第23話 北の公爵邸
宿を出発した朝の空気は、驚くほど冷たかった。 昨夜のうちに降りたのであろう薄い霜が、街道沿いの枯れ草の上に白く残っている。
馬車に乗り込む直前、エレノアは昨日彼から贈られたケープをしっかりと羽織った。肌を刺す風をすっと遮ってくれる。
「……よく似合っています」
隣に立っていたアレクシスが、前を見つめたままさらりと言った。その横顔は、昨日よりもほんの少しだけ表情が柔らかいように見えた。
「ありがとうございます、アレクシス様」
馬車が再び走り出すと、窓の外の景色は目に見えて寂しげなものへと変わり始めた。
木々の葉はほとんどが落ち、剥き出しの枝が連なっている。王都のそれとは違う、どんよりとした灰色がかった北の広い空が広がっていた。
しばらくの間、二人は無言で窓の外を見つめていた。 アレクシスは、ひどく静かだった。 今日は手元に何も持っていない。ただじっと、冷たい景色を瞳に映している。
「……あと少しで、到着します」
実家に近づくにつれて、彼の言葉は明らかに減っていった。それは、北国特有の寒さのせいではなかった。
――彼は今、『鎧』を再び着込んでいるんだ。
エレノアは、彼の横顔からそんな気配を敏感に感じ取っていた。 やがてアレクシスが、ぽつりと静かに口を開いた。
「エレノア嬢」
「はい」
「……僕の両親について、少し話しておきます」
その瞳は、いつもの完璧に澄んだ青い目だったけれど――その奥は、どこか暗く深く沈んでいるようだった。
「王都での顔合わせのときに薄々感じられたかもしれませんが……父は、外では非常に愛想が良い人です。話も上手いですし、社交の場を盛り上げるのも得意だ」
少しだけ、苦い間があった。
「ただ、家の中では……『男として、跡継ぎとしてどうあるべきか』という話しか好みません。それが、家族に対する唯一の正しい姿だと信じているので。 ……母は、一見すると非常に社交的に見えますが、実はあまり他人に興味がありません。エレノア嬢にも愛想よく接してはくれますが、それはあくまで形式的なものです。どうか、深く気にしないでください」
それだけを淡々と告げると、彼はすぐに窓の外へと視線を戻してしまった。
それはどこか遠い国の他人事を語るような、冷たく乾いた声だった。 エレノアは胸の奥をキュッと引き締めながら、静かに頷いた。
「わかりました」
それ以上は、何も聞かなかった。
****
馬車がヴァルトハイム家の領都、アイゼンドルフの市街に入ると、周囲の空気が一変した。 石畳の色は王都よりも深く濃い黒色で、古い歴史を感じさせる重厚な建物が立ち並んでいる。
お店の看板に書かれた文字の書体さえも、どこか違って見えた。 行き交う人々の顔つきも、どこか堅実で、厳しい北の土地で生きる人々らしい力強さがある。
「昔から、あまり変わらない町です」
アレクシスが窓の外を見つめたまま呟いた。 そこに懐かしそうな色も、嬉しそうな響きも一切ない。 ただ、「よく知っている」というだけの、無機質な目だった。
大きな噴水の横にそびえ立つ大聖堂の前を、馬車が通り過ぎていく。 道ゆく人々が、一斉にこの馬車を見つめていた。
やがて通りの奥に、圧倒的な威容を誇る巨大な屋敷が姿を現した。
ヴァルトハイム本邸だと、誰に教えられずともすぐに分かった。
敷地の立派な正門が見えたその瞬間、アレクシスの背筋が変わった。 ずっと彼を近くで観察していなければ、決して気づかないほどの、微かな変化。
