第9話 テラス席の伝説
二階テラスの最も奥まった席へ。
アレクシスはエレノアを案内する。
そこは、王都のシンボルである噴水を眼下に見下ろせる特等席だ。
実はこのテラス席、実業家としてのアレクシスが仕掛けた「動く広告」でもあった。
大通りを歩く人々から、優雅にティータイムを楽しむ客の姿が、憧れを誘う絶好の角度で見えるように設計してある。
「あそこで過ごしてみたい」――道行く人々にそう思わせるための、計算し尽くされた舞台装置。
……けれど、今は。そんな宣伝効果など、どうでもよかった。
大きな屋根が日差しを遮り、吹き抜ける風が火照った肌に心地いい。
アフタヌーンティーの用意が整えられ、透き通った琥珀色の紅茶がカップに注がれる。
エレノアは、その所作の一つひとつが静かで、凛としている。
「アレクシス様、本日はお招きありがとうございます。」
はちみつ色の瞳を柔らかく細めて挨拶をする。
その背後には、数歩下がって控えるメイドがいる。
エレノアはふと振り返り、彼女に声をかけた。
「ユノ。ここから先は、二人で結構よ」
いたずらっぽく、それでいて気遣わしげな微笑み。
ユノは心得たように深く一礼し、「隣の部屋におります」と静かに去っていった。
広いテラスに、本当の意味で二人きりの時間が訪れる。
「……先ほどは、すみません。あまりにも見事な包囲網だったので」
エレノアが、少し困ったように笑いながら切り出した。
「しばらく店の隅で様子を見ていたのですが……。アレクシス様の背中が、『助けて』って言ってる気がしたので。差し出がましい真似をしてしまいました」
編み込まれた、深いパープルの髪が風に揺れる。
彼女が向けたその微笑みは、令嬢たちのギラギラとした熱狂とは正反対の、月のような静かな温度を持っていた。
(……ああ、そうだ。僕は、ずっとこの瞳を探していたんだ)
アレクシスは一瞬、息を吸うのを忘れた。
その輝きが、仮面の下で僕を見ていたあの琥珀色の瞳と重なる。
不思議だ。
目の前にいるのは気品ある婚約者なのに、なぜかあの夜の感覚が蘇る。
——そうか。
あの間の夜も、僕は”彼”に守られたんだった。
「先日は……その、狩りの日は、疲れませんでしたか?」
無理やり絞り出した言葉は、自分でも驚くほどぎこちない。
けれどエレノアは、そのぎこちなささえ包み込むように、「とても楽しかったです。本当です」と力強く頷いた。
その言葉に、胸の奥の強張りがスッと消えていく。
にこやかに会話が続く。
——こんなに穏やかな昼間があるとは、思わなかった。
****
「視察ですから。まずは、僕自身が味を確かめなくては」
アレクシスはそう自分に言い訳をして、小ぶりなフォークを手に取った。
運ばれてきたのは、フォンダン・ショコラ。
外側はサクッとしていながら、中からは温かなベリーのソースが溶け出す、彼のこだわりが詰まった一品だ。
(……あ。美味しい)
一口、口に含んだ瞬間、アレクシスの思考が止まった。
計算された甘み、酸味のバランス。
だが、それ以上に。
目の前に、あの日僕の「素」を肯定してくれた彼女がいる。
その安心感が、彼の鉄壁の自制心をいとも簡単に霧散させた。
一刻も早く、この幸福感を口いっぱいに満たしたい。
一口、また一口。
普段の彼なら、一口ごとに紅茶を挟み、令嬢たちと優雅な会話を交わしながら、三十分はかけて楽しむはずの代物だ。
けれど今の彼は、まるで空腹を抱えた少年のように、無我夢中でフォークを動かしていた。
……カツン、と。
銀色のフォークが、白磁の皿に当たる小さな音が響く。
「……え?」
ふと我に返ったアレクシスの前には、つい数十秒前まで美しく飾られていたはずのケーキの残骸すら残っていなかった。
ただ、ソースの一滴まで完璧に拭い去られた、真っ白な皿がそこにあるだけだ。
あまりの「瞬殺」ぶりに、アレクシスは持っていたフォークを握ったまま固まった。
やってしまった…。
婚約者の前で、あろうことか一言の会話も挟まず、野生動物のような勢いで完食してしまった。
(……最低だ。完璧なエスコートどころか、これではただの食いしん坊ではないか)
絶望的な気分で、恐る恐るエレノアを見る。
すると彼女は、驚いたように目を丸くした後、はちみつ色の瞳を三日月のように細めて、クスクスと喉を鳴らした。
