第25.5話 誰にも触れさせたくない
馬車が、静かに揺れている。
雨の音が、屋根を叩いていた。
——眠っているのか、僕は
意識が、水面を漂うように揺れていた。
夢なのか現実なのか、境界線がない。
ただ、腕の中の温かさだけが、確かだった。
腕の中に、エレノアがいる。
——なぜ、こんなに安心するんだろう。
今までに、たくさんの令嬢に囲まれてきた。
けれど、こんなに安心できる相手は、一度もいなかった。
令嬢と言わず、自分に近づいてくる人全て。
相手が何を求めているかはわかった。
家柄。名声。肩書き。
僕自身ではない。
だから正解だけ返していればよかった。それで十分だった。
エレノアも、最初はそうだと思っていた。
婚約者として、礼儀正しく接すればいい。
それ以上でも、それ以下でもなく。
なのに…。
まどろみの中に、記憶が浮かんでくる。
昨夜の食卓。
父の視線。母の形式的な笑顔。
いつも通りだった。いつも通り、息が詰まった。
なのに、エレノアが隣にいたから、いつもよりずっと耐えられた。
市場を歩いていたとき。
エレノアが木の実の菓子を食べて、目を細めた。
チーズを口に入れてきた。
——初めて、ここが楽しいと思った。
はちみつの瓶を眺めていたとき。 エレノアの瞳と同じ色だと思った。
とろけるような、甘い色。
「?」 エレノアがこちらを見て、どうしたの?という顔をしている。
(何もないよ。ただ、見ていただけだよ)
馬車の中で、彼女がクッキーを差し出してきた。
気づけば、受け取るより先に口を開いていた。
エレノアは驚いたあと、くつくつと笑って、また差し出してきた。
(僕を餌付けしようとしているのか?)
今度は受け取って、そのまま彼女の口へ差し込んでやった。
エレノアはもごもごと慌てて飲み込んで、顔を見合わせた瞬間、どちらともなく笑いが漏れた。
「ついてますよ」
自身の頬を触って、示してくれた。
右の口元を触ったら、「反対」と言われた。
——なんか前にも、こんなことがあった気がする。
夜の話だろうか。昼の話だろうか。
境界線が、最近曖昧になっていて、わからない…。
****
屋敷を出た瞬間、少し息ができた気がした。
毎回そうだ。
門を背にするたびに、肩から何かが剥がれていく。
幼い頃からずっと。
子供の頃、母のドレスの生地が好きで、そっと触れていたら怒られた。
人形で遊んでいたら、取り上げられた。
絵を描いていたら「乗馬の稽古をしろ」と言われた。
「失望させるな」「期待に応えてみせろ」
言葉は全部、頭の中にこびりついている。
——それなのに。
今日は、嫌いだと思わなかった。
エレノアが隣にいたから。
****
馬車が大きく揺れた瞬間、体が動いていた。
気づいたときには、腕で抱き止めていた。
「エレノア」
名前だけが、出た。
腕を引くべきだ。
頭の片隅で、冷めた理性が警告している。
けれど、腕に伝わる彼女の熱が、その理性をじりじりと焼き焦がしていく。
頼もしいとも感じたその存在。
なのに、驚くほど柔らかくて、細い体。
ゆっくりと視線を落とすと、そこには酷く無防備な瞳があった。
——エレノア。
(……なんて、綺麗なんだ)
いつもなら、ここでスマートな冗談の一つも言って、距離を置けるはずだった。
だが、自分には「仮面」を探し出す余裕がもうない。
――離したくない。
でも、彼女には、大切な誰かがいるのかもしれない。
あのとき、サロンで言っていた。
甘いものが好きな人がいる、と。
名前も、顔も、聞かなかった。
聞けなかった。
——僕には、関係のないことだ。
そう言い聞かせた。
でも、腕は離れなかった。
このまま誰も来なければいいのに。
もう少しだけ、この時間が続けばいいのに。
手袋の隙間から見える、彼女の手首。
彼女の細くて白い首筋。
彼女の睫毛が見える。
呼吸の音が聞こえる。
石鹸の香りがする。
それだけなのに、胸の奥がざわついた。
なぜだろう。
見てはいけないと思うのに。
もっと近くで…
もう少しだけ。
もう少しだけ、このままでいたい。
そのときだった。
はっと我に返る。
(僕は、何をしている?)
壊れ物を扱うような強さで、彼女を胸の中に閉じ込めた。
激しい心臓の音が、彼女に伝わってしまう。
格好悪い。
こんなに余裕のない自分を、本当は見せたくはなかった。
あんなふうに誰かを抱きしめるのは、初めてだった。
「……しばらく、動けそうにないですね」
震えそうな声を、必死に低く絞り出す。
「はい」
エレノアが静かに答えた。
——ここにいていい、と言われた気がした。
(ああ…エレノア…)
エレノアの髪に顔を埋める。 心地よい石鹸の香りがする。
…エレノア。ありがとうございます。
…一緒に、来てくれて。
…ありがとう。
意識が、また遠くなっていく。
****
気づいたとき、馬車は静かに動いていた。
雨は止んでいた。 窓の外が、夕焼けに染まっている。
——眠っていた。
エレノアを、抱きしめたまま眠っていた。
しかも、エレノアも眠っている。
僕の肩に頭を預けて、静かな寝息を立てている。
目を閉じて、もう一度エレノアを抱きしめる。
温かい。
エレノアの寝息が、自分の腕の中に収まっている。
その事実に、どうしようもなく安心してしまう。
窓の外が、少しずつ明るくなっている。
王都が近づいているのだろう。
——もう少しだけ。このままで…。
そのまま、また眠りに落ちた。
本日も読んでいただきありがとうございました!
次話は7/3(金)の20:00ごろ更新予定です。




