第18話 この屋敷の、静かな答え
「エレノア様」
朝食を終えたエレノアが席を立とうとしたとき、執事のギルバートが静かに近づいてきた。
彼は白髪を美しく整え、背筋を正して立っている。
改めて見ると、彼の年齢は70代後半程に見えた。
アレクシスは早朝から仕事をしており、一緒に朝食をとることはできない。
「お屋敷のことでご不明な点もおありかと思い、お時間をいただけますでしょうか」
丁寧な言葉だった。
けれど、その灰色の瞳はエレノアをまっすぐ見ていない。
まだ測りかねている、という目だった。
「はい、もちろん」
横にいてくれたユノが心配そうにこちらを見ている。
(大丈夫よ)と視線を送ると、心得たようにそっとうなずいた。
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応接室に通され、エレノアは座る。
ギルバートは背筋を伸ばして立ち、手を前で組んだ。
「ヴァルトハイム家についてご説明申し上げます」
語り口は淀みなく、丁寧だった。
ヴァルトハイム家は北方の地域【アイゼンドルフ】に古くから続く公爵家。
北方にある領地まではここから馬車で二日ほど。
アレクシスは最近まで実家の公爵家を主に使っており、
王都にあるこの屋敷は、先代の奥様が建てたもの。
アレクシスが王都で仕事があるときに使っているという。
ヴァルトハイム領は冬は雪深く、気候が厳しい。
人は頑健で、領民との結びつきが強い土地柄だという。
産業は牧畜と林業が中心。
良質な木材と毛織物が主な収入源で、王都にも卸している。
南方の領地に比べると派手さはないが、堅実で安定した領地運営が代々続いている。
「染料の原料となる植物も、一部産出しております。茜を中心に、小規模ながら加工まで行っております」
「茜なら媒染の温度が難しいですね」
エレノアがつぶやくように、自然に口を挟んだ。
「左様でございます」
ギルバートはそれだけ言って続けた。 一拍置いてから、独り言のように付け加えた。
「アレクシス様も染料にご興味をお持ちで、幼い頃に領地の工房へ足を運ばれたことがございます」
———そうだったんだ。
エレノアは少し止まった。
また、だ。 共通点が出てくるたびに、なぜか胸の奥が小さく揺れる。
理由はわからなかった。
そのとき、応接室の扉の前をアレクシスが通りかかった。
書類を手に持ったまま、足を止める気配はない。
けれど通り過ぎる一瞬、視線だけがエレノアを捉えた。
目が合った。
彼は歩みを止めないまま、小さく頷いた。 それだけだった。
次の瞬間にはもう、廊下の奥へ消えていた。
立ち止まらなかった。 声もかけなかった。
それなのに、確かにこちらを見ていた。
ギルバートは書類に目を落としたまま、気づいていない。 説明が続いている。
エレノアは前を向いた。
なんだか、少し落ち着かなかった。
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ヴァルトハイム家の話が続く中で、エレノアは家風の話が自然に滲み出ていると感じた。
説明として語られたわけではない。
だがエレノアには分かった。
この家では、正しさが何よりも優先されるのだ。
誰かが悲しんでいても。
苦しんでいても。
それが正しいとされるなら、立ち止まらない。
失敗してはいけない。
弱音を吐いてはいけない。
期待を裏切ってはいけない。
そんな見えない規律が、この家にはあった。
――窮屈だな。
ふと、そう思った。
先日、キッチンで肩を落としていたアレクシスの姿が頭をよぎる。
――あの人は、この家でずっと生きてきたのだ。
ふと、屋敷に着いた日のことを思い出す。
冷たいジュースを出してくれたとき、「うちでとれたはちみつが入っています」と微笑んでいた。
あの人が、この家風の中で育ったのか。
なんとなく、うまく重ならなかった。
けれどそれは口には出さなかった。
「奥様方は、当主を支える立場として、礼儀作法・社交・家の管理を担われております。エレノア様にも、ゆくゆくはそのような役割をお願いすることになるかと存じます」
「わかりました」
エレノアが静かに答える。
ギルバートは僅かに目を瞬いた。
反論もない。
戸惑いもない。
けれどエレノアにとっては、聞き慣れた話だった。
令嬢とはそういうものだと。
幼い頃から何度も聞かされてきたのだから。
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庭に出たのは、説明の最後だった。
庭の奥に、一本だけ他の木と種類の違う木が立っている。
「先代の奥様が植えられたものです。春になると花が咲きます」
ギルバートの声が、ほんのわずか、柔らかくなった。
「……変わった方でした」
それ以上は語らなかった。
エレノアも何も聞かなかった。
庭を出る前に、もう一度だけ振り返る。
季節が来たら、どんな景色になるのだろう。
今はまだ、葉だけが静かに揺れていた。
庭から屋敷へ戻る石畳で、エレノアの足が僅かに凹凸に取られた。
ギルバートが咄嗟に手を差し伸べる。
「大丈夫です」
エレノアは静かに断った。
ギルバートは手を引いた。 そのまま歩き始めながら、ほとんど独り言のように呟いた。
「……アレクシス様に、似ておられます」
エレノアが聞き返そうとしたとき、ギルバートはすでに前を向いていた。
何が似ているのか、わからなかった。
わからないまま、屋敷の扉が開いた。
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「ご不明な点がございましたら、いつでも申し付けください」
朝と同じ言葉だった。
けれど今度は、灰色の瞳がエレノアをまっすぐ見ていた。
「ありがとうございます、ギルバート」
名前を呼ぶと、彼はわずかに目を瞬かせた。 それだけだった。
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