第21話 会えたのは、きっと偶然
エレノアがアレクシスの屋敷に来て、二ヶ月が経とうとしていた。
この短い期間で、彼女はアレクシスという男の輪郭を、少しずつ理解でき始めた気がしていた。
誰に対しても完璧で、細やかな気遣いができる、非の打ち所がない公爵家の跡継ぎ。
けれど、その冷たくて美しい鎧の下に、壊れそうなほど繊細な『何か』を必死に抱え込んでいる人。
――いつしか、エレノアは彼のことを、そんな風に見つめるようになっていた。
その日は、専属メイドのユノの気晴らしを兼ねて、二人で王都の町へ出かけることにした。
「今日はどちらへ?」
朝食を終えて廊下を歩いていると、書類を手にしたアレクシスと会った。
昨夜の、あの深夜の廊下での出来事――彼がガウン姿の自分を見て、余裕をなくした声で『素敵ですね』と言った、あの奇妙な逢瀬。
その残像が脳裏をよぎり、エレノアは少しだけ緊張して身を固くする。
けれど、目の前のアレクシスはいつも通りの、完璧に澄ました美貌を保っていた。
「町へ、本を探しに行こうかと思っていました」
「そうですか。……道中、お気を付けて」
それだけを静かに告げると、彼はいつものように執務室へと向かった。
エレノアは、その少し足早な彼の広い背中を見送ってから、ユノと連れ立って屋敷を出た。
****
秋を迎えた王都の町は、今日も活気に満ち溢れていた。
活気ある商人の呼び声、石畳を小気味よく行き交う馬車の音、どこからか漂ってくる香ばしい焼き立てパンの匂い。
「お嬢様、見てください!」
ユノが目を輝かせて、色鮮やかな布地が並ぶ店の前で立ち止まった。
様々な生地が、秋の日差しに映えてきらきらと輝いている。
「きれいね、ユノ」
ユノは店先の生地を次々と手に取り、頬を可愛らしく上気させている。
普段は屋敷の中に閉じこもり、エレノアの世話ばかりに追われている彼女だ。こうして外に出て、自分のために目を輝かせている姿を見るのは、エレノアにとっても心から嬉しいことだった。
今日は「本屋に行く」という名目だったけれど、実はユノの気晴らしこそが、エレノアの密かな目的だった。
「お嬢様、このレース! なんだか結婚式のドレスにすごく合いそうじゃないですか?」
ユノが嬉しそうに、薄いクリーム色の繊細なレースを広げて見せる。
「そうね……」
式は半年後を予定している。近いうちに、アレクシスに少し時間をもらって相談してみることにしよう。 そう考えると、エレノアの口元も、自然と少しだけ緩んでいた。
「もう少し他のお店も見てから決めましょう」
「はい!」
ユノが弾んだ声で返事をする。その顔を見ているだけで、こちらまで心が軽くなる。
お目当ての本屋に入ると、エレノアはまっすぐ自然科学の棚へと向かった。
平積みになった図鑑の中に、一冊だけ、どうしても気になるタイトルの本があった。
『王都近郊・森の鳥図鑑』。そっと手に取り、ページをパラパラとめくる。
――あの日、あの雨の森で、彼と一緒に見た不思議な鳥の名前。結局、聞けないままだった。
アレクシスが木の上を指差して、何かを言いかけて、その瞬間に激しい雨が降り始めたのだ。
あの鳥が一体何という名前だったのか、エレノアはずっと胸の奥で気になっていた。
「お嬢様、その本にするんですか?」
「ええ、これにする」
ユノが少し意外そうな顔をしたけれど、それ以上は何も言わなかった。
買い物を終えて小さな広場に出ると、ユノが香ばしい焼き栗を買ってくれた。 包み紙越しでも熱くて、素朴に甘くて、口いっぱいに秋の味が広がる。
「フィオナに教えてあげたら、絶対に喜びますね」
「そうね。今度はあの子も一緒に連れて来ましょう」
二人でそんな会話を交わしながら、先日訪れた『サロン・ド・ヴァルトハイム』の前を通りかかった。
店は相変わらずの大繁盛で、身分の垣根なく、たくさんの人々が笑顔でお茶を楽しんでいるのが窓越しに見える。 焼き栗を頬張りながら、二人は誇らしい気持ちでそれを見つめ、微笑み合った。
****
賑やかな通りから、路地を一本入ったときだった。 エレノアの足が、不意にピタリと止まった。
古びた建物の角に、ひっそりと掛けられているランタンを見つけた。
――夜の秘密の色。揺れる、紫色のランタン。
吸い寄せられるように近づいて見ると、ランタンの下に小さな木札が下がっていた。
『今月はお休みです』
エレノアはしばらくの間、その文字をじっと見つめていた。
――そうか。今月は、あの会はないのだ。
リィに会えるなんて、最初から期待していたわけではない。
この監視の厳しいヴァルトハイム家の屋敷から、そう何度も抜け出すことなんて不可能なのだと分かっていたはずだ。
「お嬢様、どうかしましたか?」
「……ううん、なんでもない」
エレノアは無理にランタンから目を離した。 また来月、あの夜の目印を探せばいい。ただ、それだけのこと。 それだけのことなのに、なぜだか胸の奥が、ずしりと重たく沈んでいくのを感じていた。
****
寂しさを振り払うように歩き、賑やかな大通りへと差し掛かった、その時だった。
「エレノア嬢」
あまりにも不意に名前を呼ばれ、反射的に胸が跳ね上がった。
(――え、リィ……!?)
