第10話 社交界(1)
その夜は、二人が揃って姿を現す初めての社交界だった。 エレノアは淡々と準備を進める。 いつも面倒を見てくれる侍女のユノは、今日ばかりはと気合を入れすぎ、ドレスの紐を全力で引き絞った。
「ぐ、げぇっ……!」
カエルを潰したような、令嬢らしからぬ断末魔がエレノアから漏れる。
「お嬢様、きつすぎますか!?」
「……だ、大丈夫よ。心臓が口から出そうになっただけ……ありがとう」
エレノアは必死に笑顔を作った。ユノは満足そうに頷いたが、エレノアは密かに「今夜の食事は飲み物しか入らない」と悟った。
深いパープルの髪に、銀灰色のドレスを着た自分が、鏡に映っていた。
(残念だな)
先日の店で食べたケーキを思い出す。
あれは美味しかった。
そしてそれ以上に、
完璧な婚約者が、夢中でケーキを食べていた姿は、少し愉快だった。
(今日は何も食べられそうにない)
少しだけ惜しい気持ちになる。
****
馬車を降りると、そこには黒い燕尾服を纏ったアレクシスが待っていた。
いつもよりストイックな色気のある装いに、エレノアは思わず目を奪われる。
「今日のエレノア嬢も素敵ですね」
「ありがとうございます。アレクシス様もとても素敵ですわ」
完璧に結ばれた白の蝶ネクタイが、彼の端正な顎のラインをより鋭く見せている。
アレクシスがエスコートの腕を差し出す。
その所作は完璧で、どこにも隙がない。
「明るい服を好まれるイメージでしたが、黒もよくお似合いですね」
「……ありがとうございます」
アレクシスは陶器のように無表情だった。
けれど、会場へ向かう数歩の間だけ、彼が誰にも聞こえないような低い声で囁く。
「今夜は人が多そうですね。……私のそばを離れないでください。疲れたら、すぐに私に寄りかかっていいですから 」
そして、エレノアに向けて完璧な角度でパチン、とウィンクをしてみせた。
(完璧すぎる……! )
吸い込まれそうなほど深い青の瞳が、悪戯っぽく細められる。
滑らかで、あまりに絵になりすぎていて直視できない。
エレノアは「眩しいもの」を見るような目で見つめ返した。
アレクシスは声のトーンも表情も一定だが、エレノアをエスコートする手に、ほんのわずかだけ力がこもったのを彼女は見逃さなかった。
——会場へ入れば、そこはもう戦場だった。
皆がざわめく。
方々から婚約おめでとうございます!と人が押し寄せ、飲み物を飲む暇もなく挨拶が始まる。
会場の女性たちは目当てがアレクシスであったようだ。
遠巻きに悔しがっている女性、ショックを受けている女性、顔を緩ませている女性などが目に入る。
アレクシスが「完璧な婚約者」としてエレノアの腰にそっと手を添えるたび、周囲からはため息と嫉妬の混じった視線が飛んでくる。
アレクシスはそれを柳に風と受け流し、毅然とした態度でエレノアをエスコートし続けた。
射るような鋭い視線が、刺さるのを感じる。
エレノアは気づかないふりをして、目の前の人物にアレクシスと一緒に挨拶を続ける。
だが、仕事関係の有力者たちが次々とアレクシスを囲み、
彼をさらに奥へと連れ出そうとする。
「……っ、エレノア嬢」
離すまいとエスコートの手に力がこもるが、社交の場では限界があった。
エレノアは彼の喉が渇いていること、そして自分が隣にいることで余計に周囲の令嬢を刺激していることに気づく。
「アレクシス様、少し喉を潤してまいります。あちらにワインがございますから」
「いや、でも――」
「すぐに戻ります」
エレノアはそっと彼の手を離し、人だかりから一歩下がった。
完璧な婚約者としての役割を果たすために。
グラスが並ぶテーブルへ向かう途中、冷たい視線を向けてくるのは令嬢ばかりではないことに気づく。
同世代の若い夜会服の男性たちからも、アレクシスへ向けて苦々しい視線が注がれていた。
家柄、容姿、仕事、そのすべてが完璧すぎる彼は、男たちの嫉妬の的でもあるのだろう。
(……完璧すぎるというのも、窮屈ね)
彼の好みが分からず、赤と白のグラスを一つずつ手に取った、その時だった。
「エレノア様」
――捕まってしまった。
「…アメリア様。お久しぶりです」
赤色の豊かな髪に大きな目。
笑顔でいればとても美しいものを、今日は眼光鋭く眉間にはしわが寄っている。
アメリアは数人の取り巻き令嬢を連れていた。
公爵令嬢であるため、自分とは何かと会う機会がある令嬢だ。
