第12話 ハッタリの代償は、熱すぎる体温
「……アレクシス様。もう、手は離していただいても……」
アレクシスはエレノアの手を握ったまま、一度も緩めることなく、別室へと彼女を連れ込んだ。
重厚な扉が閉まり、ようやく会場の喧騒が完全に遮断される。
二人きりになった瞬間、彼は片手で勢いよくネクタイをはずし、首元をゆるめた。
もう一度その手に力を込め、エレノアを自分の方へと引き寄せる。
「……先ほどの『続き』という話ですが」
囁かれた低い声に、エレノアの背筋が跳ねた。
「あ、あれはハッタリで! あの場を収めるために、つい……」
「……先ほどの不届き者を黙らせるには、あれくらいが適当かと思いまして。驚かせてしまいましたね、エレノア嬢」
アレクシスはパッとエレノアの手を離し、何事もなかったかのように前を見据えた。
完璧な微笑。
けれど、指を絡めていた手のひらには、まだ彼の消えない熱がじりじりと残っている。
エレノアは、自分の心臓がさっきから激しく暴れていることに気づき、無意識に空いた方の手で胸元を押さえた。
———目が少し本気だった…。
彼はそう言って微笑んだが、その瞳には、冗談では片付けられない熱い執着が渦巻いている。
しばらくして…彼はこらえきれず、肩を震わせた。
「あなたは賢い人ですね……前からそんな気はしていましたが 」
アレクシスが、あのアメリアに見せたような冷徹な顔を完全に消して、一人の青年として笑っている。
「怪我はしていませんか?」
「ええ…」
笑っているアレクシスに驚く。
グラスの感触を思い出し、思わず手でほほに触れる。
「もしかして、顔に当たったのですか?もう一度見せて」
両手で顔を包まれる。
彼との距離が、近い。
「…少し赤くなっているかもしれない。」
「大丈夫だと思います。避けたので」
え、と固まったアレクシス。
「避けたのですか。あのアメリア嬢の前で、あんなに泰然と………」
またフフフ…クク…と笑いだしてしまった。
(よく笑う人だわ…。)
エレノアは用意された椅子に座りこんだ。
———私の顔が赤いのは、あなたのせいよ。
ドアがノックされ、メイドが水と着替えを用意してくれた。
アレクシスがささやく。
「続きができなくて残念」
「ちょッ…!」
メイドが顔を真っ赤にしている。
では会場にいますので、とアレクシスはネクタイを拾い、さらりと出て行った。
ドレスは汚れてはいないと思うが、破片がついているかもしれない。
ありがたく着替えさせてもらうことにする。
メイドが着替えを手伝ってくれる。
薄いパープルのシンプルな美しいドレスだった。
なんだかすごく楽だ。
ドレスのお礼を言うと、メイドはいえいえ、と笑顔で首を振る。
「アレクシス様が締め付けの弱いものを、と」
エレノアは固まった。
彼は気づいていたのだ。
———コルセットがきつく締められていたことを。
エレノアは、実はずっと苦しかった。
ずっと我慢していた。今日だけじゃない。…子供の頃から。
美しくあるために、コルセットはどこまでも強く締められる。
社交界の「正しさ」に縛られ、子供の頃からずっと我慢してきた。
誰も、弱めていいなんて、言ってくれなかったのに…。
…テーブルを見ると、口をつけていない、彼の分の水のグラスがおかれている。
「喉、乾いていないかしら」
エレノアは彼のことを思った。
長々と部屋を使っていては申し訳ないと思い、エレノアは急いで用意をする。
「エレノア様、ゆっくりでかまいません」と彼女は言う。
「この部屋も、アレクシス様が休憩用に使いたいと、事前に連絡をいただいていましたので。確保しています」
「そ、そうなんですか…?」
「疲れたら言ってください」と言ってウインクしてきたのは、これだったのか…。
社交界が得意でない私のために?
静かな場所に行きたい自分のため?
(……それとも、本当に、さっきみたいな『続き』をここで……?)
ふと視界に入った、部屋の隅にある重厚なカウチソファー。
アレクシスがそこでネクタイを緩め、自分を待ち構えている図が、生々しく脳裏をよぎる。
———(ゴクリ…)
エレノアは唾を飲み込む。
完璧な見た目で、女性の扱いに慣れた彼ならやりかねない。彼はモテる。
あの隙のない微笑みの裏で、どれほど深く、濃い独占欲を飼い慣らしているのか、今のエレノアには測りきれなかった。
どの意志だったにせよ、彼の用意周到さと、逃げ場を塞ぐような気遣いの広さに、エレノアはただただ脱帽するしかなかった。
会場へ戻るとアレクシスが一人で皿を持っている。
少しは何か食べられただろうか。
彼がこちらに気づいて安心した顔をした。
「似合っています、可愛い」
か、可愛い。
褒められていないエレノアは恥ずかしくて固まる。
一体どこからお礼を言うべきか…。
周りは先ほどの空気も変わり、会場には穏やかな時間が流れている。
アメリア達は帰ったのか視界に入らなかった。
「これがおいしいよ」
はい、とサーモンの燻製らしいものが乗った皿を差し出してくれる。
サーモンはとてもおいしかった。
結局、その後も二人でいくつかの料理を食べた。
ドレスがゆるくなったので、食事が入る。
アレクシスは静かに笑いながら、こっそりとおすすめを教えてくれた。
——昼間のこの人も、悪くない。
そう思った自分に、エレノアは少し驚いた。
少し落ち着いた頃、アレクシスが静かに言った。
「先ほどは一人にしてしまって」
「気にしていません。あなたは仕事の話をしていたのでしょう」
「それでも」
彼は少し間を置いた。
「エレノア嬢」
「はい」
「しばらく、うちに来ませんか」
思いがけない言葉だった。
「婚約者として、傍にいた方がいいと思って。今日みたいなことが、また起きるかもしれないから…」
それだけ言って、アレクシスはエレノアを見た。
答えを急かすわけでもなく、ただ待っていた。
エレノアは少し驚いた。
この人がこんなふうに言うのを、初めて聞いた気がした。
少し考えてから、エレノアは頷いた。
「……わかりました」
アレクシスが、ほんの少し目を細めた。
安堵ではなく、もっと別の何かのように見えた。
エレノアは視線を逸らした。
——なぜ逸らしたのか、わからなかった。
帰りの馬車の窓の外に、つき始めた街の灯りが流れていた。
密閉された空間。二人で乗る馬車。
アレクシスの甘い香水と、先ほどまで繋がれていた手のひらの熱が、いつまでも鼻先と肌に残っている。
アレクシスは何も言わなかった。
エレノアも、何も言わなかった。
私がヴァルトハイム家に行くことになったら…
(あの子にはもう会えないのかな?)
男装するのも、もう難しいのだろうか?
今まではあの夜会が、エレノアのささやかな「自分の居場所」だった。
でも、この人の隣でも居場所ができるのかもしれない。
エレノアは目を閉じる。
目の奥で、薄いブルーのドレスを着たあの子を見た。
背筋を正して「正しくあろう」としている背中。
ガタン、と馬車が揺れ、エレノアは目を開ける。
気づかないうちに寝てしまっていた。
アレクシスはさっきのまま外を見ている。
エレノアはまた眠りに吸い込まれていった。




