第14話 両親はいないので、緊張することはありません。と彼は言った
「ではお父様、お母様」
エレノアは身支度を整え、二人に向き合う。
両親は寂しそうに、でも笑顔で見送ってくれる。
今日はエレノアが少しだけ旅立つ日。
「アレクシス様によろしくな」
「しっかりね」
両親の寂しそうな、けれど笑顔の門出に背中を押される。
ユノが一緒についてきてくれるため、独りぼっちではない。
先日のパーティでのグラス投げられ事件は、すぐに知られるところとなり
アレクシスの提案は、エレノアの両親もすぐに受け入れた。
準備が整えられ、エレノアは三カ月ほど、王都の近くにあるアレクシスの住む屋敷へ居候することになった。
結婚の準備も進める必要があるため、ある意味効率は良くなったと言える。
馬車に揺られながら、エレノアはこれまでのアレクシスとの時間を反芻していた。
——アレクシス・ユリウス・ヴァルトハイム
社交界での事件でも見せた通り、彼は誰の目にも美しく映る完璧な公爵跡継ぎだ。
けれど、自分の記憶に強く残っているのは、
そんな「完璧な彼」の少し違う姿。
(……あの人は、森の音を聞くのが好きな人)
狩りに同行した時や、ふとした瞬間に彼が見せる、静寂を慈しむような表情。
人に囲まれた時の、呼吸の浅くなるような気持ち。
——あの新店で、令嬢たちに囲まれていた彼の背中を思い出す。
完璧に微笑みながら、少しだけ呼吸が浅かった。
エレノアは窓の外を見た。
——知っている、と思った。
(社交界のときは違ったな)
…慣れていただけなのかもしれないけれど。
エレノアはそっと、足元のトランクを意識する。
中には仮面と紺色の燕尾服とブーツが入っている。
ノアとして夜会に潜り込む時のような高揚感とはまた違う、静かな予感。
仮面の夜会へ向かう時とは違う。
けれど、胸の奥が静かに落ち着かない。
それは婚約者としてではなく、
“アレクシス・ユリウス・ヴァルトハイム”
その人自身を知りたいという感情に近かった。
手を繋いだ時の熱を思い出して、エレノアは胸をざわつかせる。
(……それなのに、どうしてこんな時に、あの夜会の人のことを考えてしまうのだろう)
エレノアは小さく首を振った。
ヴァルトハイム家の護衛付き馬車は、道中ずっと周囲を警戒していた。
屋敷につくと、執事が迎え入れてくれる。
「ヴァルトハイム家執事のギルバートと申します」
白髪を完璧に整え、一分の隙もない燕尾服を纏ったギルバート。
彼はエレノアのことを上から下まで眺め、深々とお辞儀をした。
彼の放つ「正しく厳しい」空気が、公爵邸の重みを感じさせる。
メイドが入口に立ち並び、一斉にお辞儀をする。
「エレノア・フォン・ローゼンベルクと申します。この度はよろしくお願いいたします。」
声を整え、エレノアは美しく挨拶をする。
舐められてもだめ、嫌われてもだめ。
差し出がましくない程度に抑える。
アレクシスは部屋にいるとのことで、早速ギルバートに連れられて挨拶に向かう。
ドアを開けると、淡い色のスーツを着た彼が待ち構えていた。
部屋は、驚くほど心地よい風が吹き抜けていた。
「エレノア嬢、よく来たね、お疲れでしょう」
美しく澄んだ青い目、先まで整えられた髪。
彫刻のような美しい顔。
抱きしめられたのを思い出す、優しい甘い香り。
不思議だった。
あんなに緊張していたはずなのに、彼の顔を見た瞬間、
ずっと止めていた呼吸を深く吐き出せたような気がした。
彼はスマートに、ソファへエレノアを座らせてくれる。
「馬車の中は暑かったですか?今、冷たいものを用意させました 」
「……ありがとうございます」
夏本番が過ぎても、エレノアのローゼンベルク領はうだる暑さだった。
アレクシスの屋敷があるのは王都の近く。
本来なら同じように暑いはずなのに、木がたくさんあるからか、心地よい風が吹いていた。
差し出されたのは、レモンとはちみつが入ったジュース。 グラスを受け取るとき、指先が触れた。 一瞬。
アレクシスは何も言わなかった。
エレノアも、何も言わなかった。
「うちでとれたはちみつが入っています。口に合えばいいのですが 」
一口飲むと、爽やかな酸味と濃厚な甘みが喉を潤していく。
「おいしい……」
思わず本音が顔に出てしまい、エレノアは慌ててコホンと咳をした。
それを見たアレクシスがにこりと微笑んだ。
「さあ、ユノさんの分もあります。まずはゆっくり休んでください」
ユノは恐縮し、赤面して縮こまった。
部屋はアンティーク調の家具でまとめられ、
植物の柄が敷き詰められた美しい壁紙が貼られている。
派手になりそうなのに、しかし色がまとまっていて落ち着いた雰囲気だ。
机には書類が積んであり、アレクシスの仕事部屋のようだ。
(この方はセンスがあるのね)
エレノアはこの部屋を好きだと思った。
エレノアはアレクシスへ改めて向き直り「アレクシス様」とお辞儀をする。
「この度は、私の身を心配していただきありがとうございます。短い間ではございますが、よろしくお願いいたします。」
アレクシスは、その完璧な作法を見届けたあと、ふっと目尻を下げて微笑んだ。
そして、彼の方から少しだけ距離を詰め、エレノアの手を優しく包み込む。
「……あなたは、そのままで十分完璧です。何も気負う必要はありません」
その声は、社交界で聴くあの朗々とした響きよりも、
ずっと低く、落ち着いていた。
まるで、自分に言い聞かせているかのような響き。
彼はエレノアの返事を待たず、独り言のように、けれど逃がさないように言葉を続ける。
「三ヶ月はあっという間ですよ。またいつでも帰ってくる場所だと思っていてください」
さらりとそう言ってのける彼は、やはり自分の魅力を熟知している。
けれど、触れられた手の熱は、社交界の作り物めいた輝きよりもずっと切実な響きを帯びていた気がした。
思いがけず温かかった。
「……ありがとうございます」
エレノアは、高鳴る鼓動を悟られないよう、静かに微笑みを返した。
この人の隣で、三ヶ月。
——長いのか、短いのか。
まだ、わからなかった。
ふと、先日の社交界での言葉を思い出す。
『両親はいないので、緊張することはありません』
そう言って、さらりとウインクしてきた彼。
……深い意味は、ないと思いたい。
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