第25話 雨上がりの紅葉
アイゼンドルフを出ると、だんだんと空が曇り始めた。
ギルバートとユノが前の馬車、アレクシスとエレノアが後ろの馬車に乗っていた。
エレノアが何気なく窓の外を眺めていると、街道を彩る木々の色彩が、少しずつ鮮やかに変わり始めていることに気づいた。
「少し、休憩しましょう」
アレクシスがエレノアにそっとウインクしてから、「少し止めてくれ」と御者に声をかけた。
エレノアが外へ一歩踏み出す。北国特有のひんやりとした冷気と、雨上がり特有のどこか懐かしい土の匂いがした。
街道の脇に広がる、白い幹の林は、息をのむほど鮮やかな黄金色に染まっていた。
見上げる木々の葉――鮮やかな赤や黄、そして深い橙色が、雲の切れ間から一瞬だけ漏れ出た柔らかな光に照らされて、まるで宝石のようにキラキラと輝いている。
―― いい匂い…。
エレノアは胸いっぱいにその空気を吸い込み、 エレノアは満ち足りた気分で木々を眺める。アレクシスも好きな香りかもしれない。
前の馬車からギルバートとユノも出てきたが、彼らは少し離れた場所に留まった。
エレノアは足元に落ちていた形の良い葉をいくつか拾い上げながら、ふわふわした地面を楽しげに少し先へと歩み進めた。
地面には、濡れた落ち葉が隙間なく敷き詰められていた。黄金の絨毯のようだ。たっぷりと水を含んだ葉と土が、世界からいっさいの雑音を奪い去り吸い込んでいく。
その時、自分の顔よりも遥かに大きな、驚くほど鮮やかで立派な赤い葉を見つけた。
嬉しくなって、振り返りざまに「アレクシス様!」と声をかけようとして――エレノアは、思わず言葉を喉の奥で止めた。
少し離れた場所で、アレクシスが上着の内ポケットから一冊の小さな手帳を取り出していた。
彼は、自分が先ほど拾い上げた一枚の美しい葉を、慈しむようにそっと、そのページの間に挟み込んでいる。恐ろしく丁寧に、静かに、誰にも見せるつもりがないかのように。
彼は、エレノアがその一連の動作をじっと見つめていることには、全く気づいていない様子だった。
エレノアは、見つけた大きな赤い葉をそっと自分の顔の前に持ち上げて。何事もなかったかのように彼の元へと歩み寄った。
「ずいぶんと、大きなものを見つけましたね」
歩み寄る彼女の気配に気づき、アレクシスが先に、ふわりと微笑みながら声をかけてきた。
手帳はもう、ポケットの中にしまわれていた。
「綺麗な色ですね」
エレノアが差し出すと、アレクシスは彼女の手からその葉をそっと、壊れ物を扱うように受け取った。
それから、宝物のように大事そうに手の中に持って、二人で馬車へと引き返す。 彼はそれ以上、何も言わなかった。
——この人は、こうやって美しいものを手元に置いてきたのだろう。
アレクシスの背中を見ながら、エレノアは思った。
言葉には出さない。誰にも自慢しない。けれど、彼の内側には、確かに優しく繊細な感性が息づいている。
そういう人だと、わかってきた気がした。
****
馬車へと戻ると、外の心地よい冷たさがじんわりと肌に残っていた。
パタンと扉が閉まり、まず先発のギルバートたちの馬車が先に走り出す。 その後を追うように、アレクシスとエレノアを乗せた馬車もゆっくりと動き出した。
しばらくは穏やかだった。
しかし、馬車が本格的な険しい山道へと差し掛かった頃、不意にバラバラと窓を叩く激しい雨が降り始めた。
最初はただの小雨だった。けれど、天候はみるみるうちに悪化し、叩きつけるような豪雨へと変わっていく。 ゴロゴロと、遠くの地鳴りのような雷鳴が響いた。
その瞬間だった。
ドドドドド……と、鼓膜を恐怖で震わせるような、凄まじい低い音が山の斜面から響いてきた。
「エレノア!」
短い悲鳴のような声と共に、エレノアの身体は、アレクシスの逞しい両腕によって猛烈な勢いで強く抱き寄せられた。
直後、外では馬が激しく嘶き、馬車が生き物のように大きく、激しく左右に揺れる。 何かが激しく衝突するような衝撃のあと、馬車が急ブレーキをかけたようにピタリと止まった。
御者が外に出て、必死に状況を確認する声がした。アレクシス様、と窓がノックされる。
「前の道が……土砂で塞がれています」
「前の馬車は?」
「土砂の……ちょうど向こう側に。無事は確認できましたが、すぐにはこちら側へ戻って来られない状況です 」
アレクシスは一瞬だけ鋭く思考を巡らせたあと、的確な声で御者に告げた。
「無事ならいい。馬を落ち着かせてから、様子を見よう。無理に動かすな」
「はい。土砂をどけるまでお待ちください」
御者が雨に濡れながら馬を優しくなだめる声が、遠くに聞こえる。
