第13話 知らなければよかった、あなたの名前
額縁の中に閉じ込められた絵画たちは、どこか自分に似ていると思った。
誰もがその表面だけを愛で、美しさを称賛し、価値をつける。
中に秘められた歪みや、描き手の血が滲むような孤独など、誰も見ようとはしない。
社交界という名の、巨大な展示会。
昼間の自分は、その中央で最も輝く『最高傑作』を演じる。
ヴァルトハイム家の嫡男として、父に報いなければならない。
事業を大きくし、他貴族にもなめられてはならない。
最近ではエレノアを救い、アメリアを断罪し、公爵家を継ぐものとして彼女を迎え入れる約束をした。
あの時間は、僕にとって紛れもない真実で、至福だった。
――だというのに、どうして僕は今、この薄暗い回廊で、肺が焼けるような飢えを感じているのか。
飾られた名画よりも、僕が求めているのは、もっと不確かで、危うい『毒』なのだろうか。
――共犯者のように、隣を歩いてくれる人。
「……来てたんだ」
背後からかけられた声に、僕の心臓が、昼間にエレノアの手を握りしめた時と同じリズムで、激しく、痛いほどに跳ねた。
違うはずなのに。
重なる。
シルバーの長い髪に夜の色の燕尾服を着た青年が、こちらを見つめている。
仮面から覗く琥珀色の瞳は、展示されたどの名画よりも鮮烈な色彩を放ち、
僕の視線を一瞬で釘付けにした。
この薄暗い空間で、彼だけが発光しているかのような錯覚さえ覚える。
そのあまりにも非現実的な美しさに、僕は一歩、踏み出すことすら躊躇った。
「約束があるから」
「それって、僕と?」
さらりと言うその一人称に、胸の奥が、静かに収縮する。
この人は、僕が「淑女」であることを否定も肯定もしない。……それが、たまらなく心地よく、恐ろしい。
「……そう」
それだけで、距離が縮む。
今宵の夜会は、絵画の披露が主だ。
番号札に値を書いて投函する静かな競り。僕たちは並んで、ゆっくりと作品を眺めていく。
言葉はほとんどない。
それでも、沈黙は心地いい。
昼間の社交場では、一秒の沈黙すら計算しなければならなかったのに。
けれど、この青年との間に流れる沈黙は、驚くほど心地いい。
――でも…。
エレノアの隣も辛くない。
彼女と知り合ってから、そう思えることに気づく。
そして今、隣を歩く青年の気配もまた、あの時の彼女と同じように僕を落ち着かせてくれる。
エレノアの隣にいるときの感覚に、似ている。
——なぜだ。
人が増えて、少し押し込まれた。
“彼”の肩が、こちらの肩に触れる。
燕尾服越しに伝わる、確かな体温。僕より少しだけ低い視線。
淑女として振る舞わなければならないはずの僕は、あろうことか、その微かな圧迫感に安らぎを感じていた。
意図はわからない。でも、こちらも動けなかった。
そのとき。
少し離れたところから声が上がる。
「ノア」
指先が止まる。
聞くつもりなんて、なかった。 なのに、もう知ってしまった。
——ノア。
青年が振り返る。
その表情は——
いつも僕に向ける静けさとは、少し違った。
柔らかい。気を許している。
口元が、自然に緩んでいる。
「久しぶりだな」
「今度の会は来るのか?」
「時間があれば」
肩をすくめ、笑う。
ほんの短い会話。けれど、その距離は近い。
僕の知らない時間が、そこにある。
(そんな顔もするのか)
胸の奥が、わずかに軋む。
「自分だけが知っている」と思っていた静謐な彼が、他人の前でいとも簡単に「男」の顔を見せている。
知らないあなたがいる。
それが、こんなにも落ち着かないなんて…。
ノアが戻ってくる。
いつもの距離。
いつもの静けさ。
でも、もうさっきまでとは違う。
「……今の方と、仲がいいの?」
自分でも、少しだけ硬い声。
ノアは瞬きをひとつ。
「古くからの顔見知りだ」
それだけ。
深い意味はない。
それなのに。
(僕は、あなたの“何”なんだろう)
この夜の関係は、名前も身分も持たない。
だからこそ美しかったはずなのに。
今は、少しだけ苦しい。
ノアが、こちらを見る。
「……今日は、少し違うな」
ドキリ。胸が止まる。
「何が?」
「何か、落ち着かない顔をしている」
見抜かれている。 その、すべてを肯定しながら突き放すような、残酷なほど優しい眼差し。
逃げ場がない。
それでも、ノアは追及しない。ただ、静かに隣に立つ。
触れない。けれど、離れない。
僕の隣にいて、こちらを見てくれている。…それだけで。
胸のざわめきが、少し静まるんだ。
――ノア。
名前が知れて、うれしい。
でも、知りたくなかった。
(どうしよう)
じわじわと何かが追い詰められていくような気がする。
その名前が、僕の平穏を無残に引き裂いた。
僕は。
僕はどうすればいい?
しばらく、沈黙が続いた。
「ここでは、ノアと名乗ってる。でも…」
そこで、言葉が止まる。
「……ここまでだ」
ノアは人差し指を口に充てる。
静かな線引き。けれどその指先が、僕の理性をじりじりと削っていく。
(……ああ、やっぱり僕は、この毒に浸っていたいんだ)
でも、名前を教えてくれた。
それだけで、胸の奥が静かにほどけた。
——ノア。
名前なんて、知らなければよかった。
エレノアの隣にいる僕は、彼女にふさわしい「正しい僕」だ。
けれど、この人の隣にいる僕は、何者でもない「ただの僕」になれてしまう。
この夜会に、身分も名前もいらない。
ただ魂が呼応するように、隣にいる。
そんな、言葉にできないほど純粋で、名前のつけられない関係のままでいられたなら。
けれど今、その名を唇に乗せた瞬間、積み上げてきた全てが崩れ去って、
二度とあちら側へは戻れなくなる気がして。
逃げ場のない泥濘に、ゆっくりと足を踏み入れていくような予感に震えた。
知らなければよかった。 でも、知ってしまった。
僕は、僕をどうすればいい?




