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男装令嬢と女装令息の、秘密の夜会 ~仮面の下で恋をした相手は、昼間の婚約者でした~  作者: ユニ子


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第19話 新しい自分


「おやすみなさい、アレクシス様」


「おやすみなさい、エレノア嬢」



エレノアが寝る前の挨拶にきてくれた。


彼女がうちに滞在するようになってから、少し経った。


慣れてきたのか、自然な笑顔を見せてくれるようになった気がする。


執事やメイドたちとも打ち解けている。




今日は夜会の日だ。


——ノアと会える日。



前回、ノアという名前を知ったショックもあったが、いざ知れば心に馴染んでいる。



夜の空気をまとった、凛と美しい姿。


女でも男でもない”彼”らしい名前。



——皆が寝静まった頃。


金のウィッグを付け、ドレスの紐を締める。

鏡の中の自分はもう、アレクシス・ユリウス・ヴァルトハイムではない。


はじめはただ、自分以外の「何か」になりたかった。

別に男でも女でもなんでもよかった。

…自分を隠してくれるなら。


名前や身分を隠し、仮面をつけて参加する夜会は、ちょうど良かった。


特に女になれば、あの『アレクシス』だと思う人もいないだろうと思った。


レースやドレス、美術品。美しいものは昔から好きだったから、

むしろ楽しいと思えた。


——でもなんだか、今日はいつもとは違うような気がする。


一歩、部屋の外へ踏み出す。

いつもは堂々と歩くはずの廊下が、今は牙を剥いた迷路のように感じられた。


(……静かだ)


深夜の屋敷は、驚くほど小さな音を拾う。

絹の衣擦れが、まるで叫び声のように耳に響いた。


——カタッ


何かの音がした。そして、走り去るような軽い足取りの音。


咄嗟に冷たい壁に背を預け、呼吸を止めた。

心臓の音が、耳元でうるさいほどに打ち鳴らされている。


(……今のは、誰だ?)


静まり返った廊下に、わずかな空気の揺れと、嗅ぎ慣れたはずのような、清い香りが残っていた。


(こんな時間に仕事をしているメイドでもいるのか?)


自分の心臓の音に追われ、その香りの主を突き止める余裕などなかった。

ただ、逃げるように勝手口へと急ぐ。



見つかれば、全てが終わる。

完璧な貴公子としての人生も、この「夜の自由」も。


けれど、指先が微かに震えているのは、恐怖のせいだけではなかった。


守り続けてきた「正解」を、今、自分の手で踏み越えていく。

その背徳的な高揚感に、アレクシスは薄く唇を噛んだ。




——扉を抜けると、そこはもう「僕」のいない世界。

甘い香水と、仮面越しの熱視線が渦巻く、夜の始まりだ。






****

今日の夜会の催しは「香りの鑑賞会」 。


たくさんの香水の新作が試せる。購入もできるようだ。


…しばらく経った頃、「こんばんは」と透き通った、少し低い声がした。



——ドキリ



ノアだった。銀髪の長い髪をまとめた、夜の色の燕尾服。


今夜も会えて、嬉しい。



到着したばかりのノアは、夜の闇を連れてきたような気配がした。

走ってきたのか、額の汗が真珠のように輝き、乱れた銀髪が頬に張り付いている。


「ふう…やれやれ」


そう言って、乱れた呼吸を整える。

首を傾け、気だるげに襟元を少し緩める様子に、なぜか目が離せない。


緩んだシャツの隙間から、熱を帯びた吐息が漏れる。

露わになったのは、男にしては華奢すぎる、滑らかな喉元。

燕尾服の硬い質感と、そこから覗く柔らかそうな肌のコントラスト。


(……だめだ、見てはいけない)


脳裏で警告が鳴るのに、視線は磁石のように吸い寄せられる。


アレクシスは自分の指先が、無意識にその「熱」を求めて震えていることに気づき、慌てて手元のグラスを握りしめた。


瞬間、彼から屋敷の廊下で感じたあの清い香りがして、心臓が跳ねた。


(まさか――)


思考が止まりかけた僕の前で、ノアが手にした小瓶を棚に戻す。


「いい香りだ」


(…びっくりした。その香水の香りだったのか。)


僕は安堵と、正体不明の寂しさが混ざった溜息を吐き出した。


さっき感じた、あの胸が騒ぐような「雨上がりの森の匂い」も、きっとこの会場に満ちている無数の香水のせいだろう。


ノアはずっと何かを考えるように、あごに手をあてて視線を落としている。

そしてひとつひとつ、香りを試している。


整った横顔。

白い仮面。


この間までは夢の中の人みたいだった。


なのに、こうして隣に立って、名前を知った。



ただ、彼の隣が心地良い。息ができる。



(僕は、ただ彼の隣にいたい)



仮面から覗く琥珀色の目。



ノアは香水を買った。



「君にあげる」



「え…」


はい、と渡されたのは、透明で金の装飾がされた、美しい瓶だった。


「君のイメージの香りを選んだ」


…表情が少し、いたずらっぽく見えるのは気のせいだろうか?


そして「あのさ」と続ける。


「この間、僕の名前を教えたよね」


うん、とうなずく。



「リィ…という名前はどうかな」


彼はしっかりとこちらを見る。そして低く、確かめるように言う。


「それが、夜の君の名前だ。

夜会では本名を伏せる。だから君もまだ、夜の名前は持っていないだろうと思って」


少し間があって。


「君の瞳が、夜の光を反射して綺麗だから。……夜に差す光、みたいな感じで」


彼は少し照れくさそうに視線を逸らして、自分なりの解釈をボソッと付け加える。


「リィ。この夜が終わっても、僕の中では君はリィだ。……嫌だったかな?」


(嫌なはずがない)


僕は答える代わりに、手渡された小瓶をそっと指先でなぞった。


アレクシスという名にまとわりつく義務も期待も、この名には一切含まれていない。


その瞬間。

胸の奥にあった孤独が、溶けた。


ノアが名付けたのは、ただの愛称じゃない。

ヴァルトハイム家の跡継ぎでも、完璧な人形でもない、剥き出しの「僕」の居場所だった。


「リィ」


ノアが、確かめるように呼ぶ。

たった二文字なのに、胸の奥が震える。


その響きの中に、昼間、屋敷で聞いたことがあるような感じがする。


(ああ、なんていい声なんだ)


「……ノア」


今度は、こちらが呼ぶ。


ノアの視線が、やわらぐ。


「もう一回」


冗談のように言う。


「ノア」


今度は、まっすぐに。

ノアは一瞬だけ目を閉じる。


「……うん」


その肯定は、名前よりも甘かった。




夜の終わり。


別れ際。


ノアが言う。



「また来る?」



問いではなく、確認のような声。


僕は、少しだけ笑う。



「……約束があるから」



今度は、迷いがなかった。


ノアが、わずかに目を細める。


その表情が、好きだと思ってしまった。


——婚約者がいるのに。


わかっている。昼の世界で、レースの話をした人のことが、まだ頭にある。

でも、この気持ちに名前をつけることを、まだ恐れている。


夜風が、仮面の縁を撫でる。


違うはずなのに。 それなのに、どうして。

昼の婚約者のことを考えるとき、 いつもこの人の顔が浮かぶから。


手渡された小瓶の蓋を、そっと開けてみる。


(……まさか)


立ち上がったのは、甘いだけの香りではなかった。

湿った土と静かな樹々の呼吸を思わせる…。

それは、あの日二人で歩いた「雨上がりの森」の香りだった。



本日もお読みいただきありがとうございました!


次回更新は6/12(金)予定です。

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