気づけば馬車の中は、完全に二人きりの空間になっていた。 激しい雨の音だけが、遮るものなく屋根を激しく叩き続けている。
アレクシスの腕は、まだ離れなかった。
あまりの緊迫感に気づいていないのか、それとも。 エレノアは、彼の胸の中で指先一つ動かすことができなかった。
しかし、これほど異常な状況であるというのに、彼女の心には、不思議と恐怖の感情は一切湧いてこなかった。
——なぜだろう。
答えはすぐに浮かんだ。 でも、認めたくなかった。
****
どれほどの時間が経っただろう。 雨の音が、変わらず激しく屋根を叩いている。
馬車は狭い山道に立ち往生したまま、ずっと動かない。
アレクシスの腕はまだエレノアを抱いたままだ。
気づいていないのか、それともわざとなのか。
回された腕と、腹部に当たっている彼の手が、衣類越しに燃えるような熱を伝えてくる。
車内の湿気と、密着し合う二人の高い熱気のせいで、気づけば馬車のガラス窓は真っ白に曇り、外の世界の景色を完全に遮断していた。
まるで、この狭い空間だけが、世界から切り離されたような錯覚。
「あの……」
その沈黙に耐えかねて、エレノアはアレクシスに声をかけようとした。
けれど、ゆっくりと視線が重なった瞬間、言葉は意味を失い、喉の奥で消えた。
見つめ返す青い瞳が、深く、濃く、波打つように揺れている。
それは、エレノアの知らない目だった。
静かで、熱を孕んだ、逃がしてくれない目。
——引き込まれる。
抗いようのない磁力に射すくめられたように、エレノアは動けなくなった。
アレクシスもまた、微動だにせず、エレノアの瞳の奥を覗き込んでいる。
(……なんて、綺麗な色)
互いの瞳の中に、自分自身の姿が映り込んでいるのが見えるほど、距離は近かった。
見つめ合うたび、吐息が重なるたび、
磁石が引き合うようにゆっくりと、本当に少しずつ、二人の距離が縮まっていく。
アレクシスの視線が、エレノアの瞳から、震える唇へとわずかに落ちた。
その瞬間。
吸い寄せられるように、彼の顔がゆっくりと近づいてくる。
近い。
衣擦れの音が、やけに大きく聞こえる。
伏せられた青い瞳。
逃げなければと思うのに、体が動かなかった。
アレクシスが、耐えきれなくなったように短く息を吐いた。
眉が、苦しそうにわずかに寄る。
「……っ」
アレクシスの喉が、小さく上下する。
エレノアの頭が、彼の胸元へとかき抱かれるように引き寄せられた。
ギュッと、折れそうなほど強く抱きしめられる。
エレノアは呼吸を忘れたまま、彼の胸に顔を埋めた。
耳元で、ドクドクと、激しい音が響いてくる。
――心臓の音だ。
それが驚くほど速く、高い熱を持っていることに、エレノアの胸は震えた。
自分の心臓も、彼に負けないくらいうるさい。
しばらくの間、ただ雨の音だけが二人を包んでいた。
アレクシスが、ゆっくり目を閉じる。
まるで、これ以上エレノアを見ていたら駄目だと言い聞かせるみたいに。
アレクシスがエレノアの髪に顔を埋め、深く、深く、その香りを吸い込む。
胸の奥で、彼の低い声が微かに震えながら響いた。
「……しばらく、動けそうにないですね」
彼の呼吸はまだ少し乱れていた。
それが激しい雨のことなのか。それとも別の意味なのか。
エレノアには、わからなかった。
「はい」
震える声でそれだけ答える。
腕の力が強くて、動けなかった。
馬車の外では、雨がまだ、二人を隠すように激しく降り続いていた。
****
どのくらい経っただろう。
雨が少しずつ静まってきた頃、馬車は動き出して、揺れも少なくなっていた。
エレノアはアレクシスの横顔を、そっと見た。
昨日の夕食を思い出す。
——あの家で、ずっとああしてきたのだろう。
正しくて当たり前。
完璧で当たり前。
今、隣にいる彼は、そのどちらでもなかった。
——ここにいていい、と思ってくれているだろうか。
目を閉じている。 肩の力が抜けている。
昨日の夕食の食卓とは、別人のようだった。
(疲れているだろうから、眠って)
アレクシスの頭がエレノアの肩に触れた。 静かな寝息が聞こえてくる。
腕は、緩まなかった。 眠っても、離さなかった。
まるで、無意識だけが本音を知っているみたいに。
エレノアはそっと、アレクシスの方へ体重を預けた。
抱かれたまま、窓の外を見ていた。
雨上がりの空が、少しずつ明るくなっていく。
——起こしたくないから、このままでいよう。
目を閉じると、馬車の揺れが心地よかった。
気づいたら、エレノアも眠っていた。
道が開いた頃、御者が静かに声をかけた。
返事はなかった。
二人は、まだ眠っていた。
アレクシスの腕は、まだエレノアを抱いたままだった。




