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男装令嬢と女装令息の、秘密の夜会 ~仮面の下で恋をした相手は、昼間の婚約者でした~  作者: ユニ子


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第16話 午前三時のティータイム

(やっとほっとできる…)


静まり返ったアレクシス邸。


午前三時のキッチンは、月明かりが青白く床を照らしている。

昼間の活気が嘘のような静寂に包まれていた。


喉が乾いてしまったエレノアは、寝間着の上に薄手のガウンを羽織り、音もなく階段を降りる。


ユノやメイドを起こしたくないので、こっそりと向かう。

令嬢らしからぬ行動だが、仕方ない。


今の彼女は、コルセットで締め上げられた令嬢の規範から解き放たれ、

どこか少年のような、あるいは性別を超越した透明な気配を纏っていた。


誰もいないだろうと気を抜いていた…が。


(……先客?)


人がいる気配がする。引き返すべきか?

一瞬迷ったが、喉が乾いてしまっては寝れない。


扉を細く開けると、キッチンの中心で、一人の男が立ち尽くしていた。

アレクシスだった。


けれど、そこにいたのは、社交界を優雅に歩く「完璧な公爵跡継ぎ」ではなかった。


上着を脱ぎ捨て、シャツの袖を肘まで捲り上げた彼は、

まるで重すぎる鎧を剥ぎ取られた騎士のように、

無防備で、どこか脆い質感を帯びていた。



——あれが、あの彼?



昼間のアレクシスは、周囲にキラキラと光が舞っているようだが

今の彼にはそんなものは微塵もない。

体調でも悪いのか?



「……アレクシス様?」



エレノアの声は、静かな夜の空気に溶け込むような低いトーンだった。

アレクシスは跳ねるように肩を揺らし、振り返る。

その青い瞳は、ひどく混濁していた。



——疲れているんだ。

エレノアは察した。



押し寄せた疲労と、深夜の孤独に浸りきっていた意識が、

突然の来訪者に追いついていない。



「……エレノア、嬢……? すみません、見苦しい姿を」



彼は手に持っていた茶葉の缶を落としそうになり、慌てて作業台に置いた。


いつもなら完璧なエスコートを見せる男が、

今はどう反応していいのか分からず、ただ呆然と立ち尽くしている。


エレノアは、彼が纏う「限界の疲れ」と、その隙間から漏れ出る一人の人間としての体温を静かに見つめた。

その隙だらけの姿に、エレノアの胸がちくりと疼いた。



「私が淹れましょう。……あなたは、そこに座っていてください」



その口調は、婚約者としての甘えも、令嬢としての遠慮もない。

深夜の静寂に馴染む、凛とした響き。


それは「ノア」としての彼女の素の声に近かった。

アレクシスは拒むこともできず、差し出された椅子に力なく腰を下ろした。


エレノアが背を向けてポットに火をかけながら、ふと思う。



——この人は普段、誰とお茶を飲むのだろう。



きっとどんな席でも、完璧な所作でカップを傾けているのだろう。

笑顔で、隙なく、疲れた顔など一切見せずに。


でも今夜は、そういう人には見えない。

それだけは、わかった。


背後から衣擦れの音が近づいてきた。

座っているはずのアレクシスが、ふらりと立ち上がり、彼女のすぐ後ろまで歩み寄っていた。



「……エレノア嬢」



掠れた声が耳元で響く。


アレクシスは彼女を包み込むような距離で、棚の上のカップを手に取った。

距離感が測れないのか、それとも意識が朦朧としているのか。

彼の熱い体温が、ガウン越しにエレノアの背中に微かに触れる。



「……あなたは、なんだか不思議な人だ。驚くほど静かで……まるで、夜そのものみたいだ 」



彼はカップを握ったまま、動かない。


避けることもできたはずなのに、エレノアは彼の纏う、疲れ切った熱に射すくめられたように動けなくなった。


無意識に漏れ出る「一瞬の執着」と、首筋にかかる彼の吐息に、心臓が不規則な音を立てる。


普段の計算高い彼なら、冷静にあしらえるはずなのに。

心臓が、耳の奥でうるさいほど不規則な音を立てる。


——なんだか、彼のまた新しい一面を見てしまった気がする。


夜の静寂が、彼女の冷静な防壁をじりじりと削り取っていく。



「喉が乾いてしまいまして。私も一緒にいただいてもいいでしょうか」


エレノアは彼が用意していた茶葉の缶に手を伸ばした。

その瞬間、彼女は眉を微かに動かす。


(アッサムの特注品……。私が、一番大切にしている銘柄)


それは、「ノア」としての彼女が愛飲しているものだった。


(まさか、好みが一緒なの……?)


驚きと共に、隣で力なく座る男を横目で盗み見た。

完璧な貴公子、完璧な婚約者。


けれど、今ここで肩を落としている彼は、

その「完璧」という名の重い鎧を維持するために、どれほどの無理を重ねてきたのだろうか。



——つい、そんなことを考えてしまう。


「……アレクシス様。このお茶、私も好きなんです。少し、癖が強いですけれど」



エレノアが静かにそう告げると、アレクシスは意外そうに目を丸くした、

それから少しだけ、本当に少しだけ、仮面を脱いだ子供のような顔で微笑んだ。


(この人は、私が思っている以上に、危うい均衡の上に立っているのかもしれない)


淹れ立ての紅茶から立ち上る香りは、二人の境界線を少し曖昧にするような気がした。





やがて、冷めかけた紅茶を飲み干したアレクシスが、重い腰を上げる。



「……少し、頭が冷えました。エレノア嬢の淹れてくれた茶は、どんな特効薬よりも効くようです」



彼は空になったカップを静かに置いて、上着を手に取った。

袖を通しながら、もう一度だけエレノアを見た。何かを言いかけて、やめた。



「おやすみなさい。また、明日 」




彼がキッチンを去った後も、エレノアはしばらく動けずにいた。


指先に残る微かな熱と、首筋に残る吐息の感触。

心配でたまらないのに、それ以上に胸が熱くて、苦しい。


なんだろう、これは。


自分も 疲れているのかもしれない。

そう思うことにして、エレノアは残った紅茶を一口飲んだ。


アッサムの、少し癖のある香りだけが、静かなキッチンに漂っていた。


お読みいただきありがとうございました!

次回17話の更新は6/7(金)を予定していますので、楽しみにお待ちください。

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