一瞬、本気でそう思った自分に、エレノアは激しく戸惑う。 そんなはずはない。昼間の、こんな明るい王都のど真ん中で会う相手ではないし、何より、声のトーンだって全く違う。
慌てて振り返った視線の先には――まばゆい金色の髪が、午後の陽光を受けてきらきらと輝いていた。
「あ……アレクシス様?」
そこに立っていたのは、アレクシスだった。
通り過ぎる人々が思わず足を止め、誰もが振り返るほどの、圧倒的な気品と美貌。
太陽の光を浴びた金髪が眩しく、彼の澄んだ青い瞳を、いつもより柔らかく見せている。
ドキン。
ニコリと、その極上の笑顔が真っ直ぐ自分だけに向けられていることに、心臓が痛いほど大きく鳴った。
アレクシスはまだ仕事着のままで、上から上着を一枚羽織っただけの姿だった。その手には、小さな洒落た紙袋を大事そうに持っている。
「アレクシス様、どうしてこんな場所に……?」
「少し、執務室の外の空気を吸いに来まして。……偶然ですね」
偶然、と言った彼の瞳は、少しだけ悪戯っぽく揺れていた。 けれど、彼が現れた方向は、屋敷がある方角からではなく、明らかにエレノアたちが今歩いてきた通りの先――つまり、彼女たちの後を追うように歩いてこなければ、絶対にあり得ない方向だった。
(……あれ? おかしい)
少し不思議に思ったけれど、アレクシスは何事もなかったかのように完璧に微笑んでいる。 彼はそっと、エレノアとの距離を自然に詰めた。そして流れるように、非の打ち所がないスマートな動作で、スッと左腕を差し出した。 ……さも、それが世界で一番当たり前であるかのように。
(そう、私たちは……婚約者、だしね)
自分に言い聞かせるように心の中で呟き、エレノアはその強くて優しい腕をそっと取った。
後ろにいたユノが「あっ」という顔をして、気を利かせて素早く一歩後ろへと下がった。 三人で、大通りをゆっくりと歩き出す。
無意識のうちに、自分を「車道側」から守るようにして歩いてくれる彼の、あまりにも自然な男としての気遣い。 公共の場にいる際のアレクシスは、やはりどこまでも完璧な騎士だった。
歩いているだけで、すれ違う人々が例外なく彼を振り返る。
「アレクシス様~!」「こっちを向いて!」と色めき立つ令嬢たち。アレクシスがそれに対して営業スマイルをにこりと向けた瞬間、「きゃああああ!!」と地鳴りのような悲鳴が上がった。
――相変わらず、とんでもない人気ぶりだわ。
もはや色々な感情を通り越して、ちょっと面白いとすら感じてしまうエレノア。
それでも、彼が隣を歩く歩幅は、終始、エレノアの小さな歩幅に完璧に合わされていた。
「何か、良い本は見つかりましたか」
「はい。図鑑を一冊、買い求めました」
「図鑑、ですか?」
「ええ。この間、森で一緒に見た鳥の名前がどうしても気になって。それに、屋敷の庭にも時々来ているようなので」
その言葉を聞いた瞬間、アレクシスが少しだけ青い目を細めた。
しばらく歩いたところで、アレクシスは持っていた小さな紙袋を、少し照れくさそうにエレノアへと差し出した。
「よければ、どうぞ」
中を覗くと、王都でも有名な高級店の、上品な包みに包まれた焼き菓子が入っていた。ふわりと甘い、良い香りが鼻腔をくすぐる。
「まあ、ありがとうございます!」
エレノアが素直に満面の笑みで喜ぶと、彼女の頭の中に、ある名案が閃いた。
「アレクシス様、ちょうどあそこにベンチがありますわ。よろしければ、一緒に食べませんか?」
エレノアがそう提案すると、アレクシスは一瞬だけ、驚いたように動きを止めた。
「……はい」
応じた彼の声が、いつも社交界で聞くものよりも、ずっと低くて柔らかい。
二人は近くのベンチに並んで腰を下ろした。ユノは少し離れた場所で、焼き栗の店を眺めている。