初めから感じていた鋭い視線は、彼女のものだ。
「この度はご婚約おめでとうございます。…少しお付き合いいただけますか?」
エレノアは令嬢たちに囲まれ、会場の外へ連れ出される。
気づけば暗い廊下の隅へと追いやられていた。
窓辺にグラスを置き、エレノアは彼女の話を待った。
「ずっと、見てきたのに…、なんで、なんであんたが…」
するとアメリアは手に持っていたワイングラスを壁に打ち付け、即座にエレノアへと投げつけた。
「アレクシス様にふさわしいのは私よ!!!!」
****
その頃。
アレクシスは伯爵家当主との会話を続けていた。
ふと、手が寂しいことに気づく。
――エレノアが戻らない。
気づけば勝手に目が彼女を探していた。
遅い。
会場を見渡す。
(いない)
アレクシスは伯爵家当主の話を聞かず、いつの間にかキョロキョロと彼女を探す。
先日の話を思い出す。
――「甘いものが好きな方で」
胸の奥がざらついた。
彼女にそんな相手がいるとは思わなかった。
…実際、今日もエレノアは自分の隣にずっといる。
誰とも深く関わらず、静かに生きている人だと思っていたのに。
「ヴァルトハイム卿、ど、どうしました…?」
伯爵家当主が首をかしげる。
いつも完璧なアレクシスの明らかに落ち着かない様子に、少し驚いている。
「ヴァルトハイム卿?」
伯爵家当主が二度目の呼びかけをする。
アレクシスが返事をしなかったからだ。
「……失礼」
アレクシスは我に返ったように微笑む。
だが、その視線は伯爵ではなく会場の奥を探していた。
先ほどから何度も同じだ。
会話を続けながらも、
月光のような銀灰色のドレスは見えないか。
深い紫の髪は見えないか。
そんなことばかり考えている。
伯爵が何を話していたのか、半分も頭に入っていなかった。
(……遅い)
喉を潤しに向かったエレノアが、一向に戻ってこない。
彼女はいつも自分の視界の端にいた。
気づけばそれが当たり前になっていた。
だから見当たらないだけで、妙に落ち着かなかった。
その時だった。
ガシャン!!!!
遠く、廊下の奥からガラスが激しく割れる音が響いた。
心臓がドクンと冷たく跳ねる。 直感だった。
考える前に、アレクシスは音の方向へと走っていた。
優雅な歩調も、完璧な王子の仮面も、もうどこかへ吹き飛んでいた。
人混みを掻き分け、ただ一筋の焦燥感だけを胸に突き進む。
廊下の隅へたどり着いた瞬間、アレクシスの視界に最悪な光景が飛び込んできた。
赤髪の令嬢――アメリアが、激昂してエレノアへ向けて赤ワインのグラスを容赦なく投げつけたのだ。
「――っ、エレノア!!」
割れる間もなかった。
エレノアのすぐ真後ろの壁に激突したグラスが、凄まじい音を立てて粉々に砕け散る。 飛び散る鋭利なガラスの破片と、血のように赤いワイン。
エレノアが思わず目を瞑った刹那、「そこをどけ!!」社交界ではおよそ聞いたことのないような怒号が、アレクシス自身の口から飛び出していた。
周囲の令嬢たちを乱暴に突き退け、弾かれたように滑り込む。
気がつけば、エレノアの細い腕を掴んで我が身の方へと強く引き寄せ、自身の背中でガラスの雨から彼女を遮るように抱き込んでいた。
「……っ!?」
腕の中の彼女が、驚きでそのはちみつ色の瞳を大きく見開く。
アレクシスは荒い呼吸のまま、思わず彼女の頬に片手を添え、
怪我がないかを狂おしいほどの視線で確かめた。
「大丈夫か……っ!? 怪我は!?」
「……はい。アレクシス様……」
思わず、彼女の頬に片手を添えていた。エレノアはほっとした顔で目を瞑る。足元には割れたグラス、飛び散ったワイン。彼女が怪我をさせられそうになったのは、一目瞭然だった。
「アレクシス様!!」
赤髪の令嬢、アメリアが何か叫んでいる。が、アレクシスにはどうでもよかった。
怪我、していないか?
他に何かひどいことされた?
アレクシスは唇を噛んだ。
自分のストーカーがいることくらい知っていた。
それなのに。
彼女を一人にした。
『私のそばを離れないで』なんて言っておいて…。
彼女を失う、もしもの可能性がよぎる。
アレクシスは、周囲のすべての目を忘れて、エレノアの身体を壊れ物を扱うように強く、強く抱きしめていた。
ドレス越しに伝わる彼女の鼓動だけが、今の自分のすべてだった。
「一人にして、ごめん」
読んでいただきありがとうございました!
誤字・内容修正しました。(2026.6.25)