馬車を降りると、容赦のない冷たい風が容赦なく頬を刺した。
そこにあったのは、あまりにも厳格な雰囲気をまとった、巨大な石造りの屋敷だった。 華美な装飾は極限まで削ぎ落とされ、機能性を重視した武骨で重い佇まい。王都の洗練された屋敷とは違い、ここはまさに『狩猟と実務の家』という歴史そのものが、そのまま形になったような空間だった。
美しく整列した数十人の使用人たちが、彼らの到着と同時に一斉に深くお辞儀をする。 重々しい玄関ホールに通されると、そこにはすでに、公爵夫妻が並んで待っていた。
夫妻とは以前、王都での顔合わせの時に一度だけ会っている。 あの時と全く変わらない、周囲を圧倒する近寄りがたいオーラをまとっていた。
アレクシスの父親である現公爵、エドワードの鋭い灰色の瞳が、エレノアの姿を一瞬だけ値踏みするように確認した。
(……アレクシス様が年を重ねて、もっと厳しい顔になったかんじだ)
エレノアは心の中でそう思った。
「エレノア嬢、久しぶりだな。よく来た」
「お目にかかれて、大変光栄でございます、公爵閣下」
公爵は短く満足そうに頷いた。けれどそれだけで、彼の視線はすぐに実の息子であるアレクシスへと移った。
「王都からの書類は持ってきたか」
「はい。全てここに。後ほどご確認いただければと思います」
「いや、このまま書斎で報告に移れ。すぐにだ」
「……わかりました」
一歩前に出たのは、アレクシスの母親であるカミラ夫人だった。その唇には、ふわりと柔らかな、いかにも貴婦人らしい完璧な笑顔が浮かんでいる。 その目が、アレクシスと全く同じ、澄んだ美しい青色をしていた。
(――アレクシス様のあの綺麗な瞳は、お母親様似だ)
改めてこの二人と対峙すると、彼らが間違いなくアレクシスの両親なのだということが痛いほどによく分かる。 二人とも、恐ろしいほどに美しく絢爛で、そして、完璧な貴族だった。
「エレノア、本当によく来てくださいましたわ。長旅でさぞお疲れでしょう」
「いいえ、お心遣いありがとうございます。道中は素晴らしい景色ばかりで、とても楽しゅうございました」
「まあ、それは何よりですこと。さあ、まずはお茶にしましょう。案内して」
カミラ夫人が歩き出す直前、アレクシスがエレノアに視線を向けた。 ほんの一瞬。本当に一瞬だけ。『僕がついていられなくて、すまない』と、必死に謝っているような目だった。 エレノアは彼を安心させるように、小さく、優しく頷いてみせた。
****
カミラ夫人と一対一で向かい合い、最高級の応接室のソファに腰を下ろした。 洗練されたメイドが、一分の狂いもない所作で温かい紅茶と菓子を運んでくる。
透き通るほど薄い磁器のカップ。
上品な焼き菓子。
全てが完璧に整えられた空間。
「王都の屋敷にはもう慣れましたか? あちらは本邸に比べれば、ずいぶんと手狭でしょう」
「いいえ、とんでもございません。アレクシス様をはじめ、皆様にとても過ごしやすくしていただいております」
「そう、なら良いのだけれど」
カミラ夫人は崩れない微笑みを浮かべたまま、紅茶を上品に一口含んだ。
「アレクシスは四六時中仕事ばかりしている子でしょう。あなたを退屈させていないかしら」
「いつも細やかに、よくしていただいています」
「あの子は昔から、本当に生真面目一本槍で。……でも、少し変わったところがあるのよね」
(変わったところ……?)
