第17話 どうせ誰も、見ていない
夜明け前に目が覚めた。
カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいる。
アレクシスの肌を冷たく、けれど鮮明に浮かび上がらせた。
彼はすぐには動かなかった。
ただ、天井の一点を見つめたまま、思考の海に沈んでいる。
ーー何か夢を見ていた気がする
乱れたシーツが腰のあたりに緩く絡みつき、昨夜の眠りが浅かったことを物語っている。
眠れたのか、あるいは眠ることを拒んだのか。
本人にすら判別のつかない、泥濘のような夜だった。
ゆっくりと身を起こすと、寝間着の柔らかい白いシャツが、重力に従って肩から滑り落ちる。
緩く開いた首元からは、社交界で見せる華奢な印象とは裏腹な、しなやかに引き締まった鎖骨と、微かに汗ばんだ胸元が覗いた。
ベッドの縁に腰をかけ、アレクシスは無意識に指を髪へと滑らせる。
いつもは一分の隙もなく整えられている金髪が、指の間で乱雑に揺れる。
ふと、それを整えようとして――。
彼は途中で、その白い指を止めた。
(……どうせ、誰も、見ていない)
部屋は静かだ。 机と棚と、仕事道具だけが整然と並んでいる。
一見、何もない部屋だ。
でも棚と引き出しの中には、人には見せないものがある。
職人が手で編んだ、細かいレースの端切れ。
市場で見つけた、小さな大理石の彫刻。
光の角度によって色が変わる、薄い絹の布。
祖母からもらった、古い本。
誰かに見せるためのものではない。
ただ、美しいと思ったから、手元に置いている。
大切にしまってある、いくつかのもの。
誰も知らない部屋の顔だ。
天井を見ながら、昨夜のことを考えた。
キッチンで、エレノアに紅茶を淹れてもらった。
ただそれだけのことだ。
なのに、あの時間が頭から離れない。
疲れていたのだ。 だから判断が鈍った。 距離が近くなりすぎた。 それだけのことだ。
アレクシスは目を閉じた。
——本当に、それだけ?
答えは出なかった。
——今までは完璧にできていたと思ったのに。
エレノアをこの屋敷に呼んだのは、彼女の身の安全のためだ。
社交界でのあの事件を考えれば、当然の判断だった。
合理的で、正しい選択だった。
そう、自分に言い聞かせていた。
でも。
馬車に一緒に乗って、屋敷へ向かう彼女を見届けたとき。
胸の奥に広がったのは安堵だけではなかった気がする。
ーもっと近くで、見ていたい。
その感覚に気づいた瞬間、アレクシスは思考を打ち切った。
起き上がり、書類を手に取る。
顔を洗って、仕事をしよう。 それだけを考えよう。
執務室へ向かう前に、なぜかキッチンへ足が向いた。
棚の前に立って、茶葉の缶を手に取った。
アッサムの特注品。
昨夜、エレノアが「私も好きなんです」と言った銘柄だ。
——また来てしまった。
アレクシスは缶をそっと棚に戻した。
誰も見ていない。
それでも、なんとなく、顔が少し熱い気がした。
昼間に着ている、固いドレスではなく、寝巻の柔らかいドレスを着た彼女。
なんだか少し、違っていた。
気のせいだ。 そう思うことにして、執務室へ向かった。
書類を広げる。
領地の報告書、来週の会議の資料、父からの手紙。
集中しなければならない。
——今頃、起きているだろうか。
アレクシスは書類から目を上げた。
上の階に、エレノアの客室がある。 音はしない。 まだ眠っているかもしれない。
……何を考えているのか。
視線を書類に戻す。 ペンを走らせる。
数行書いたところで、また止まった。
昨夜、彼女が言った言葉を思い出した。
「このお茶、私も好きなんです。少し、癖が強いですけれど」
驚いた。 あの銘柄を好む人間に、これまで会ったことがなかった。
以前、彼女が甘いものが好きな男の話をしていた。
この人には、好きな相手がいるのだと、あの時思った。
今、彼女はこの屋敷にいる。
その男の隣ではなく、自分の屋敷に。
それは、自分が呼んだからだ。
——正しいことをしたはずだ。婚約者になったのだから。
その男は、今頃彼女のことを考えているだろうか。
彼女は、この屋敷でその男を思い出すことがあるだろうか。
——胸の奥が妙に落ち着かないのは、そのせいなのか…?
