第1話前半 異世界転移したのに何もないと思ったら
朝の霧は、徹夜明けの目にやさしくなかった。
相馬悠真、二十一歳、大学三年。昨夜は新刊のラノベを一冊と半分読んで、気づいたら窓の外が白んでいた。
寝たら一限に起きられない。だから寝ないで行く。完璧な作戦だ——と思っていたのは、坂の途中で霧が膝の高さまで這い上がってくるまでだった。
家を出た時にも多少の霧はあった。
秋の朝なら、まあ珍しくもない。
街路樹の葉は少しずつ色を変え始め、歩道の端には昨夜落ちた葉が湿って張りついていた。坂の下には駅へ向かう人影が何人か見えていたし、通勤時間に入った道路からは車の音も絶えず聞こえていた。
だから最初は、眠気で目が霞んでいるだけだと思った。
悠真は何度か瞬きをした。
それでも霧は濃くなった。
坂の途中にある電柱が、白い幕の向こうへ少しずつ消えていく。五歩ほど先までは見えていたはずなのに、気づけば道路の反対側にある家の輪郭さえ曖昧になっていた。
「いや、濃すぎないか……?」
立ち止まった。
車の走行音が遠い。
さっきまで電線の上で鳴いていたカラスの声も、いつの間にか聞こえなくなっている。
霧が音まで吸い込んでいるようだった。
悠真はポケットからスマートフォンを取り出した。
七時四十一分。
電池残量三十一パーセント。
夜通し電子書籍を開きっぱなしにしていたことを考えれば、まだ残っている方だった。
問題はその隣だ。
アンテナ表示が一本減った。
見ているうちに、さらに一本。
最後の一本まで消える。
「霧って電波まで食うんだっけ」
自分で言ってから、そんなわけがないだろうと思った。
それでも軽口を挟まないと、急に静かになった周囲が少し気味悪かった。
スマートフォンを握ったまま歩き出す。
一歩。
二歩。
三歩。
その途中で、靴底の感触が変わった。
ぱた、と硬いアスファルトを叩いていたはずの音が、さく、と柔らかく沈む。
「……ん?」
悠真は足元を見た。
白いスニーカーの下に、道路はなかった。
湿った黒い土。
黄色や茶色の落ち葉が何層にも積もり、その隙間から細い草が伸びている。
靴先には泥までついていた。
「待て待て」
振り返る。
白い霧。
さっきまで歩いてきたはずの坂道がない。
少なくとも見えない。
慌てて数歩戻ってみるが、アスファルトには戻らなかった。
足の裏へ伝わるのは、踏むたび形を変える湿った土の感触だけだ。
匂いも変わっていた。
排気ガスと朝の冷たい空気ではない。
濡れた葉。
木の皮。
雨上がりの土。
深く息を吸うほど、青臭い森の匂いが胸へ入ってくる。
悠真は立ち尽くした。
霧の流れが少し変わった。
風が吹いたのだ。
肌を撫でる空気は冷たく、寝不足で火照っていた頬から熱を奪っていく。
霧が横へ押される。
その向こうに、太い影が現れた。
木だった。
ただし、公園や街路樹で見るような大きさではない。
幹だけで人が何人か並べそうな巨木が、一本、二本ではなく、霧の奥まで何本も続いている。見上げても枝先が分からず、幹はそのまま白い天井の向こうへ伸びていた。
「……どこだよ、ここ」
声が妙に近く聞こえた。
周囲に建物がないからなのか、自分の声だけが森の中へ浮いているようだった。
頭上のどこかで鳥が鳴いた。
三つの音を続けたような、聞いたことのない鳴き方だった。
もう一度。
違う方向から返事をするように、同じ三音が響く。
悠真はスマートフォンへ目を落とした。
圏外。
地図を開いたところで現在地を取得できる気配はない。
「夢……ではないよな」
口にしてから、古典的すぎると思った。
だが確認しないよりはいい。
悠真は頬の肉をつまみ、思いきり引っ張った。
「いってえ!」
反射的に手を離す。
痛い。
普通に痛い。
しかも寝不足の体に余計な刺激を加えたせいで、目の奥までじんとした。
「自分でやっといて何だけど、痛いの嫌いなんだよ……」
赤くなった頬を擦る。
夢ではない。
だとすると、状況はもっと困る。
巨大な木。
知らない鳥。
道路から突然変わった土。
消えた電波。
昨夜まで読んでいた物語の展開が、嫌でも頭をよぎった。
「……いや、まさかな」
口では否定した。
ただ、試すだけなら損はない。
周囲に人はいない。
見られて恥ずかしいこともない。
悠真は息を整え、右手を前へ出した。
「ステータス、オープン」
何も起きなかった。
視界の端にも、空中にも、半透明の画面らしきものは現れない。
霧が巨木の間をゆっくり流れただけだった。
「……ステータス」
沈黙。
「ステータス表示」
やはり何も出ない。
三回目まで言ったところで、誰もいないのに急激に恥ずかしくなった。
悠真はそっと右手を下ろした。
「まあ、言い方の問題かもしれないし」
自分へ言い訳する。