エレノアが小首を傾げかけたが、そう語る夫人の目は、すでにエレノアではなく窓の外の退屈な景色へと向いていた。
それはエレノアに対する深い関心から出た言葉ではなく、ただ『息子の話題を振られたから、用意された定型文を口にしている』というだけの、ひどく冷めた温度だった。
「エレノア、どうかあの子をよろしくね」
それは、あまりにも形式的な言葉だった。 温かくもなく、かといって冷酷に突き放すわけでもない。 エレノアは静かに頷きながら、胸の奥で確信していた。
——この母親は、アレクシス様の本当の姿を……あの鎧の中にある心を、何も知らないのかもしれない。
切ない確信が胸をよぎったけれど、もちろん、それを口に出すことはしなかった。
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夕食は、四人で食卓を囲んだ。 広大な食堂の壁には、立派な鹿の剥製がいくつも掲げられている。代々狩猟を嗜むという、歴史あるヴァルトハイム家らしい重々しい内装だった。
父親のエドワードが、冷徹な声で仕事の進捗を尋ねる。 アレクシスが、淀みない声で正確に答える。 母親のカミラが時折、当たり障りのない美しい言葉をそこに挟み込む。
(――まるで、厳格な軍事報告会議だな)
エレノアは静かに、気配を消すようにして食事をとった。
その席でのアレクシスは、背筋を限界まで正し、使う言葉も、視線の動かし方までもが、一切の隙がない「最高傑作の跡継ぎ」としての動きをしていた。
しかし。 彼のすぐ隣に座っているエレノアだけが、気づいてしまった。
純白のテーブルクロスの下――アレクシスの大きな左手が、白くなるほどに、静かに、きつく握りしめられているのを。
王都の社交界で一緒に立食したとき、エレノアのために嬉しそうにたくさんの料理を試食してくれていた、あのアレクシスの眩しい笑顔。
王都の屋敷での食事中、静かだけれどいつも優しく、にこやかにこちらへ視線を向けてくれていた彼の温かい空気。
――この家の中では、心を殺して完璧な人形でいることだけが、「正しい姿」なのだ。
感情を無理やり押し込めている彼の美しい横顔に、思わずエレノアは、心の中で叫ばずにはいられなかった。
(……あなたは、ずっと、こんな息の詰まる毎日を、一人で過ごしてきたの?)
エレノアは紅茶を一口飲んだ。 その豪華な食卓で、料理の味やおいしさについて口にする者は、最後まで誰一人としていなかった。
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ようやく長い夕食が終わり、用意された客室で明日の出発の準備をしていると、控えめな音で扉がノックされた。
「エレノア嬢、少しよろしいですか」
懐かしい、アレクシスの声だった。 部屋に入ってもらい、二人は向かい合って小さなソファに座った。
「今日は……本当に、ありがとうございました」
アレクシスは、誰もいない室内でようやく小さく、深い息を吐き出した。 その瞬間、彼の広い肩から、目に見えて少しだけ張り詰めた力が抜けていくのが分かった。
「やはり、明日の朝一番には、もうここを出発しましょう。これからヴァルトハイム領は本格的に雪になりますから、天候が不安定になります」
アレクシスが、どこか焦るように静かに言った。
「今のうちに、両親に会わせることだけはできて良かったです。本来なら、僕の生まれ育ったこの屋敷をゆっくり案内したかったのですが……父の仕事に捕まってしまい、本当に申し訳ありません」
「そんな! お気になさらないでください。お忙しい中、こちらこそ時間を作っていただきありがとうございました」
エレノアは慌てて首を振った。
「あの……もしよければですが、明日、帰り道にまたあの市場に寄りましょうか」
アレクシスが、少しだけ自信なさげに、エレノアの顔色を伺うようにして言う。
「すぐそこにある、ここへ来るときに通った小さな市場です。……エレノア嬢が、まだ興味を持っていただけているなら、ですが」
いつもなら完璧な彼が、まるで捨てられた子供のように不安そうに紡いだその言葉。
エレノアは自然と満面の笑顔がこぼれた。
「良いのですか!? ええ、ぜひ行ってみたいです!」
「……そうですか。本当に小さいですが、この時期は地元の珍しいものが色々と並ぶので」
「ええ、とっても楽しみです」
エレノアが即答すると、アレクシスはホッとしたように、その美しい青い目を少しだけ細めて笑った。
それは、この屋敷に来てから彼が見せた、初めての「生身の笑顔」だった。
「寒くはなかったですか、今日は」
「ええ、アレクシス様がくださったこの温かいケープのおかげで、全然大丈夫でしたわ」
「それは……本当に良かった」
彼は静かに立ち上がり、部屋を出る直前、もう一度だけエレノアの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「おやすみなさい、エレノア」
「おやすみなさい、アレクシス様」
パタン、と静かに扉が閉まった。
エレノアはしばらくの間、その閉まった扉をじっと見つめていた。
――この人は、ずっとこの冷たい家で、あの息の詰まる食卓に座り続けてきたのだ。
そう思うと、彼女の胸の奥が、静かに、けれど激しく痛んだ。
明日の帰り道は、少しでも楽に息をできる時間を私が作ってあげたい。 心からそう願いながら、エレノアは静かに夜空を見上げた。
本日もお読みいただきありがとうございました!
次回更新は6/21(日)予定です。
加筆しました。(2026.6.26)




