第1話後半 異世界転移したのに何もないと思ったら
背後で、太い枝が折れた。
ばきり、と乾いた音が森の静けさを割った瞬間、悠真の肩が反射的に跳ねる。さっきまで耳障りなほど聞こえていた蠅の羽音さえ、その一瞬だけ遠のいた気がした。
振り返る。
霧の向こうに、黒い影があった。
木の幹ではない。輪郭がゆっくりと動き、白い霧を押し分けながら、こちらへ近づいてくる。
最初に見えたのは頭だった。
次に肩。
そして、その全身が霧の中から現れた時、悠真は息をすることさえ忘れた。
熊だった。
そう呼ぶしかない生き物ではある。
だが、悠真が動物園や映像で見た熊とは明らかに違っていた。四つ脚のままでも肩は悠真の胸近くまであり、黒褐色の毛に覆われた背中から両肩へかけて、灰色の硬い板のようなものが瓦のように幾重にも重なっている。
皮膚でも毛でもない。
岩か金属をまとっているような異様な姿だった。
そして、口の周りが赤い。
まだ乾いていない。
熊が鼻先を上げると、湿った息が白く広がった。
カチ。
顎が鳴る。
もう一度。
カチ、カチ。
牙が触れ合う小さな音なのに、悠真の耳にはすぐ近くで金属を打ち合わせているように響いた。
視線が、熊から土の山へ動く。
若い女の死体。
中身の入ったブーツ。
折れた弓。
散らばった荷物。
そしてまた、熊へ戻る。
考えるまでもない。
こいつが埋めた。
悠真の喉がひくりと動いた。
唾を飲もうとしたのに、口の中がからからに乾いている。
頭では逃げろと叫んでいた。
だが脚が動かなかった。
熊も、すぐには襲ってこない。
こちらを見ている。
いや、自分ではなく、土の中に隠していた獲物を見ているのかもしれない。
そんな希望に縋りたくなった。
悠真の頭に、昔テレビで聞いた熊対策が断片的に浮かぶ。
目を離さない。
背を向けて走らない。
刺激せずに、ゆっくり距離を取る。
知識としてなら簡単だった。
目の前に、自分より何倍も重い生き物が立っていなければ。
「……ゆっくり。そう、ゆっくり」
自分へ言い聞かせながら、右足を半歩下げた。
落ち葉が、さく、と鳴る。
熊は動かない。
もう半歩。
まだ来ない。
胸の奥では心臓が痛いほど鳴っていた。
いけるかもしれない。
そう思いかけた時、熊の前脚が動いた。
ずし、と土を踏む。
悠真も下がる。
熊がもう一歩。
距離が縮まる。
ゆっくり下がれ。
背中を見せるな。
分かっている。
知っている。
それなのに、熊が三歩目を踏み出した瞬間、悠真の体は頭の命令を無視した。
「無理だろ!」
背を向けて走った。
直後、地面を叩く重い音が背後から追ってくる。
速い。
予想していたよりはるかに速い。
悠真は木々の間へ飛び込み、伸びた枝を腕で払いながら走った。足元には濡れた落ち葉が積もり、その下には木の根や石が隠れている。何度も足を取られかけ、スニーカーの底が土を滑った。
肺が一気に苦しくなる。
徹夜明けの体だった。
朝からまともに何も食べていない。
運動部でもない。
そんなことは熊には関係ない。
背後で枝が折れる。
太い木へ肩でもぶつけたのか、幹全体が震え、葉が雨のように降ってきた。
熊は時速四十キロで走る。
人間は、逃げ切れない。
以前どこかで聞いた数字だけが、なぜか鮮明に蘇った。
「知ってるよ、そんなの……!」
息を吐くたび喉が焼ける。
逃げ切れないと知っている。
それでも走るしかない。
右へ曲がる。
太い木を間に挟めば少しは時間を稼げると思ったが、熊は速度をほとんど落とさなかった。巨体で低木を押しつぶし、枝をへし折りながら追ってくる。
荒い鼻息が近い。
悠真は後ろを見なかった。
見る余裕がない。
その時、右足のつま先が、落ち葉の下から張り出した木の根へ引っかかった。
「あっ」
体が前へ投げ出される。
