第22話 彼の新しい顔
出発の朝は、肌を刺すように少しだけ肌寒かった。
十月も半ばを過ぎて、王都でも朝晩の空気が冷えてきた。
玄関前には立派な馬車が控えており、ギルバートが荷物の最終確認を行っている。 出発の間際、フィオナが小走りでエレノアのそばへと駆け寄ってきた。
「エレノア様、北の方はもうだいぶ寒いと聞いております。どうか、お道中お気をつけて……!」
心配そうに、両手を胸の前でぎゅっと握りしめている。
「ありがとう、フィオナ。留守の間、屋敷のことをよろしくね」
「はいっ! お任せください!」
ユノが手際よく荷物を馬車に積み込みながら、フィオナと視線を合わせて小さく笑い合っている。そんな温かい光景を見つめていると、不意に、玄関の重厚な扉が静かに開いた。
アレクシスが姿を現した瞬間――エレノアは、吸い込まれるようにその場で足を止めた。
秋の冷たく澄み切った空気のなかで、今日の彼は、今までのどの瞬間よりも美しかった。
いつも屋敷で見かける、軽やかな仕事着の彼とは何もかもが違う。
その洗練された身体を包んでいるのは、まるで夜の底のような深い色をした、最高級のウールコート。 彼の広い肩から裾にかけて、一点の淀みもなく美しく流れる仕立てのライン。
(……綺麗)
首元まで一切の隙なく留められたボタンと、きりりと端正に立った襟が、彼の冷徹な美貌を際立たせていた。
いつもよりもずっと大人びて、男らしく見えるその姿に、 (かっこいい……) と、不覚にも素直に思ってしまった自分に気づき、エレノアは慌てて視線を逸らした。
ふと見ると、彼がその大きな手に、何かを大切そうに握っているのが見えた。
「エレノア嬢」
アレクシスが静かに歩み寄り、差し出したのは、深い色彩のケープだった。 落ち着いた上品なボルドーの生地に、細やかで美しい刺繍が施されている。とても軽くて、けれど見るからに温かそうな上質な生地だった。
「北の地は冷えます。身体をどうか冷やさないように、これを纏ってください」
「……ありがとうございます」
エレノアは受け取り、ケープを見つめた。それは、驚くほど自分の好みの色合いだった。 よく見ると、縁取りの縫い目が恐ろしく細かく、丁寧だった。
既製品の大量生産品とは明らかに違う、どこか温かな手仕事の質感がそこにはあった。
……けれど、今のエレノアは、それが彼によるどのような『特別な膳立て』であるかまでは、まだ気づく由もなかった。
アレクシスは満足そうに小さく頷くと、エレノアの手を優しくひき、エスコートしながら馬車の中へと乗せた。
ギルバートが静かに見送る使用人たちに一言告げ、馬車の扉をパタンと閉める。窓の外では、フィオナが深く丁寧にお辞儀をしていた。
****
ガタゴトと音を立てて、馬車がゆっくりと動き出した。 聞き慣れた王都の石畳を叩くひづめの音が、少しずつ遠くなっていく。 しばらくの間、二人は向かい合ったまま、無言で窓の外の景色を眺めていた。
「……あの、すみませんが」
不意に、アレクシスが少し言いにくそうに口を開いた。躊躇うように、膝の上の鞄に手をかけている。
「移動の時間の間に、どうしても片付けておきたい領地からの書類がありまして……広げてもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ。お気になさらず」
「ありがとうございます」
書類を取り出しながら、彼は少しだけ眉を下げた。彼なりの誠実な表情だった。
向かい合わせに座った、決して広いとは言えない馬車の車内。 お互いの膝と膝の距離が、思ったよりもずっと近い。
アレクシスは書類に視線を落としたまま、静かにペンを走らせ始めた。カリカリという規則正しい音だけが、馬車の規則的な揺れに混じって心地よく響いていく。
エレノアはしばらくの間、その仕事に深く集中する彼の顔を、じっと盗み見ていた。 移動中の馬車の中でさえ、彼はこうして当然のように仕事をしている。屋敷にいる時も、夜遅くまで執務室の明かりが消えることはない。
(こんなに、泥臭く必死に仕事をしている人だなんて……王都のきらびやかな社交界にいる世のご令嬢たちは、きっと誰も知らないんだろうな)