アレクシスはペンを手に取った。
答えを出すつもりはなかった。
エレノア・フォン・ローゼンベルク。
つかみどころがない。 完璧な令嬢の作法を持ちながら、どこか規格外の動きをする。
森で鳥を観察していたかと思えば、令嬢たちの包囲網を一言で崩す。
深夜のキッチンで、迷いなく紅茶を淹れてくれる。
他の令嬢とは違う空気をまとっている。
その独特の雰囲気は、確かに社交界では変わっていると見なされるかもしれない。
廊下を誰かが通る気配がした。
反射的に顔を上げた。
フィオナだった。
——違った。
そのことに気づいた自分に、アレクシスは小さく息を吐いた。
ペンを置いて、少し天井を見た。 仕事に戻るまで、少し時間がかかった。
午後になっても、書類の山は減らなかった。
コン、とドアがノックされた。
「なんだ、ギルバート」
返ってきたのは、予想と違う声だった。
「……失礼します」
顔を上げた。 エレノアだった。
小さな皿を両手で持って、扉の前に立っている。
薄く切られた焼き菓子と、湯気の立つカップが添えられていた。
「よろしければ、お手を止めずに摘んでいただければ」
それだけ言って、机の端にそっと置いた。
アレクシスは一瞬、何も言えなかった。
「……ありがとうございます」
エレノアは小さく頷いて、すぐに出ていった。
ドアが閉まる。
アレクシスは皿を見た。
カップからはアッサムの香りがした。
自分用に淹れてもらったものを、そのまま持ってきたのだろう。
一口飲んだ。
温かかった。
気づいたら、口元が少し緩んでいた。
——困った。
アレクシスはカップを置いて、また書類に向かった。
でも、さっきより集中できなかった。
夜、執務室で一人になった。
仕事は終わった。 でも立ち上がる気になれなかった。
夜会のことを考えていた。
令嬢として、あの場所にいるとき。
仮面をつけて、名前を伏せて、別の自分になる。
不思議なことに、あの場所では息ができる。
ノアと話すとき、自分でも気づかないうちに言葉が出てくる。 計算していない言葉が。 飾っていない声が。
昼間の自分には、できないことだ。
その理由はわかっている。
この家の中で、アレクシスは常に「完璧な跡継ぎ」でなければならなかった。
強く、正しく、隙がなく。
それが当たり前だった。 それ以外を、知らなかった。
でも最近、その仮面が少しずつ重くなっている気がする。
昨夜のキッチンがそうだった。 疲れていたとはいえ、あんなふうに距離が崩れたのは初めてだった。
エレノアの前では、なぜか仮面の締まりが悪くなる。
——困った人だ。
アレクシスは窓の外を見た。
夜の庭に、桜の木が静かに立っている。 葉だけをつけた、暗い輪郭。
祖母が植えてくれた木だ。
「あなたはそのままでいい」
幼い頃、祖母だけがそう言ってくれた。 今はもういない。
アレクシスは視線を書類に戻した。
明日も、完璧でなければならない。 それは変わらない。
——エレノアは今頃、何をしているだろう。
その考えを打ち切ろうとして、やめた。
結局、窓の方をもう一度だけ見た。 庭の桜は、答えを返さない。
それでも、しばらく、そのまま見ていた。
本日もお読みいただきありがとうございました!
次回更新は6/5(金)予定です。




