第15話 さよならの気配
アレクシスは静かな気配を振り払うかのように、「さて」とドアの方へ向かう。
「部屋の準備も整っています。ギルバートは少々口うるさいが、何かあれば遠慮なく彼に申し付けてください。あなたが快適に過ごせることが、今の私にとって最も優先すべき仕事ですから。屋敷を案内します。いきましょうか」
アレクシスが屋敷をエスコートしながら説明してくれる。
アレクシス邸は広かった。
三階建ての本館に、離れと馬屋。
裏には深い森が広がっている。
客室は三階。レクシスの自室も同じ階らしい。
曲がり角で、エレノアの肩がアレクシスの腕に軽く触れた。
「……失礼」
彼はすぐ距離を取ったのに、なぜかそこだけ熱が残った。
空いた窓からの風が心地いい。
「良いところですね」
言うと、アレクシスが柔らかく微笑んだ。
きっと季節ごとに違った風景が見えるのだろう。
話を聞いている限り、公爵夫妻もいないし、ここで育ったわけではなさそうだ。
——この人はどんな子供時代を過ごしてきたのだろう。
隣に立つ、彼の整った横顔を見ながら、ふとエレノアは思う。
いつか話してくれるだろうか。
今回使わせてもらう客室に案内される。
とても広い。
泊まれるように洗面所もあり、何不自由ない。
ユノがせっせと荷ほどきをしてくれていた。
アレクシスはまだ仕事があるようだったので、エレノアはここで別れた。
「すみません、家にいると思って自由にしてください。」
そう丁寧に言って、彼は去っていった。
「ユノ、ありがとう。あとは私がやるから」
「お嬢様、これは私の仕事です。お任せを!」
見れば、ほぼ作業は終わっている。
少し休んで欲しいのだけど…。
仕方ない。
窓からの風景を見る。
横になってみる。
——…やれやれ、落ち着かない。
エレノアは部屋を出て、屋敷を散歩してみることにした。
なんとなく人のいない方へ足が向く。
エレノアの性格である。
すると、建物の端で、ひとり屋敷のメイドが、泣いていた。
エレノアは声をかける。
「どうかしたのかしら?」
「…!!、エレノア様…!!」
申し訳ございません、と泣きながら謝るメイドを落ち着かせ、事情を聞いてみる。
掃除中、万年筆のインクをひっかけ、制服とエプロンを盛大に汚してしまったという。
手も真っ黒で、顔にもところどころ手のあとがついてしまっている。
メイド長に叱られてしまう、と彼女は震えている。
エレノアは汚れを見る。
…これは。
「あなた、お名前は?」
「フィオナ です」
「フィオナ 、大丈夫よ。これは洗えばおちる。でもすぐの方がいい。人が普段あまり使っていない水場はある?」
フィオナはワタワタと屋敷の端にある掃除用の水場を案内した。
エレノアはエプロンを受け取り、ざっと水で流す。
幸い、インクはまだ乾ききっていなかった。
水で押し出すたび、黒い染みが少しずつ薄れていく。
「エレノア様、すごいです…!」
フィオナが嬉しさのあまり、また泣きそうになっている。
エレノアの育った地域は染料で有名な地域。
インクについては少しは知識がある。
「少し残るかもしれないけど…もうほぼわからないはずよ」
ハンカチも濡らして、涙と一緒に顔をふいてやる。
肌をこすることになってしまったが、汚れはきれいに落ちた。
「制服は黒いから、インク汚れはわからないわね。でも洗ってもらってね」
ふふ、と笑うとフィオナは深く頭を下げた。
何かお礼ができないかと言うので、エレノアは閃いた。
コンコン、と客室のドアがノックされる
ユノが返事をしてドアを開けると、フィオナがドリンクを持って立っていた。
レモンの入った、冷たいジュース。
「お持ちしましたエレノア様」
「ありがとうフィオナ。ユノ、こちらはフィオナ」
二人はお辞儀をした。
「ユノ、フィオナからこのお屋敷の案内をしてもらって、このジュースのレシピも教えてもらってきてくれる?」
「はい...!」
ユノは顔を赤らめて、よろしくお願いしますと言った。
フィオナも嬉しそうにして二人は出て行った。
——年が近そうだから、仲良くなれるかもしれない。
部屋に一人になった。
とても静かだ。
西日が傾き、部屋には午後の光が入ってきている。
エレノアはクローゼットを開けた。
ユノが荷ほどきしてくれた、実家から持ってきたドレスが整っている。
隅におかれているトランクをそっとあける。
ユノはこれがエレノアの大事なものと知っているので、開けることはしない。
中には仮面と深いブルーの燕尾服。
背を誤魔化すための、シークレットブーツが入っている。
やはりこの屋敷からこっそりと抜けて、夜会の場所まで行くのはもう難しいかもしれない。
——あの子には、もう会えないかもしれない。
この間会ったとき、別れは言わなかった。
エレノアは仮面を手に取った。
夜会で使い続けた、薄い白の仮面。
軽いのに、今は少し重く感じる。
燕尾服の生地に指先が触れる。
ノアと名乗って、あの場所に立っていた自分。
あの子に名前を伝えたのだった。
——次はいつ会える?
そう聞かれたとき、答えなかった。
答えられなかった。
別れ際、振り返った彼女の顔が浮かぶ。
エレノアはトランクをそっと閉じた。
鍵をかける音が、妙に大きく聞こえた。
夕食の時間が近づいた頃、エレノアは部屋を出た。
廊下に出ると、向こうからアレクシスが歩いてくる。
書類を片手に持ち、上着のボタンをひとつ外している。 昼間よりも、少しだけ輪郭が柔らかい。
「エレノア嬢」
「アレクシス様。お仕事は終わりましたか?」
「ええ、今しがた。……客室は落ち着きますか」
「はい。とても」
短い沈黙。 廊下の端から、夕暮れの光が差し込んでいる。
「フィオナが何か粗相をしなかったですか」
少し眉を寄せて、アレクシスが言った。
心配しているというより、厳しく把握しておこうとする気配。
柔らかな口調だったが、その青い目は、使用人の変化を見逃さない主人の目だった。
「いいえ。良くしてもらいました」
エレノアが答えると、彼はそうですか、とだけ言って視線を廊下の先に戻した。
——彼は、こういう顔もするのだ。
エレノアは少しだけ驚く。
柔らかく笑うだけではない。
この広い屋敷を預かる主人として、常に人を見ている目だった。
「夕食は一緒にとりましょう。すぐ準備できると思うので」
「はい」
彼はまた書類に目を落としながら、先に歩いていった。
その背中を見ながら、エレノアはふと思う。
——なぜだろう。
理由はわからない。
ただ、夜会のあの子のことを思い出した。
月明かりの下で見た、静かな青い目。
もし、もう一度会えたなら。
廊下の先で、アレクシスがふとこちらを振り返った。
視線が、合う。
「どうしました?」
夕暮れの薄暗い光の中。
その青い瞳が、一瞬だけ。
夜会で見た“あの子”と、同じ目をした気がした。
お読みいただきありがとうございました…!
次回16話は明日、6/1(月)に更新予定です。




