第10話 令嬢の策略と、二杯の口付け
その夜は、二人が揃って姿を現す初めての社交会だった。
エレノアは淡々と準備を進める。
いつも面倒を見てくれる侍女のユノは、今日ばかりはと気合を入れすぎ、ドレスの紐を全力で引き絞った。
「ぐ、げぇっ……!」
カエルを潰したような、令嬢らしからぬ断末魔がエレノアから漏れる。
「お嬢様、きつすぎますか!?」
「……だ、大丈夫よ。心臓が口から出そうになっただけ……ありがとう」
エレノアは必死に笑顔を作った。
ユノは満足そうに頷いたが、エレノアは密かに「今夜の食事は飲み物しか入らないわね」と悟った。
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馬車を降りると、そこには黒い燕尾服を纏ったアレクシスが待っていた。
いつもよりストイックな色気のある装いに、エレノアは思わず目を奪われる。
「今日のエレノア嬢も素敵ですね」
「ありがとうございます。アレクシス様もとても素敵ですわ。」
完璧に結ばれた白の蝶ネクタイが、彼の端正な顎のラインをより鋭く見せている。
アレクシスがエスコートの腕を差し出す。
その所作は完璧で、どこにも隙がない。
「明るい服を好まれるイメージでしたが、黒もよくお似合いですね」
「……ありがとうございます」
アレクシスは陶器のように無表情だった。 けれど、会場へ向かう数歩の間だけ、彼が誰にも聞こえないような低い声で囁く。
「今夜は人が多そうですね。……私のそばを離れないでください。疲れたら、すぐに私に寄りかかっていいですから 」
そして、エレノアに向けて完璧な角度でパチン、とウィンクをしてみせた。
(…………っ! 完璧すぎる……! )
吸い込まれそうなほど深い青の瞳が、悪戯っぽく細められる。
滑らかで、あまりに絵になりすぎていて直視できない。 エレノアは「眩しいもの」を見るような目で見つめ返した。
アレクシスは声のトーンも表情も一定だが、エレノアをエスコートする手に、ほんのわずかだけ力がこもったのを彼女は見逃さなかった。
——会場へ入れば、そこはもう戦場だった。
皆がざわめく。
方々から婚約おめでとうございます!と人が押し寄せ、飲み物を飲む暇もなく挨拶が始まる。
会場の女性たちは目当てがアレクシスであったようだ。
遠巻きに悔しがっている女性、ショックを受けている女性、顔を緩ませている女性などが目に入る。
アレクシスが「完璧な婚約者」としてエレノアの腰にそっと手を添えるたび、周囲からはため息と嫉妬の混じった視線が飛んでくる。
アレクシスはそれを柳に風と受け流し、毅然とした態度でエレノアをエスコートし続けた。
射るような鋭い視線が、刺さるのを感じる。
エレノアは気づかないふりをして、目の前の人物にアレクシスと一緒に挨拶を続ける。
アレクシスが人の挨拶が切れた途端に、こっそりと「ワインを取ってきてくれないか」とエレノアにささやいた。
エレノアも喉が渇いた。頷き、その場を離れる。
ワインをもらおうとしたが、赤ワインと白ワインとがある。
彼の好みを聞いてこなかった。
確認しようかと彼の方を見たが、またたくさんの人間に囲まれてしまっている。
仕事関係の人だろうか。しっかりと話し込んでいるようだ。
——そういえば、アレクシスには友達のような人はいないのだろうか?
実は、さっきからこちらへ鋭い視線を向けているのは女性ばかりではない。
若い男性たちからも冷たい視線を向けられていた。
エレノアへというよりは、アレクシスへ。
嫌われているのは明らかだった。
アレクシスは家柄も良いし、品行方正、仕事も完璧、見た目も美しい。
嫉妬の的になっているとしても納得する。
エレノアは人気の令嬢というわけではないが
家柄は問題ないし、外から見れば優良株なのかもしれない。(というか取り立てるほど話題がたぶんない)
先日の夜会での噂の雰囲気を察するに、
彼が優秀すぎて嫌われているのは間違いない。
知り合って間もないが、
アレクシスの周囲環境がなんとなく理解できてきた。
エレノアは赤と白、1つずつもらうことにする。
元いた場所からいなくなってしまった。
彼を探してさまよっていると「エレノア様。」と話しかけられた。
——捕まってしまった。
「…アメリア様。お久しぶりです」
アメリアは5人ほどの取り巻きを連れていた。
公爵令嬢であるため、自分とは何かと会う機会がある令嬢だ。
初めから感じていた鋭い視線は、彼女のものだ。
赤色の豊かな髪に大きな目。
笑顔でいればとても美しいものを、今日は眼光も鋭く眉間にはしわが寄っている。
「この度はご婚約おめでとうございます。…少しお付き合いいただけますか?」
エレノアは5人の令嬢に囲まれ、会場の外へ連れ出される。
アレクシスはここにもいない。
そう思っているうちに誰もいない、暗い廊下の隅へと追いやられていた。
窓辺にグラスを置き、エレノアは彼女の話を待った。
するとアメリアは手に持っていたワイングラスを壁に打ち付け、即座にエレノアへと投げつけた。
「アレクシス様にふさわしいのは私よ!」
グラスは頬を掠め、後ろの壁に当たり、バリン!!と激しい音を立てた。
あまりの出来事にエレノアは動けず、呆然とする。
(……もったいない。ヴィンテージものだったのに)
人がざわついている声がする。
グッと腕を掴んだ人がいる。
アレクシスだった。
彼の表情は、いつもの完璧な微笑みではなかった。
驚き、何かを、堪えているような顔だった。
「アレクシス様!」
アメリアがアレクシスに抱きつき、胸に顔をうずめる。
「エレノア様が私にワイングラスを投げつけたのですわ!!」
(…こいつは何を言っているの??)
エレノアはアメリアのドレスのワインのシミを見た。
——いつの間に…!
「エレノア様が、私にグラスを投げつけてきたので、私、振り放ったの。
昔から何を考えているのかわからない人だったけど、こんなに暴力的な人だったなんて!」
エレノアは黙って聞いていたが、眉間には血管が浮き出ている。
…随分と手の込んだことをする 。
アレクシスのような男が彼女のタイプだとはわかっていたが、
私を陥入れ、恥ずかしがらせることが目的だったとは。
しかし、アレクシスは氷のような目で彼女を見下ろし、一ミリも身体を動かさなかった。
エレノアの顔に両手を添える。アレクシスの指先が、わずかに震えているのが伝わってくる。
「…大丈夫?」
…深い、今まで聞いた声の中で1番優しい声だった。
彼はこんな声を出すのだ。
凍りついていた自分の瞳が和らいでいく。
はい、とエレノアは答える。
「一人にさせてごめんね」
アレクシスは、破片が散らばる廊下でエレノアを強く抱きしめた。
彼の深い声がエレノアのなかで響く。
…甘い香水も混じった、やさしい彼の香りがする。
温かい。
——この人を、守れなかった。
それが、アレクシスへの照れより先に来た感情だった。
エレノアは、いつもの彼とは違う剥き出しの本心と、自分の中の感情に戸惑って、
ただただ抱きしめられていた。