反射的に手をつこうとしたが間に合わず、肩から地面へ落ち、そのまま勢いで仰向けになった。
背中へ衝撃が走る。
肺の空気が一気に押し出された。
「かっ……」
息ができない。
起きなければ。
頭では分かっているのに、体が動かない。
ようやく肘をついた時には、熊がもう数歩先まで迫っていた。
黒い巨体が止まる。
前脚が地面から離れた。
後ろ脚だけで立ち上がる。
悠真の視界が、熊の腹と胸で埋まった。
でかい。
そんな陳腐な感想しか出てこなかった。
背中を覆う灰色の板が擦れ合い、低い音を立てる。口が開き、湿った赤い舌と、その周囲に並ぶ牙が見えた。
熊が前脚を持ち上げる。
一本一本の爪が、悠真の指より長い。
あれが振り下ろされたら。
考えた瞬間、胃の奥が縮んだ。
怖い。
死にたくない。
嫌だ。
頭の中から、それ以外のものが全部消えた。
悠真は地面に倒れたまま、右手を上げた。
森へ来た直後、何も出ないステータス画面を呼ぼうとしていた時と、ほとんど同じ手つきだった。
何でもいい。
今度こそ何か出ろ。
火でも、雷でも、光でもいい。
熊の頭の向こうには、霧に覆われた白い空が見えていた。
目を閉じる寸前、その白さだけが妙にはっきりと視界へ残る。
消えろ。
頭の中に浮かんだ。
呪文でもない。
能力の名前でもない。
ただ、ここからいなくなれと思った。
消えろ、どこか遠くへ。
熊が消えた。
前脚が振り下ろされることはなかった。
咆哮もない。
光もない。
大きな音もない。
そこにあった巨体だけが、突然なくなった。
熊に押し退けられていた霧が、空いた形へ流れ込む。
ぼふっ、と湿った空気が潰れるような音がした。
悠真は右手を上げたまま、動けなかった。
目を瞬く。
熊はいない。
立ち上がる。
右を見る。
木しかない。
左。
霧だけ。
背後にもいない。
「……は?」
自分の声だけが森へ落ちる。
「……は? 消えた? 俺? 今の、俺? ステータス出なかったのに?」
口元から乾いた笑いが漏れた。
笑うような場面ではない。
自分でも分かっている。
それでも笑わなければ、別の何かが出てきそうだった。
悠真は右手を見つめた。
普通の手だ。
火傷もない。
模様も浮かんでいない。
何かを使った感覚さえない。
ただ「消えろ」と思った。
それだけ。
なのに、熊はいなくなった。
「魔法……なのか?」
胸の奥に、遅れて熱が生まれた。
何もないと思っていた。
ステータスも出ず、火も出せず、収納もできず、キノコにまで額を殴られた。
それなのに。
自分にも、何かがある。
助かったという安堵と、能力を見つけた興奮が一緒になり、呼吸が少しだけ速くなる。
次に何ができるのか考えようとして、悠真はふと止まった。
「……どこに消えた?」
遠くへ。
そう願った。
だが、「遠く」がどこなのかは考えていない。
山の向こうか。
森の反対側か。
もっと遠い場所か。
それとも。
自分でも分からない。
熊がどこかでまだ生きているのなら、それでいい。
そう思った。
少なくとも、目の前からはいなくなった。
悠真はその場へ座り込んだ。
膝が震えていた。
逃げている時には気づかなかった。
手も震えている。
指を握っても止まらない。
静かだった。
熊が木々を壊しながら追ってきた騒音が嘘だったように、森はまた元の静けさへ戻っている。
鳥も鳴いていない。
聞こえるのは、悠真自身の荒い息だけだ。
一度、深く吸う。
吐く。
もう一度。
それでも心臓は速い。
何となく、数を数え始めた。
一。
二。
三。
ただ数える。
四。
五。
少しずつ呼吸が整う。
六。
七。
八。
九。
十。
その頃だった。
ひゅう、と細い音がした。
風だと思った。
だが周囲の葉は揺れていない。
音だけが、上から近づいてくる。
「……何?」
