第一話
雨の音だけが部屋に響く。
彼女は朝早くからカフェへ向かった。
零は一人、ソファに座ったまま何もする気になれず、ぼんやりと天井を眺めていた。
「苦しいなら、戦わなくていい。」
昨夜、彼女が何気なく口にしたその言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。
今まで誰も言ってくれなかった。
『戦え。』
『守れ。』
『お前しかいない。』
そんな言葉ばかりだった。
だが彼女だけは違った。
「戦わなくていい。」
その一言が、張り詰めていた心を少しだけ解いてくれた。
――その時だった。
部屋の隅に置かれた端末が甲高い警報音を鳴らす。
《ヴェイル反応を確認》
《コード・レッド》
零の身体が反射的に動く。
同時にテレビでは緊急速報が流れる。
市街地で、人の姿を保っていた怪物が本性を現し暴れ始めていた。
悲鳴。
逃げ惑う人々。
炎上するビル。
アナウンサーの震える声。
「現在、ヒーロー部隊が現場へ――」
零は変身ベルトへ手を伸ばす。
しかし。
「……苦しいなら、戦わなくていい。」
彼女の声が、まるで耳元で囁くように響いた。
震える手が止まる。
未来で見た光景が脳裏をよぎる。
人々から石を投げられる自分。
「化け物。」
「人類の敵。」
守ったはずの人間たちの憎悪。
「……俺は。」
ベルトから手を離す。
テレビへ歩み寄る。
画面には必死に逃げる親子が映っていた。
零は静かに電源ボタンを押した。
部屋は静寂に包まれる。
「……知らない。」
そう呟くと、逃げるように寝室へ向かった。
布団を頭まで被り、小さく身体を丸める。
外では、遠くで鳴り続けるサイレンの音だけが、いつまでも止まなかった。
玄関の扉が静かに開いた。
「ただいま。」
返事はない。
いつもなら「おかえり」とぎこちなく返してくる声も聞こえない。
綾瀬美月は靴を脱ぎ、部屋を見回した。
リビングのテレビは消えたまま。
テーブルには手つかずの食事。
そして、寝室から小さく息を殺すような音が聞こえた。
「……零くん?」
ゆっくりと扉を開ける。
布団を頭まで被り、小さく身体を丸めている神代零がいた。
「大丈夫?」
返事はない。
美月は布団の横へ静かに座る。
しばらく沈黙が続いたあと、零がぽつりと呟いた。
「今日……怪人が出た。」
「うん。」
「俺なら助けられた。」
震える声だった。
「でも……行かなかった。」
美月は何も言わず、続きを待つ。
「初めてなんだ。」
零は布団の中で拳を握り締める。
「今まで何があっても逃げなかった。」
「怖くても。」
「苦しくても。」
「俺しかいないって思ってた。」
声が少しずつ掠れていく。
「でも今日は……。」
「逃げた。」
「人を見捨てた。」
「俺はもう……ヒーローじゃない。」
部屋に静寂が落ちる。
責められる。
軽蔑される。
そう思って目を閉じた、その時だった。
ふわり、と温もりに包まれる。
美月が布団ごと、そっと零を抱きしめていた。
「……っ。」
「よく、ここまで頑張ったね。」
その一言だけだった。
責める言葉はない。
正論もない。
励ましすらない。
ただ、震える身体を優しく抱き寄せてくれる。
零の張り詰めていた糸が切れた。
「……ごめん。」
「ごめん……。」
何に謝っているのか、自分でも分からない。
美月は背中をゆっくりと撫で続ける。
「誰だって、逃げたくなる日はあるよ。」
「ずっと戦い続けられる人なんて、いないから。」
零は初めて、人前で声を上げて泣いた。
その涙を、美月は黙って受け止め続けた。