サロンドヴァルトハイムの周囲や、夜会で彼に黄色い悲鳴を上げて押し寄せていた、華やかな令嬢たちの姿が頭をよぎる。
エレノアは、目の前でひたむきに机に向かう彼の、整った横顔を静かに眺め続けた。
今日から片道二日をかけて、ギルバート、ユノと共に二台の馬車で移動しながらヴァルトハイム家の本邸へと向かう。 今回の旅は、公爵夫妻への正式な挨拶と、アレクシスの領地仕事を兼ねて一泊する予定の行程だった。
彼の屋敷に滞在させてもらう挨拶を、彼の両親にいつすべきか、実はエレノアはずっと一人で気をもんでいた。しかし先日、ギルバートにそれとなく相談してみたところ、驚くほどスムーズに取り計らってくれた。
『これからヴァルトハイム領は本格的な雪の季節になります。ちょうど良い機会ですので、今のうちに実家をエレノア嬢に紹介しておきましょう』
そう言って、アレクシスも超多忙なスケジュールの予定を、無理に調整してくれたのだという。
(忙しいのに、私のために申し訳なかったかな……)
エレノアは再び窓の外へと視線を移した。
王都の美しい石畳は、いつしか郊外の素朴な土道へと変わっていた。街道沿いの木々の葉が、鮮やかな赤や黄色に美しく染まりかけている。
――ここよりさらに北へ行くほど、季節は進み、もう葉は散ってしまっているのかもしれない。
しばらく走り、エレノアは少し手持ち無沙汰になった。
そういえば、と思い出し、彼女は手元の鞄の中にそっと手を入れた。出発する直前、こっそりユノにお願いして綺麗に包んでもらった、小さな紙包みを取り出す。
「アレクシス様、よろしければどうぞ」
「……え?」
アレクシスが、驚いたように書類から顔を上げた。
「ほんの、甘いものです」
包みを開けると、中には屋敷のキッチンで丁寧に焼かれた、一口サイズのクッキーが並んでいた。アレクシスは完璧な美貌の表情を一瞬でフリーズさせ、しばらくの間、そのクッキーの包みをじっと見つめていた。
「……いただきます」
躊躇いがちに、美しい指先で一枚をそっとつまみ、口へと運ぶ。 咀嚼する間、少しだけ贅沢な沈黙が流れた。
「……美味しいです、すごく」
そう呟いたあと、アレクシスはほんの少しだけ、照れくさそうにふいと視線を斜め下へと落とした。
(あ……)
嬉しい気持ちを、どうにかして必死に隠そうとする時の、独特な表情。 エレノアの脳裏に、あの『無名の夜会』の夜、仮面をつけて自分の隣にいたあの人の姿が、鮮烈にフラッシュバックした。
(――なんだか、やっぱり。あの夜の『リィ』みたい)
****
昼を過ぎた頃、御者が速度を落とし、後方の小窓から声をかけてきた。この少し先に、街道沿いで非常に有名な、活気ある地方市場があるのだという。
「少し、寄っていきますか?」
アレクシスが、エレノアの顔を覗き込むようにして尋ねる。 「はい!」とエレノアが目を輝かせると、彼は御者に向けて短く静かに指示を出した。
市場は決して大きくはなかったけれど、地元の労働者や旅人で大いに賑わっていた。 この地域でしか採れないという食べ物、素朴な手作りの布小物が所狭しと並んでいる。
後ろでは、ユノが「わあ……!」と目を輝かせて店先を熱心に覗き込んでいた。ギルバートは、少し離れた安全な場所で、相変わらず背筋を限界まで正したまま直立不動で立っている。
エレノアは、カゴに盛られた見慣れない形をした木の実を一袋、興味深そうに手に取ってみた。
「それは、この辺りの高地でしか採れない特殊な木の実ですよ」
いつの間にか、アレクシスがすぐ隣に並んで、穏やかな声で教えてくれた。
「これ、食べられるのですか?」
「はい。生のままだと少し苦味が強いのですが、じっくり干すと驚くほど甘くなるんです」
「まあ、詳しいのですね」
「……子供の頃、領地で過ごしていた時に、よくおやつ代わりに食べて……」
そこまで言って、アレクシスはハッとしたように急に押し黙った。 いつもなら完璧な社交辞令しか口にしない彼が、珍しく「個人的な過去」を自発的に話してしまったことに、自分自身で驚いているような顔だった。
