第11話 独占欲は、甘い香りに溶けて
あまりにも長く、強く抱きしめられているので、エレノアは「……そろそろいいのでは?」と困惑し始める。
周囲からは悲鳴のようなざわめきが上がる。
自分たちが完全に注目の的だ。
このままではアレクシスが騒ぎを起こした側のようになってしまう。
――その危惧が、彼への照れを上回った。
チラリと目をやると、アメリアは無視された怒りと、自分たちの密着ぶりへの羞恥で顔を真っ赤にしている。
エレノアは、アレクシスの背中を「ぽんぽん」と軽く叩き、彼の耳元で、アメリアにだけ聞こえるような絶妙な声量で囁いた。
「アレクシス様……そんなに続きがしたいなら、お家に帰ってからにしましょう?」
「……はぁあ!?!?!?」
アメリアの絶叫が廊下に響き渡った。
あまりの破廉恥(とアメリアには聞こえた)な発言に、彼女の顔は怒りを通り越して青白く染まっていく。
対して、当のアレクシスはといえば。
アメリアの絶叫が空しく響く中、アレクシスは一瞬、呼吸を止めた。エレノアがふざけて言ったことなど、彼には百も承知だ。
だが、耳元をかすめた彼女の吐息と「続き」という甘美な響きが、彼の理性を一瞬で灰にした。
アレクシスはゆっくりと顔を上げると、抱きしめていたエレノアの肩を、逃がさないように手のひらで包み込む。
そして、アメリアへ向けて「静かな、けれど底知れない闇を孕んだ微笑み」を浮かべた。
「……聞こえたかい? アメリア嬢。僕たちは、これから"忙しく"なるんだ」
その声は、驚くほど穏やかだった。
けれど、エレノアにしか見えない角度の彼の瞳は、暗く、重く、熱い。
彼はそのまま、エレノアの髪を慈しむように一房指でなぞると、その毛先に「誓い」を立てるように深く唇を寄せた。
「……君がああ言うからには、覚悟はできているんだろうね、エレノア」
囁かれた低いテノールが、エレノアの鼓膜を震わせる。
あまりの色気に、エレノアは「あ、これ冗談で済まないやつだ」と本能で察し、背筋に冷や汗が流れた。
(ちょっと……アレクシス様? 目が、目が笑ってないんですけど……!)
アメリアはといえば、目の前で繰り広げられる「あまりにも本気の愛の重さ」に、恐怖で膝がガクガクと震えている。
彼女が欲しかったのは、自分を見て微笑んでくれる「王子の仮面」であって、目の前にいるような、一人の女性に狂わされている「剥き出しの男」ではなかったのだ。
「ひっ……、あ、ああ、あ……」
アメリアが言葉にならない声を漏らして後ずさるのを、アレクシスは冷ややかに一瞥した。
エレノアは、この場を何とかせねば。と声を張る。
「アメリア様。私は、あなたにグラスを投げつけるようなことはしていませんわ」
「何を、しらじらしいことを……!」
「だって――」
エレノアは窓辺に悠然と戻り、置いてあった二つのグラスを手に取った。
「これが、私の持っていたグラスですもの」
「そ、それは私のよ!」
取り巻きの一人が食ってかかるが、エレノアはふっと余裕の笑みを浮かべる。
「では、なぜ両方のグラスに、私の口紅がついているのかしら?」
驚いて人々が覗き込む。 そこには、エレノアの唇を彩っているのと同じ、落ち着いた色の紅がわずかに付着していた。
実は、アレクシスが見つからない間に喉がカラカラだったエレノアは、白と赤、両方に口をつけてしまっていたのだ。
「私はこの二杯を、交互に楽しんでおりました。ですので、私が持っていたグラスはこの二つで間違いございません。……さて、アメリア様。あなたが投げつけられたという『三つ目のグラス』は、一体どなたの持ち物だったのかしら?」
周囲から「まさか、自作自演……?」「二杯同時に飲んでいたの?」と、別の意味での驚きと、アメリアへの疑念がひそひそと広がり出す。
ふと隣を見れば、アレクシスがいつもの完璧な顔をどこかに置き忘れたような顔でこちらを見ていた。
驚きに目を見開いたかと思えば、すぐに眉を下げて困ったように笑い、最後には諦めたように深く吐息をつく。
呆れ果てているはずなのに、その瞳の奥には、宝石を眺めるような甘い光が宿っている。
(……二杯とも、君が飲んだの?)
言葉にはならずとも、その雄弁な視線がそう物語っていた。
(……だって、喉が渇いていたんですもの。仕方ないじゃない)
エレノアは心の中で密かに言い訳をして、気まずそうにそっぽを向いた。
完璧な淑女だと思っていた彼女が見せた、あまりに人間味のある仕草。
アレクシスは一瞬、呆気に取られたように瞬きをした。
けれど、すぐにその完璧な唇が、堪えきれないといった風に柔らかく綻ぶ。 それは、演技ではない本物の微笑みだった。
しかし、アメリアに向き直った瞬間、その表情は一変した。
真っ赤な顔でドレスを握りしめ、立ち尽くすアメリア。
そこへアレクシスが、一歩前に出た。
その瞳には エレノアを陥れようとした者への、凍りつくような冷徹な光が宿っていた。
「アメリア嬢、このことは君の父上にも話がいくぞ。ヴァルトハイム家を敵に回したと思え」
低く、断罪するような声。
アレクシスはそのままエレノアの手を、指を絡めるように強く握りしめた。
会場を後にし、無人の廊下を歩く。
エレノアは、自分の心臓がさっきから激しく暴れていることに気づき、無意識に空いた方の手で胸元を押さえた。
……この動悸は、きっと怒りのせいだ。
それ以外に理由があっては困るのだと、エレノアは自分に言い聞かせるように唇を噛んだ。




