第24話 ここに来るのが、嫌いだったんです
ヴァルトハイム公爵邸を出発したのは、まだ冷気の残る朝早い時刻だった。
「では、失礼します」
アレクシスは感情の起伏がない短い声でそう告げると、見送りに立つ両親へ躊躇なく背を向けた。 エレノアも合わせて深く頭を下げ、アレクシスの大きな手をそっと取る。
ガタリ、と馬車に乗り込んだその瞬間だった。 アレクシスの肩から、目に見えて張り詰めていた「何か」が、すうっと抜け落ちていくのが分かった。
鉄壁の城門を離れていくにつれて、彼の美しい顔立ちから、昨日までの張り詰めた冷たさがみるみるうちに柔らかくなっていく。
「ふーっ……」
大きく、長く、胸の奥に溜まっていた息を吐き出しながら、アレクシスは無造作に前髪をかき上げた。 そして隣に座るエレノアに向けて、いつもの、けれどいつもよりずっと優しい眼差しを投げかけた。
「……昨夜は、よく眠れましたか」
「はい、おかげさまで。アレクシス様は、いかがでしたか?」
「……まあまあです」
苦笑まじりの、ひどく正直な答えだった。 エレノアは、昨夜のあの冷徹な食卓を思い出す。
(まあ、そうだろうな)
実の家族にあんな風に心を殺して接していれば、疲弊しないはずがないのだ。
馬車が軽快に走り出すと、窓の外には北国の景色がテンポよく流れていった。
すっかり葉を落とした木々。どこまでも広い空。 来るときにも見かけた、活気ある小さな町がすぐ近くに見えてきた。
市街の手前に馬車を止める。
広場に着くと、石畳の上に色とりどりの屋台が所狭しと並んでいた。 そこかしこの煙突から白い煙がぽっぽと立ち上り、じっくり焼いた何かの、たまらなく香ばしい良い匂いがふわりと漂ってくる。
「わあ……!」
ユノが歓声を上げた。 エレノアも思わず目を輝かせた。
アレクシスは小さな市場と言っていたが、かなりたくさんの店が出てにぎわっている。
「どうぞ、好きなだけ見て回るといいですよ」
アレクシスが隣で言った。昨日実家にいる時とは比べ物にならないほど、その声は軽やかだった。
ユノは真っ先に、黄金色に輝く蜂蜜の屋台へと弾むように向かっていった。 小さなガラス瓶がずらりと並んでいて、色も香りも少しずつ違っている。
「お嬢様、これ、王都のお屋敷にあるものとは全然香りが違います!」
「本当ね、なんだかすごく濃厚だわ」
エレノアが興味深そうに一瓶を手に取ると、アレクシスがすぐ隣へと並んだ。
「その時期に咲く花の種類が違いますからね。春先に咲く花から作るものは透き通って色が薄く、夏の力強い花のものは、こうして色が濃くなるんです」
彼の解説を聞きながら、エレノアは嬉しくなって蜂蜜を一瓶買い求めた。
****
続いて、香ばしい木の実のお菓子を売る屋台の前へ。
店主から手渡された試食品を、エレノアはそっと口に含んだ。 ほろ苦くて、けれど後からじわりと素朴な甘さが追いかけてくる。
「おいしい……!」
「ここへ来るときに寄った街の木の実を、一度丁寧に干してから加工したものです」
「あのゴツゴツした木の実が、こんなに美味しくなるのですね」
ユノも一つ食べさせてもらい、目を真ん丸にして驚いている。 その隣で、アレクシスも長い指先で一つ、木の実のお菓子を手に取った。 口に入れた瞬間、彼の美しい青い目が、ほんの少しだけ幸せそうに細められた。
(――あ。これ、好きなんだ)
完璧に隠しているつもりだろうけれど、エレノアには彼の小さな変化が手に取るように分かった。それがなんだか無性に嬉しくて、エレノアは前を向いたまま、お土産用にお菓子をいくつか買い足した。
****
さらに進むと、今度は一際芳醇な香りを漂わせる、燻製の屋台の前でエレノアの足が止まった。 手作りのチーズ、肉、魚。 香ばしい煙の匂いが、鼻腔を心地よくくすぐる。
「これは、何の種類ですか?」
「この辺りの高地特産のものです。特にここのチーズは、王都の高級店にも直接卸しているくらい質が良いんですよ」
「まあ。……試食をしてみても?」
エレノアが尋ねると、人の良さそうな店主が小さく切り分けたチーズをスッと差し出してくれた。 口に入れた瞬間、豊かな燻製の香りと、凝縮された濃厚なチーズの旨味が口いっぱいに広がった。
「美味しい……! これ、なんだかすごくお酒に合いそうですね」
エレノアが素直な感想を口にすると、アレクシスが、ふと小さく間を置いた。
「……そういえば」
見上げると、彼の綺麗な口元に、どこか意地悪で愉しげな笑みが浮かんでいた。
「社交界の夜会で、グラスを両手で大事そうに抱えて召し上がるほどの、大のお酒好きでしたね?」
「……っ、ぐふっ!?」
あまりにも不意を突かれた過去の失態の指摘に、エレノアは激しくむせた。
「あ、いや、あれは……あの時は仕方がなくて……っ!」
「お酒が入ると、あなたは積極的になるのですか? そういえば……あの夜の続きは…?」