悠真は顔を上げた。
白い霧。
その一部が、小さく黒く凹んでいる。
黒点は急速に大きくなった。
風切り音も強くなる。
ひゅうううう、と耳を刺す。
悠真は立ち上がった。
黒い影の輪郭が見えてくる。
四本の脚。
大きな胴。
灰色の背中。
理解した瞬間、全身の血が引いた。
「……うそだろ」
熊だった。
さっき消した熊が、空から落ちてくる。
「なんで上から!?」
悠真は横へ飛んだ。
地面を転がる。
次の瞬間、熊の巨体が崖の下へ叩きつけられた。
音より先に、衝撃が来た。
地面が持ち上がったように感じた。
腹の奥を殴られ、耳の奥で低い音が響く。
土と落ち葉が一斉に舞い上がり、周囲の木々が大きく揺れた。枝から葉が降り注ぎ、細かな石が弾かれて悠真の靴や腕へ当たる。
そして熊の体が壊れた。
灰色の甲板が衝撃に耐えきれず割れ、毛皮を突き破って骨が飛び出す。腹が裂け、赤黒いものが周囲へ飛び散った。
悠真は目を逸らせなかった。
脳が理解を拒否しているのに、視界だけは鮮明だった。
頬へ何かが当たる。
温かい。
次は首。
肩。
腕。
細かな飛沫が雨のように降ってくる。
鉄の匂いが一気に濃くなった。
悠真はゆっくり頬へ手を当てた。
指先が赤く染まる。
「……なんで、上から」
声が震えた。
熊を消した。
十秒ほど経った。
空から落ちてきた。
それだけなら、何かの偶然だと言い張ることもできたかもしれない。
だが悠真の頭には、さっき最後に見た景色が残っていた。
熊の頭。
その向こうにあった、霧で白く抜けた空。
「俺が……」
言葉が途中で止まった。
自分がやった。
そう考えると、胸の奥が冷えていく。
ただ消したのではない。
場所を変えた。
上へ。
そして落ちた。
熊だから死んだわけではない。
あの高さから落とせば、人間でも死ぬ。
子供でも。
老人でも。
誰でも。
悠真は自分の右手を見た。
さっきまでは、ようやく見つけた能力だった。
何もないと思っていた自分にも与えられたもの。
そのはずだった。
今は同じ手が、知らない刃物を持っているように見えた。
助かった。
もし使わなければ、自分が死んでいた。
だから仕方がない。
頭ではそう考える。
それでも、熊の体が地面へ叩きつけられた音が、耳の奥に残って離れない。
悠真はその場へ座り込んだ。
血と泥で濡れた地面だった。
もう気にならなかった。
膝を立てる気力もなく、両手をだらりと下ろしたまま、自分が作った死骸を見つめる。
これがチートなのか。
そんな言葉が頭をかすめたが、少しも嬉しくなかった。
強い力があることと、その力を持っていて安心できることは、まったく別だった。
むしろ今は、何もできなかった数十分前の方が楽だった気さえする。
使い方を知らない。
仕組みも知らない。
間違えれば、相手は落ちて死ぬ。
悠真は唇を噛んだ。
口の中へ鉄の味が広がった。
その時。
ずる、と何かが崩れる音がした。
悠真は顔を上げた。
熊が落ちた衝撃で、土の山の端が崩れている。
乾いた枝が転がり落ち、積み上がっていた湿った土が少しずつ滑っていく。
若い女の死体を見つけた場所とは、少し離れていた。
土の下から、何かが突き出した。
手だった。
またか。
悠真の胃が縮む。
今度は男の手らしい。
泥まみれで、指先には土が入り込んでいる。
さっきの女と同じように、死んでいるのだと思った。
もう見たくなかった。
これ以上、死体を見つけたくない。
そう思って顔を背けようとした。
その時。
指が動いた。
ほんのわずかだった。
痙攣かと思った。
もう一度。
今度は明らかに、何かを握ろうとするように指が曲がる。
悠真の呼吸が止まった。
「……え?」
土の山が、ずるりと崩れた。
その下から突き出た手が——動いた。
「……たす、けて」




