第20話 甘い毒に侵されて
——その夜、エレノアは眠れなかった。
数日前のことを、また考えていた。
この屋敷を抜け出して、夜会に参加してみた。
王都なので近かったのだが、誰かに見られないように…と気を使い
走ったり隠れたりしながら夜会の場所まで行った。
夜会で、あの子に名前をつけた。
リィ、と呼んだら、少し照れたような顔をした。
別れ際の会話を思い出す。
「また来る?」 エレノアが聞くと、リィは少し間を置いてから答えた。
「……約束があるから」
そう言ってもらえたけど、自分は「僕も」とは言えなかった。
この屋敷から夜会へ抜け出すのは、簡単ではなかった。
また会えるかどうか、自分でもわからなかった。
リィはなんと思っただろう。
(香水、気に入ってくれたかな?)
なんとなくだけど、真剣に選んだ、美しい金の縁取りの小瓶。
香りは森を思い出すような、爽やかでやさしい香り。
リィにぴったりだと思った。
エレノアは天井を見た。
なぜこんなに気になるのか、自分でもわからなかった。
『ノア』
リィが、あの特別な、少し唇を震わせるような声で自分の名を呼ぶ。
“彼女”らしい、落ち着いた声。思い出すだけで、胸の奥がぎゅっと震える。
嬉しかった。
あの暗闇の中で、二人だけの秘密の名前を呼び合った、あの特別な時間。
(……もっと、あの声で、呼んでほしい )
そこまで考えて、エレノアは自分の思考の熱さにハッと息を呑み、がば!と勢いよく布団を跳ね除けた。
——ドキドキ
静まり返った寝室に、異常なほど大きな心臓の音がうるさく鳴り響いている。
自分の顔がひどく熱い。
冷たい夜の空気に触れたくて、エレノアは薄手のガウンを羽織ると、吸い寄せられるように部屋の外へと足を踏み出した。
廊下に出る。 就寝時間で灯りは少ない。
屋敷は静かで、足音だけが響く。
そこに前方から歩いてくる、一人の人影があった。
――アレクシスだった。
****
真夜中。 アレクシスは執務室の片隅で、一人ソファに深く腰掛けていた。
今日の仕事は一旦けりをつけた。けれど、どうしても自室へ立ち上がる気になれなかった。
違和感があった。
確かな違和感があった。 そしてその違和感は、日を追うごとに、彼の中で無視できないほど大きくなっていた。
ドレスを纏い、令嬢としてあの妖しい場所に身を置くとき。
仮面をつけて、偽りの名前で、別の自分になるとき。
不思議なことに、あの場所にいる時だけ、息ができると感じていた。
ノアと話している時、自分でも驚くほど、内側から自然と言葉が溢れてくる。
計算もしていない嘘のない本心の言葉。飾っていない、僕の本当の声。
その理由は、自分が一番よく分かっている。
強く、正しく、一切の隙なくふるまうこと。
王都のこの大きな屋敷にいても、実際の絶対的な支配者は父だ。
ギルバート以下、すべての使用人たちも父上の鋭い支配下にある。
ヴァルトハイム家に関わるものとして、一族の規律は狂いなく守るよう、一挙一動を制限されて生きてきた。
――実の息子であり、次期公爵である僕なら、なおさら。
それがアレクシスにとっての当たり前だった。
でも、最近。その完璧な「仮面」が、少しずつ、耐えがたいほど重くなっている気がする。
先日の夜のキッチンがそうだった。
どれほど疲れていたとはいえ、あんな風に他人の前で距離感が崩れたのは、生まれて初めてのことだった。
エレノアの前では、なぜか、いつも強固に閉じていたはずの仮面の締まりが、酷く悪くなってしまう。
――僕は、どうしたらいいのだろう。
いや……本当は、僕はどうしたい?