「――っ!?」
アレクシスがかつてないほど甘く囁く。と同時に、エレノアの腰に、彼の大きな手が信じられないほどの自然さで回された。 ぐっと引き寄せられ、お互いの身体が隙間なく密着する。 ふわりと、彼の纏う、甘くて落ち着いた気品ある香水の香りがエレノアの五感を満たした。心臓が、耳の奥でうるさいほどにドクドクと跳ね上がる。
冗談のやり取りのつもりだったはずなのに、彼の腕の力は本物だった。
「……そ、そんなことまで、覚えていたのですか……」
エレノアは消え入りそうな声でどうにか絞り出す。
「もちろん」
アレクシスはさらりと、完璧なエスコートの顔で答えた。 けれど、彼女の腰を抱きしめたその左腕は、一向に離される気配がない。
密着したまま、エレノアは恥ずかしさで一歩も動けなくなってしまった。
しかし、当のアレクシスは何事もなかったかのように平然とした顔をして、腰を抱いたままの片手で次の商品を眺めている。
何か面白いものを見つけたのか、その美しい口元には、ずっと愉しげな笑みが浮かんだままだ。とにかく、彼女を腕から離すつもりが毛頭ないことだけは伝わってくる。
一方的にからかわれ続けるのも癪だった。エレノアは、対抗するために何かしてやりたくて。
手元のカゴにあった燻製チーズを、もう一切れスッと手に取る。
「アレクシス様、こちらもどうですか?」
仕返しのつもりで彼の目の前に差し出すと――アレクシスは何の躊躇も、疑いもなく、当然のようにその綺麗な唇を小さく開けた。
(え、本当に食べた…!)
ぱくり、と彼女の指先から直接チーズを食したアレクシス。そのあまりにも無防備な姿に、逆にエレノアの方が驚いた。
「お、美味しいですね、これ!!」
「ふっ……露骨に話を変えましたね」
「変えていません! 私は至って真面目に、チーズの話をしています!」
エレノアが必死に言い張ると、アレクシスは「あははっ」と、声を立てて可笑しそうに笑った。
彼がこんな風に子供のように声を上げて笑うのは、本当に珍しいことだった。
――それでもやはり、その腰に回された腕だけは、頑なに離してくれなかった。
「そこまで気に入ったのなら、いくつか買って行きましょう。屋敷のセラーにも、これに合うワインがあります」
「まあ、楽しみですわ。甘いものとも合いますか?」
「帰ったらさっそく試してみますか?」
「ええ、ぜひ!」
(ああ……楽しい)
気づけば、エレノアの顔からも、実家での緊張は完全に消え去り、ずっと心からの笑顔がこぼれていた。
「フィオナへのお土産は、何が良いかしら」
「蜂蜜が良いでしょうね」
「すごい、即答ですわね」
「ふふ、あの子は甘いものに目がありませんから。きっと飛び跳ねて喜ぶと思います」
「アレクシス様、フィオナのことを本当によく見ていらっしゃるのね」
「屋敷の大切な使用人ですから」
――本当に、根が優しい人。
エレノアは彼を見上げ、そのはちみつ色の瞳を柔らかく細めた。
これから本格的な極寒の季節を迎えるアイゼンドルフの町。 市場には、厳しい冬を越すための様々な保存食が豊富に売られていた。
屋敷で待つ使用人たちへのお土産も兼ねて、二人は両手いっぱいに、たくさんの買い物を楽しんだ。
「あなたが、こんなに気に入ってくれるものがあって良かった」
アレクシスが、両手で荷物を抱えきれないほど持ちながら、嬉しそうに呟く。
エレノアはそんな彼の姿を見つめながら、王都の実家で買い物を楽しんでいた自分の母親のことを思い出す。
(買い物好きなところは、意外と遺伝しているのかもしれない) と、心の中で苦笑いした。
****
一通り市場の屋台を見て回った後、馬車へと戻る直前、アレクシスがふと足を止めた。
そこは町の外れ。賑やかな石畳の道が終わり、郊外へと続く素朴な土道へと変わる、静かな境界線だった。 エレノアは自然と彼の隣に並び、その綺麗な横顔を見上げた。
「アレクシス様? どうかされましたか?」
「……いえ。ただ、不思議だなと思って」
アレクシスがゆっくりと振り返り、今歩いてきた賑やかな市場の町を、愛おしそうに見つめる。
「ここに来るのが、嫌いだったんです。ずっと」
それは、ひどく低い声だった。 誰に聞かせるでもない、ぽつりとした独り言のような温度。
「……でも今日は、不思議とそう感じなかった」
エレノアは、何も言わなかった。 アレクシスも、それ以上は何も語らなかった。
ただ、再び前を向き、馬車に向かってゆっくりと歩き出した。 そのシャープな横顔が、昨日とは比べ物にならないほど、穏やかで満ち足りていた。
――この人に、これからはもっと、たくさん笑っていてほしい。
彼の隣を歩きながら、エレノアは胸の奥で、静かに、けれど強くそう願っていた。
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次回更新は6/28(日)予定です。




