第19.5話 夜明け前の話
空が、少しだけ白み始めていた。
裏口から屋敷に入る。 音を立てないように。 誰にも会わないように。
廊下は暗い。 使用人たちはまだ眠っている。
ウィッグを外しながら、自室へ向かう。
鏡の前に立つと、完璧なアレクシスでもない、誰でもない顔が映っていた。
——リィ。
その名前が、頭の中で静かに響く。
ノアが、名付けてくれた。 夜に差す光、みたいな感じで、と言っていた。
胸の奥に、何かが灯っている。
消えない。 帰ってきてからも、ずっと。
手の中の小瓶を見た。
ノアが選んでくれた香水。 雨上がりの森の香り。
ほんの少しだけ、手首に触れさせる。
棚を開ける。
レースの端切れ。大理石の彫刻。薄い絹の布。
その隣に、そっと置いた。
着替えて顔を洗う。
まだ屋敷は静かだ。
この時間が僕は好きだ。
誰にも何も求められない。
完璧な跡継ぎでも、令嬢でもない。
世界に自分一人になったような気がして、安心したような寂しいような気持ちが混ざる。
ただ、ここにいるだけでいい。
そんな時間が、夜明け前にだけある。
ベッドに腰を下ろして、天井を見た。
ノアのことを考えていた。
銀髪。白い仮面。夜の色の燕尾服。
名前を呼んだときの、やわらいだ目。
ノア、と呼んだら。 ノアが、一瞬だけ目を閉じた。
「……うん」と言った。
その顔が、忘れられない。
あの肯定が、名前よりも甘かった。
——また会える。
そう思うと、胸が温かかった。
——また会いたい。
そう思った瞬間、別の顔が浮かんだ。
エレノアだった。
アレクシスは、少し止まった。
——なぜ。
ノアのことを考えていたはずなのに。
エレノアの顔が、重なる。 消えない。
二人は違う。 昼と夜くらい、違う。
——わかっている。
でも。
これまでエレノアのことを考えるとき、いつも「婚約者」という言葉が先にあった。
大切にしなければならない人。 守らなければならない人。
なのに今は、違う。
——会いたい。
その感情に、名前をつけるとしたら。
アレクシスは、その先を考えるのをやめた。 でも、打ち切ることも、できなかった。
リィという名前をもらった瞬間に、何かが変わった気がした。
それだけは、わかる。
ノアのことを考えるとき、胸が温かくなる。
でもその感情に、名前をつけられない。
恋、と呼ぶには違う気がした。
尊敬、とも少し違う。
ただ、隣にいたいと思う。
その気持ちの正体が、わからなかった。
部屋の隅を見る。
先ほどまで着ていたリィのドレスが、脱いだまま置きっぱなしになっている。
自分で縫ったドレスだ。
デザインを考えて、生地を選んで、深夜に一人で仕上げた。
誰にも言っていない。
針を動かしていると、頭の中が静かになる。
美しいものが手元にできあがると、少し息ができる。
それだけのことだ。
ドレスは好きだ。 レースも、美しい生地も。 それは変わらない。
でも今夜、ウィッグを外したとき。 少しだけ、ほっとした。
——以前は、そんなことはなかった。
鏡を見ると、自分ではないみたいで、とても嬉しかったのに。
何かが、少しずつ変わっている。 何が変わっているのか、まだわからない。
ただ、エレノアの顔が、また浮かんだ。
窓の外が、明るくなっていく。
少し寝て、起きたら。
彼女に会いに行こう。
いつも朝食は別だから、今日は一緒にとろう。
——彼女は驚くだろうか?何とも思わないだろうか?
少し眠そうな顔をするかもしれない。
それとも、いつも通りの静かな顔で「おはようございます」と言うだろうか。
どちらでもいい気がした。
どちらでも、見たかった。
はちみつ色の瞳が、もう恋しかった。