今度は少し離れた木へ掌を向けた。
「ファイア」
変化なし。
火花すら出ない。
その代わり、近くの枝に止まっていた小さな鳥が驚いたように飛び立った。
「……悪かったな」
鳥は戻ってこなかった。
次に足元を見る。
落ち葉の間から、白いキノコが一本だけ顔を出している。
悠真はしゃがみ、じっと見つめた。
「鑑定」
キノコが跳ねた。
「は?」
白い傘が勢いよく地面を離れ、そのまま悠真の額へぶつかる。
「痛っ!」
驚いて尻もちをついた。
キノコは落ち葉の上へ転がり、何事もなかったように動かなくなる。
悠真は額を押さえたまま、それを見た。
「いや、それ絶対おかしいだろ」
鑑定した側が情報を得るのではなく、鑑定対象から攻撃された。
少なくとも悠真の知っている展開ではない。
「じゃあ……収納」
リュックからペットボトルを出し、手のひらに載せる。
消えない。
「収納」
変化なし。
蓋の中で水が揺れただけだった。
「だよな」
まだある。
身体能力強化。
これなら声すら必要ないかもしれない。
悠真は立ち上がり、膝を深く曲げた。
何かが体の中から湧き上がるようなイメージを作る。
「よし」
思いきり地面を蹴った。
視界が上がる。
すぐに落ちる。
両足で着地した。
振り返って、自分がどれくらい跳んだのか確認する。
せいぜい膝の高さほどだった。
「……普通だ」
少し悲しくなった。
運動不足の大学生としては悪くないのかもしれない。
だが求めていたのはそういう評価ではない。
ステータスは出ない。
火も出ない。
収納もない。
体も強くない。
鑑定に至ってはキノコに殴られた。
悠真は巨木の根元まで歩き、幹へ背中を預けたまま座り込んだ。
湿った木の冷たさがパーカー越しに伝わる。
「異世界転移して、何もないって……ある?」
とうとう異世界と言ってしまった。
だが、もう他に説明をつけるのも難しい。
スマートフォンを確認する。
電池三十一パーセント。
圏外。
手持ちの食料は、おにぎり一個。
ペットボトルの水は半分程度。
財布が使えるかどうか以前に、人のいる場所さえ分からない。
悠真はしばらく黒い画面へ映る自分の顔を見た。
徹夜明け。
髪は適当。
頬にはさっきつねった赤みが残っている。
「とりあえず……電池は残すか」
スマートフォンの電源を切った。
画面が暗くなる。
たったそれだけなのに、急に日本との最後の窓まで閉じたような感覚がした。
悠真は膝へ肘を載せた。
ここに座り続けても、食べ物も水も増えない。
助けも来る保証がない。
何より、自分が消えたことに誰かが気づいているのかすら分からない。
「人、探すしかないよな」
声にして決めた。
立ち上がる。
どちらへ行くべきかは分からない。
それでも、同じ場所で動かないよりはましだった。
森の中は、想像していたより歩きにくかった。
地面には木の根が何本も盛り上がり、落ち葉の下には石や窪みが隠れている。足元ばかり見ていると枝へ顔をぶつけそうになり、前ばかり見ていると根につまずく。
風が吹くたび、高い場所の枝が擦れ合った。
ざあ、と葉が揺れ、そのあと遅れて細かな雫が降ってくる。
霧は完全には晴れず、巨木の幹の間へ白く溜まっていた。陽光が差し込む場所では霧そのものが薄く光り、その中を小さな虫が浮かぶように飛んでいる。
聞こえる鳥の声も、日本で知っているものとは違った。
先ほどの三音。
遠くで響く低い鳴き声。
木を叩くような乾いた音。
悠真は歩きながら、無意識に人の痕跡を探していた。
切られた枝。
足跡。
道。
焚き火の跡。
何でもよかった。
だが、見つからない。
歩くほどに、自分一人だけが森の中へ取り残されている感覚が強くなる。
その時。
チリ。
悠真は足を止めた。
今まで聞いていた自然の音とは違う。
風が吹く。
枝葉が擦れる。
少し遅れて。
チリ、チリ。
「……金属?」
耳を澄ませた。
もう一度、風が通る。
チリ。
確かに硬いもの同士が軽く触れる音だった。
人が作った物。
そう考えた瞬間、胸の奥に初めて具体的な希望が生まれた。
悠真は音の方向へ歩き始めた。
最初は慎重に。
音が近づくにつれ、少しずつ速くなる。
木々の間隔が広がっていく。
やがて霧の向こうが白ではなく灰色に変わり、森が途切れた。
正面に岩壁があった。
高さのある崖だ。
灰色の岩肌には雨水が黒い筋を作り、その一部には不自然な直線が残っている。
悠真は近づいた。
「これ……」
岩肌へ指を伸ばす。
古い傷。
自然に割れたものとは違う。
何度も道具を当てたような細い跡が、一定の方向に刻まれている。
鑿の痕だ。
少なくとも、人がここへ来たことがある。
「よかった……」
声と一緒に、肩の力が少し抜けた。
人がいる。
あるいは、いた。
