第20話 廊下のすれ違い
エレノアがアレクシスの屋敷に来て、一ヶ月が経とうとしていた。
暑かった気温も、夜は涼しくなった。
最初は緊張していた食事も、今は自然にとれるようになった。
ギルバートの少し口うるさい説明も、フィオナの慌ただしい足音も、聞き慣れた音になっていた。
アレクシスのことも、少しわかってきた気がしていた。
完璧で、気遣いができて、スマートな美しい人。
けれど鎧みたいなものがあって。
実は、森の音を聞くような繊細さを持っている人。
——信頼できる人だ。
安心していた。
だからこそ、自分の変化には気づかなかった。
****
——その夜、エレノアは眠れなかった。
数日前のことを、また考えていた。
この屋敷を抜け出して、夜会に参加してみた。
王都なので近かったのだが、誰かに見られないように…と気を使い
走ったり隠れたりしながら夜会の場所まで行った。
夜会で、あの子に名前をつけた。
リィ、と呼んだら、少し照れたような顔をした。
別れ際の会話を思い出す。
「また来る?」 とエレノアが聞くと、リィは少し間を置いてから答えた。
「……約束があるから」
そう言ってもらえたけど、自分は「僕も」とは言えなかった。
この屋敷から夜会へ抜け出すのは、簡単ではない。
また会えるかどうか、自分でもわからなかった。
リィはなんと思っただろう。
(香水、気に入ってくれたかな?)
なんとなくだけど、真剣に選んだ、美しい金の縁取りの小瓶。
香りは森を思い出すような、爽やかでやさしい香り。
リィにぴったりだと思った。
エレノアは天井を見た。
なぜこんなに気になるのか、自分でもわからなかった。
薄手のガウンを羽織り、廊下に出る。
灯りは少ない。 夜の屋敷は静かで、足音だけが響く。
角を曲がったとき。
アレクシスがいた。
書類を片手に持ったまま、こちらに向かって歩いてくる。
仕事の帰りだろうか。
上着のボタンはいくつか外れていた。
灯りが少ないせいか、いつもより影が濃い。
立ち止まった。
いつもならスマートに道を譲ってくれて、
おやすみなさい、と言って、先に行かせてくれる。
でも今夜は、動かなかった。
一歩、こちらに近づく。 エレノアは自然と壁際に下がった。
「アレク…」
灯りが届かない。 彼の表情が、よく見えない。
でも、わかった。
なんだかいつもと、違う。
昼間の彼から漂うのは、整えられた香水の匂いだ。
それは今夜も同じだった。
でもその下に、もっと素に近い何かが混じっていた。
体温の混じった、深い気配だった。
「……ガウン姿も、素敵ですね」
昼間にドレスを「よく似合っています」と言ってくれる時の、完璧な微笑みじゃない。
もっと、低く。
もっと、近く。
まるで、夜会で隣に立つ誰かに話しかけるような、親密な柔らかい声だった。
言ってから、アレクシスは一瞬だけ黙った。
わずかに、息を吐く音がした。
それからゆっくりと、「おやすみ」と言って横を通り過ぎた。
すれ違いざま、袖が触れた。 一瞬だけ。
その瞬間、かすかな香りがした。
——知っている香りだ。 どこかで…
でも彼はもう、廊下の先へ歩いていた。 気のせいだったかもしれない。
でも、なぜか胸の奥がざわついた。
足音が遠ざかる。 消える。
エレノアはしばらく、壁に背中をつけたまま動けなかった。
(今の声は…な、なんか…危ない…)
ドキ ドキ
不思議だった。
アレクシスは今までにも何度も褒めてくれた。
ドレスも。
髪も。
立ち振る舞いも。
社交界で聞く令息たちの賛辞より、ずっと洗練されていた。
女性に囲まれている姿は何度も見た。
だから勝手に思っていた。
…もっと器用な人だと。
誰にでも自然に微笑み、
誰にでも気の利いた言葉をかけられる人。
けれど今夜の彼は違った。
むしろ、彼の方が戸惑っているように見えた。
あれほど完璧な人なのに、
なぜか今夜は、褒める言葉を選び損ねた人のようだった。
まるで、自分でも何を言うべきかわからなくなっているような。
そんな不器用さが、一瞬だけ見えた気がした。
そんな彼に、心臓がドキドキしている。
——実は、少し思っていたことがある。
アレクシスは、社交界ではいつも女性たちに囲まれていた。
部屋を用意することも、女性の扱いも、慣れているのだと思っていた。
そういう人なのだと。
そして、同じ屋敷にいる婚約者ともなれば、もっと距離は近いのかもしれないと…。
でも実際の彼は、必要以上に触れない。
二人きりになっても距離を保つ。
優しい視線を向ける時も。
褒める時も。
どこか一歩引いている。
まるで境界線を踏み越えないようにしているみたいに。
もちろん、その方が気楽だった。
無理に距離を詰められるより、ずっといい。
けれど…今夜のアレクシスは少しだけ違った。
『……ガウン姿も、素敵ですね』
低いテノールの、甘い声。
褒められただけだ。 それだけのことだ。
ドキ ドキ
心臓が、うるさい。
あの声が、耳に響く。
(…不思議な人)
森では、雨の音に耳を澄ませていた。
社交界では、誰よりも洗練されて見える。
さらりと人を褒めることもできる。
なのに、一緒に暮らし始めてからは、思っていたよりずっと距離が遠かった。
近いようで遠い。
でも、一緒に暮らそうと提案してくれたのは彼だ。
開いているようで閉じている。
時々、何が本当のアレクシスなのかわからなくなる。
(わからない、とりあえず、もう寝よう)
部屋に戻ると、秋の夜気がひんやりと漂っていた。
布団に潜り込む。 さっきより、少し冷たい。
——そういえば。
いつかアレクシスと、同じベッドで眠る日が来るのだろう。
婚約者として、やがて夫婦として。
隣に、誰かがいる夜が来る。
現実的な想像だった。
怖くはない。 ただ、まだ実感がなかった。
目を閉じる。
アレクシスを思い浮かべようとした。 なのになぜか、浮かんできたのは別の顔だった。
リィ。
エレノアは目を開けた。
——なんで?
天井を見つめる。 答えは出なかった。
布団を少し、深く被った。
****
翌朝、アレクシスはいつも通りだった。
完璧な笑顔で、完璧な所作で、おはようございますと言った。
エレノアも、いつも通りに返した。
仕事のために外出するという彼を見送る。
朝日と、背筋を正して出ていくアレクシスの様相がまぶしい。
エレノアは彼の目を正面から見ることができなかった。
昨夜の、あの声が。 まだ、耳に残って。
「行ってきますね」
それだけの言葉なのに、今日は妙に近く感じた。
本日もお読みいただきありがとうございました!
次回更新は6/14(日)予定です。