菓子の包みを丁寧に開けながら、エレノアはアレクシスの横顔を横目で盗み見た。
背筋を伸ばした完璧な所作のまま。けれど、お菓子に手を伸ばす時のその指先が、いつもよりほんの少しだけ、急いでいるように見えた。
(――かわいい。やっぱりこの人、甘いものが大好きなんだ)
本当は嬉しくてたまらないのに、その子供っぽい気持ちを必死に隠そうとしている気がして。
(なんか……『リィ』みたい)
気づけばエレノアは、隣の婚約者に向けて、心からの優しい微笑みを浮かべていた。
エレノアは視線を前に戻した。 穏やかな秋の日差しが、王都の石畳に柔らかく、黄金色の光を落としている。
「その図鑑、僕にも見せてもらえますか」
唐突に、隣からアレクシスの声が響いた。
「あの日の鳥のことなら……実は、僕も少し気になっていたので」
エレノアは驚いて目を丸くし、それから嬉しくなって鞄から大事に図鑑を取り出した。 二人はベンチで肩を並べ、一つの図鑑のページを、そっと一緒にめくり始めた。
****
屋敷に戻る頃には、日はだいぶ傾き、空が茜色に染まりかけていた。
玄関をくぐると、ギルバートが険しい顔で立っていた。
アレクシスとエレノアは二人で同時に顔を見合わせた。
けれど、ギルバートは並んで帰ってきた二人をじっと見つめ、結局何も言わなかった。ただ、いつもより少しだけ、その老いた目を細めていた。
自室へと続く長い廊下を歩きながら、エレノアは前を歩くアレクシスの、頼もしい背中を見送った。 その時、大通りでユノと一緒に見た、あの薄いクリーム色のドレス用レースのことが、不意に頭をよぎった。
――ほんの少しだけ、この人の内側に、もう一歩踏み込んでみたい。
その衝動に突き動かされるように、エレノアは足を止め、少し離れてしまった彼の背中に向けて、いつもより声を張った。
「あの、アレクシス様…!」
広い廊下にエレノアの声が小さく反響する。
「はい、何でしょう」と、アレクシスが足を止め、数メートル先でゆっくりと振り返った。
夕暮れの茜色の光が差し込む長い廊下の真ん中で、公爵家跡継ぎは、相変わらず非の打ち所がない美しさで佇んでいる。
「少し、時間が空いたときにでも……私たちの結婚式のドレスについて、少しご相談のお時間をいただけますか!?」
静かな廊下を渡っていったその言葉に、遠くに立つアレクシスが一瞬、その澄んだ青い瞳を信じられないものを見たかのように丸く見開いたのが分かった。
沈黙が、廊下を満たす。
それから彼は、どこか耳の裏のあたりをほんのり赤く染めながら、いつもの完璧な、けれどどこか酷く優しい微笑みを浮かべた。
アレクシスは、エレノアにしっかり届くように、いつもよりずっと大きな声を、広い廊下の向こうから真っ直ぐに返してきた。
「ええ、喜んで…!エレノア嬢のためなら、僕はいつでも時間を空けます!」
静まり返った屋敷の廊下に、彼の少し上気した、どこか必死さの混じった大きな声が心地よく響き渡る。
その真っ直ぐで力強い響きに、エレノアは自分の頬が、じわりと熱くなっていくのを感じていた。
遠く離れた場所で、アレクシスは満足そうに小さく会釈すると、そのまま廊下の向こうへと歩いていく。
彼の姿を見送ったあとで、エレノアはふと、今日町で見たあの紫色のランタンを思い出した。
今月は、『無名の夜会』は休み。だから、リィには会えない。 そう思って、寂しがっていたはずなのに。
今、私の胸の奥に鮮烈に残っているのは、夜の底にいるリィではなく―― 今日、何度も私を振り返らせた、あのまばゆい金色の髪の人のことばかりだった。
本日もお読みいただきありがとうございました!
次回更新は6/15(月)予定です。
加筆しました。(2026.6.26)