その違いをまだ深く考えず、悠真は崖沿いを見回した。
そこで、土の盛り上がりに気づいた。
最初は崩れた土砂かと思った。
けれど形がおかしい。
土だけではない。
枝。
落ち葉。
草。
それらを上から集めて被せたような、小さな山ができている。
風で自然にできたものには見えなかった。
そのすぐ横の枝に細い紐が絡んでいる。
紐の先には、小さな金属札がぶら下がっていた。
風が吹くたび、札が枝へ触れる。
チリ、チリ。
「これの音か」
悠真は札へ近づいた。
金属の表面には文字が刻まれている。
見たことのない字体だった。
日本語でも、英語でもない。
それなのに、眺めた瞬間、その刻みがただの模様ではなく、意味を持つ文字だということが自然に頭へ入ってきた。
悠真は眉を寄せた。
「……読める?」
声に出してみる。
少なくとも文字そのものの意味は理解できる。
だが、一枚の金属札だけでは、それが何のための札なのか、なぜここに掛かっているのかまでは分からない。
不思議ではあった。
ただ、今はそれ以上に気になるものが周囲へ散らばっていた。
折れた弓。
中央から大きく裂けた背嚢。
中身はほとんどなく、布の端には乾いた黒い汚れがこびりついている。
少し離れた場所には、片方だけの革手袋が落ちていた。
拾わずにしゃがんで見る。
甲の部分に焼き印がある。
四角。
その中に、縦へ三本の線。
文字というより印だった。
誰か個人のものなのか、工房か何かの印なのかは分からない。
そして、土の上に小さな木片が落ちていた。
悠真はそれを拾った。
鳥だった。
手のひらに収まるくらいの小さな木彫り。
片方の翼には一本一本、細かな羽根まで彫られている。
反対側の翼は途中で止まっていた。
削りかけの木肌がそのまま残っている。
落としたのではない。
作りかけだ。
誰かにあげるつもりで、彫っていたんだ。
そう思った途端、周囲へ散らばる物が単なる残骸ではなくなった。
弓を使っていた誰か。
手袋をつけていた誰か。
この鳥を少しずつ削っていた誰か。
ほんの少し前まで、ここには人がいたのかもしれない。
「誰か、いますか?」
悠真は声を上げた。
崖へ当たった声が、薄く返ってくる。
返事はない。
「聞こえますか!」
もう一度。
やはり何もない。
悠真は木彫りの鳥を捨てられず、パーカーのポケットへ入れた。
その時、土の山の隙間から白いものが見えた。
最初は木の根かと思った。
だが、形が整いすぎている。
細長いものが五本。
「……え?」
近づく。
指だった。
土の中から、人間の手が出ている。
「おい……」
心臓が急に速くなった。
悠真は土の山へ駆け寄り、膝をついた。
「大丈夫ですか!」
白い手首の周囲を掘る。
指で土を掻き出すたび、爪の間へ黒い泥が入った。
「聞こえますか! 今、出しますから!」
返事はない。
それでも止められない。
腕が出る。
肩。
長い髪。
土が崩れ、その下から若い女の顔が現れた。
悠真の手が止まった。
半分開いた目。
泥のついた頬。
唇には色がない。
こちらを見ていない。
「……」
胸から下は、見なかった。
見なかったのに、分かってしまった。
鼻へ届いた鉄の匂い。
湿った土に混ざる、甘ったるい腐臭。
耳元を飛ぶ蠅の羽音。
喉の奥が一気に縮んだ。
「うっ……」
悠真は顔を背け、その場で吐いた。
朝からまともに食べていない胃から、ほとんど何も出ない。
酸っぱい液だけが喉を焼いた。
咳き込みながら地面へ手をつく。
指が震えていた。
呼吸を整えようとしても、鼻から息を吸うたび匂いが入ってくる。
口で息をした。
それでも気持ち悪さは消えない。
「なんだよ……これ……」
立ち上がろうとした。
膝に力が入らない。
ようやく体を起こした時、土の山の反対側が目に入った。
一足のブーツが突き出していた。
片方ではない。
左右そろっている。
そして形が崩れていない。
中身が入ったままだった。
悠真の呼吸が止まりかけた。
若い女。
ブーツ。
折れた弓。
裂けた荷物。
木彫りの鳥。
何人いたのかは分からない。
だが、事故ではない。
それだけは分かった。
しかも死体は、ただ倒れているのではなく、上から土や枝を被せられている。
誰かが隠した。
その考えが浮かんだ瞬間、昔テレビで見た映像が頭の奥から蘇った。
山で熊に襲われた人の話。
専門家が説明していた。
悠真の口から、記憶をなぞるように言葉が漏れた。
「クマは獲物を土に埋めて隠す、ってテレビで……」
冷たい風が崖沿いを抜けた。
汗ばんでいた首筋が急に冷える。
悠真はゆっくり土の山を見た。
これは墓ではない。
隠されている。
保存されている。
あとで戻ってくるために。
背中を冷たい汗が伝った。
「……じゃあ、これ。埋めた奴が、戻ってくる?」




