度か繰り返せば、少しずつでも移動できる。
もしかしたら道が見つかる。
人がいるかもしれない。
その可能性を捨てることができない。
だが、ハンスの体を見れば、転移以前の問題もある。
腹の傷。
潰れた胸。
折れた脚。
少し持ち上げるだけでも激痛が走る。
自分を飛ばせば早い。
——壁の中に出たら?
石の中に出たら?
考えただけで、膝が笑った。
小石ですら、記憶だけで飛ばせば位置がずれた。
そのずれが、人間の体で起きたら。
木の幹と重なったら。
岩と重なったら。
地面へ半分埋まるような形で現れたら。
分からない。
何も分からない。
分からない力を、死にかけている人間へ使う。
それを「助けるためだから」で正当化していいのか。
「くそ……」
悠真は奥歯を噛んだ。
やらなければ死ぬかもしれない。
やっても死ぬかもしれない。
失敗したら、自分が殺す。
その事実だけが重かった。
「なんで逃げねえ」
ハンスが不意に聞いた。
悠真は顔を上げた。
「熊の血の匂いで、じきに何か来るぞ」
周囲は静かだった。
だからこそ、遠くで枝が擦れる音まで聞こえる。
確かに、この場所へ獣が来ない保証はない。
熊の死骸。
血。
人間の死体。
匂いは森の中へ広がっている。
合理的に考えるなら、今すぐ逃げるべきだった。
ハンスは助からない可能性が高い。
自分まで死ぬ必要はない。
そう考えること自体は簡単だった。
だが。
ここから一人で歩き出す自分を想像した。
背中の後ろにハンスを残す。
何時間かして。
あるいは何日かして。
もし安全な場所へ着いた時。
自分は絶対に思う。
あの時、もう少しできたんじゃないか。
そう思う自分だけは、嫌になるほど簡単に想像できた。
「……見捨てたら、後味悪いだけだよ」
格好いい理由ではない。
正義でもない。
誰かを救う使命感があるわけでもない。
ただ、後で自分が嫌になるのが嫌だった。
ハンスは薄く目を開け、しばらく悠真を見た。
「変な奴だな」
「さっき名前も変だって言われた」
ほんの少しだけ、ハンスの口元が動いた。
悠真は自分の手のひらを見た。
この手で。
あの巨大な熊を消した。
小石を移動させた。
目に見える場所なら、かなり近い位置へ送れる。
小さな生き物も傷つけずに動かせた。
だけど。
今、一番動かしたい人間を安全な場所へ運べない。
使える力はある。
目的もある。
それなのに。
「熊は殺せて、人ひとり運べないって……こんなの、何の役に立つんだ」
悔しさが混じった。
能力が弱いからではない。
むしろ強すぎるのかもしれない。
それでも今は役に立たない。
ハンスはすぐには答えなかった。
呼吸を一つ吸う。
途中で少し止まり、苦しそうに吐く。
目を閉じたまま、しばらくして。
「……役に、立つさ」
かすかな声だった。