「お好きなのですね、甘いものが」
「あ、いや…」
「そんなに美味しそうに食べていただけると、作った職人さんも、このお店も、きっと幸せだと思います」
彼女のその言葉に、アレクシスは耳の裏まで真っ赤に染め上げた。
恥ずかしさと、情けなさと。
そして、「素の自分」を見せて笑い合えることの、耐えがたいほどの愛おしさ。
だが、幸せな余韻は一瞬だった。
「この間知り合った人も、甘いものが大好きな方で。私、その方のおかげで、甘いものを好きになりました」
ふ、と。エレノアが遠くを見つめる。
その表情は柔らかく、
どこか懐かしいものを思い出しているようだった。
アレクシスは胸の奥が妙にざわつくのを感じた。
(……誰のことだ)
なぜか面白くない。
その『誰か』の話をするときだけ、エレノアの表情が少し違う。
柔らかい。
楽しそうだ。
胸の奥がちくりと痛んだ。
(……何だ、これは)
その『誰か』に向けている温度を、僕も知っている。
あの日、森の雨宿りで僕に向けられたものと同じ——いや、それ以上の親愛が、その言葉には滲んでいた。
(……羨ましい)
あなたに、そんな風に思ってもらえるなんて。
自分の知らないところで、彼女の価値観を変え、その心に居座っている男がいる。
名前も知らない誰かに、胸を焼かれるような感覚がするなんて、想像もしなかった。
僕ではなく、その『誰か』が、あなたのその表情を独占しているというのか。
(もしかして、僕は、嫉妬している?)
自覚した途端、心臓が痛いほど脈打つ。
やり場のない独占欲が、出口を求めて肺の奥で暴れていた。
「アレクシス様。私に遠慮なさらず……足りなければ、たくさん食べましょう。」
そう言って、すぐに彼女は立ち上がり、スタッフを呼びにいった。
——やはり、責めない。
笑わない。
醜い嫉妬に狂っている僕のことなど露知らず、彼女はただ、僕のありのままを受け入れてくれる。
アレクシスは思わずティーカップをカタリと鳴らし、耳まで赤くして俯いた。
「……はい。……ありがとうございます、エレノア嬢」
——こんなふうに甘やかされたことは、初めてだ。
消え入るような声で答えるのが精一杯だった。
自分の動揺を悟られまいと、彼はあわてて手袋の端を何度も直し、逃げるように視線を落とした。
****
エレノアが少し席を外している間に、
隣の部屋に行ってみる。
エレノアの付き人、ユノが一人で立っていた。
アレクシスに気づき、驚いたようにお辞儀をする。
そして、あの、何か…?と不安そうにこちらを見ている。
「あなたから見て、エレノア嬢はどんな人なのですか?」
アレクシスが質問する。
自信なさげだったユノの目に、とたんに強い光がきらめく。
「エレノアお嬢様は、とてもかっこよくて素敵な方です。お嬢様以上に……その、お嬢様以上に素敵な令嬢はこの世にはいらっしゃいません! 」
「…この世で、一番?」
「はい、一番です」
ユノは、緊張で顔を上気させ、手にじわりと汗をかきながらも一生懸命に訴える。
アレクシスは、そんな彼女を真っ直ぐに見つめた。
普段なら、ここで「それは心強いですね」と、完璧な角度の微笑みで受け流すところだ。
それが社交界の王子としての正解だから。
けれど、今の彼にその仮面は必要なかった。
「……ふふっ」
アレクシスの唇から、こぼれるように笑みが漏れた。
それは、訓練された優雅な微笑ではない。
目尻を下げ、喉を震わせ、心の底から溢れ出した、柔らかく、どこか幼ささえ感じさせる本物の笑み。
アレクシスは、エレノアが去っていった方向を見つめる。
気づけば、自然と口元が緩んでいる。
「……ああ、僕もそう思い始めていたところです」
小声で、でも確信を持って呟いた。
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テラスの効果はてきめんだったようで、数年後、この店はカップルの定番として有名になった。特に2階の隅のテラス席に座れた二人は結ばれるというジンクスとともに。
——二人はこのとき、まだ知らなかった。
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