(こんな問いを、自分に向けたことなど、今まで一度もなかった。 )
いつも、答えは決まっていた。正しくあること。期待に応えること。感情を律し、隙を見せないこと。
それなのに、今はその「正しさ」が、何なのかすら分からなくなっている。
アレクシスは立ち上がり、窓の外の闇を見つめた。
静まり返った夜の庭に、一本の桜の木がひっそりと立ている。花を落とし、青々とした葉だけを茂らせた、暗い輪郭。 亡くなった祖母が、昔、アレクシスのために植えてくれた木だ。
『あなたはそのままで、十分に美しいのよ』
幼い頃、世界中で祖母だけが、僕にそう言って頭を撫でてくれた。
……今はもう、この世界にはいないけれど。
なぜか今夜は、そんな昔の記憶を思い出す。
アレクシスは小さく首を振り、視線を冷たい窓硝子へと戻した。 明日になれば、また完璧な次期公爵でなければならない。それは絶対に変わらない、彼の義務だ。
――エレノアは今頃、もう暖かなベッドで寝ているだろうか。
彼女の部屋がある方角の窓を、もう一度だけ見つめる。
夜風に、桜の葉がさわさわと揺れていた。しばらくの間、アレクシスはその輪郭を、ただじっと見つめ続けていた。
自室へと戻るため、暗い夜の廊下を歩いていた時だった。
曲がり角を曲がった瞬間、アレクシスは衝撃でピタリと足を止めた。
前方に、人影があった。誰かと思えば――エレノアだった。 彼女もまだ、起きていたようだ。
ただ、いつも見る彼女とは、決定的に違っていた。
いつも完璧に結い上げられている美しいパープルの髪が、今は全て、柔らかく下ろされている。
贅沢に肩へと流れる、夜色の髪。 華奢な身体のラインを優しく包む、薄いガウン姿。
壁に設置された夜灯りの淡い光を受けて、昼間の凛とした姿より、ずっと、ずっと柔らかく、脆そうに見えた。
あまりの艶やかさに、一瞬、喉が渇いたように言葉が出なかった。
なぜ、僕はこんなにも彼女から目を離せないのだろう。
彼女は僕の婚約者だ。
毎日、嫌というほど顔を合わせている。
今さら珍しい姿など、何一つないはずなのに。 それなのに……どうしても、目が離せなかった。
「……アレクシス様?」
暗闇の中、鈴を転がすような声で名前を呼ばれ、アレクシスはようやく我に返った。 ドクン、と心臓がうるさく跳ねる。 動揺を隠すように、けれど、頭で考えるより先に、僕の唇が勝手に動いていた。
「……ガウン姿も、大変素敵ですね」
言った瞬間、自分で自分の言葉に凍りついた。 その夜の闇をそのまま含んだような、低く、甘く掠れた声は、まるで自分ではない、見知らぬ男のものみたいだった。
エレノアが、驚きで小さく息を呑み、その場に固まる気配が伝わってくる。
彼女が今、どんな表情をしているのか。廊下が暗くてよく見えない。いや……本当は、自分の失言が怖くて、彼女の顔をまっすぐに見ることなど出来なかった。
「……おやすみなさい」
アレクシスはそれだけを強張った声で告げると、まるで何かから逃げ出すように、早足でその場を去った。
――あんなつもりでは、なかった。本当に。
社交界の令嬢たちの装いを褒めることなど、呼吸をするよりも簡単に、いくらでも優雅にやってのけてきたはずだ。
なのに、今夜は、全く違った。 お世辞でも、計算でもない。ただ心の中で思った衝動が、そのまま、剥き出しのまま口から滑り落ちた。
(なぜ、あんなことを言ったんだ……!)
アレクシスは自室へ飛び込むように戻り、重い扉を閉めて鍵をかけた。
あれでは、まるで。 あれでは、まるで……格好のつかない、ただの――。
「……っ」
アレクシスは熱くなった顔を、両手で酷く乱暴に覆った。
『ガウン姿も、素敵ですね』 静寂の中に、自分の情けない声が繰り返される。
あれは絶対に、ただの社交辞令なんかではなかった。魂の底から、本当に、綺麗だと思ってしまったのだ。
(……なぜだ。どうしてなんだ)
律してきたはずの、この身体と言葉がほんの一瞬で、簡単に制御を失った。その事実だけが恐ろしいほど鮮明に、頭の中に残り続けていた。
アレクシスは寝台に倒れ込み、枕に深く顔を埋めた。 どれだけ自問自答しても、その問いへの明確な答えは、まだ何一つ分からなかった。
本日もお読みいただきありがとうございました!
次回更新は6/14(日)予定です。
加筆・修正しました。(2026.6.26)(2026.7.14)