エレノアはその木の実を一袋買った。 アレクシスはそれ以上何も言わなかった。
しかし市場の人混みの中を歩く間、彼女の隣を歩くその速度を、決して変えることはなかった。
****
辺りが美しい夕暮れ色に染まる頃、一行は本日の宿へと到着した。 街道沿いに佇む、小さくも小綺麗な佇まいの宿だった。
事前にギルバートが完璧に手配を済ませてくれていたようで、最上級の部屋が滞りなく用意されていた。 少し旅装を解いてから、夕食は一階の落ち着いた食堂でとることになった。
「移動は、疲れましたか?」
アレクシスが、その澄んだ美しい青い目を真っ直ぐにエレノアへと向ける。
「少しだけ。でも、それ以上にとても楽しくて……。私、初めて見る風景ばかりでしたので、すべてが新鮮でした」
エレノアが微笑むと、アレクシスは「そうですか」と、嬉しそうに何度も優しく頷いた。
「明日は、ここからさらに一気に気温が下がります。もし少しでも体調が辛くなったり、寒さを感じたりしたら、我慢せずに何でも僕に言ってくださいね」
(う……優しい。眩しすぎて直視できない……)
目の前の婚約者の、あまりにも過保護で誠実な眼差しが眩しくて、エレノアは慌てて手元のスープへと視線を落とした。
「……ギルバートも、なんだか楽しそうです」
アレクシスがさらに距離を詰め、低い声で楽しげに、こっそりとエレノアの耳元で囁いてきた。 突然の至近距離からの吐息に、ドキン、とエレノアの心臓が大きく跳ね上がる。
ちら、と食堂の奥へと視線を移した。 少し離れたテーブルでは、ギルバートとユノが並んで食事をとっていた。
確かに、意外にも崩れた自然な雰囲気で、ユノの他愛のない話に耳を傾けているのが見える。
その後、アレクシスは宿の主人に丁寧に挨拶を交わし、ギルバートと明日の正確な行程を再確認した。その姿は、やはりどこまでも完璧で、いつも通りの「完璧な貴公子」だった。
食事が終わり、部屋へと戻る静かな廊下で、アレクシスがふと足を止めた。
「明日は、昼過ぎには僕の実家へ到着する予定です。……今夜は、よく眠れるといいですね」
「ええ、アレクシス様も。お疲れが出ませんように」
彼は優しく微笑んで頷き、「おやすみなさい」と告げて自分の部屋へと入っていった。
エレノアは部屋に入り、ユノの手を借りながら明日の服装の確認を済ませる。
「お嬢様、明日は……緊張されますか?」
髪を梳かしながら、ユノが鏡越しにそっと尋ねてきた。 明日は、ヴァルトハイム公爵夫妻と、久しぶりに対面することになる。
「そうね。少しだけ、緊張しているかも」
「……大丈夫です。私が、ずっとお側におります」
ユノが静かに、けれどしっかりとエレノアの目を見つめて、力強く言ってくれた。
「ふふ、ありがとう、ユノ」
寝台に入り、ランプの灯りを落とす。窓の外に目を向けると、王都の夜空では決して見ることのできない、こぼれ落ちそうなほどの美しい星々が瞬いていた。本当に、遠くの街まで来たのだという実感がじわじわと湧いてくる。
隣から、やがてユノの規則正しい、可愛い寝息が聞こえ始めた頃。
エレノアは寝返りを打ち、ふと、椅子に掛けられたあのボルドーのケープへと目を向けた。 昼間、出発の時にアレクシスが手渡してくれた、あの温かい贈り物。
(そういえば……)
今日の彼は、「自分のこと」を話してくれた。
市場で木のの実を見つめていた時の、どこか切なげな表情。 子供の頃のおやつの話。 そして、クッキーを食べて、あの夜のリィのように照れていた顔。
思い返すたびに、胸の奥の、一番深いところがじんわりと温かくなっていく。
知れば知るほど、彼は本当に不思議な人だ。
少しだけ近づけた、鎧の中を覗けた気がした次の瞬間には、また完璧な微笑みで遠くへ行ってしまう。
――知っていけばいくほど、ますます彼という人間が分からなくなる。
それなのに。 明日になれば、彼のことを、もっと、もっと知りたいと思っている自分が、確かにここにいた。
本日もお読みいただきありがとうございました!
次回更新は6/19(金)予定です。
加筆しました。(2026.6.26)




