第8話 崩壊への序曲
王都の大通りに面した『サロン・ド・ヴァルトハイム』は、開店初日から熱狂の渦に包まれていた。
白亜の大理石に金細工が施された店内は、宝石箱のように煌びやかだ。
一階の物販フロアには、宝石のように並べられた色とりどりのマカロンや、繊細なシュガーアートが施されたケーキが並ぶ。
視察を兼ねて訪れたアレクシスは、オーナーとしての重責を果たそうと、完璧な微笑みを顔に貼り付けていた。
だが、店に入った途端、彼は色とりどりのドレスの波に飲み込まれた。
「アレクシス様! ついにオープンされましたのね!」
「まあ、なんて素晴らしいお店……! アレクシス様のセンスが隅々まで行き届いておりますわ」
社交界で見かける顔、仕事で付き合いのある家の娘たち。
彼女たちは、アレクシスという『偶像』を求めていた。
彼が「嫌いなもの」や「震える指先」を持っていることなど、誰も想像すらしていない。
押し寄せる何種類もの香水の香りが混ざり合い、逃げ場のない甘ったるい毒のように鼻を突く。
アレクシスは完璧な角度で微笑みを返し、定型文のような感謝を述べる。
いつもなら、こうした熱狂も「社交の一部」として流せるはずだった。
微笑みを絶やさず、当たり障りのない言葉を返し、適度な距離を保つ。
それは彼にとって、呼吸をするのと同じくらい容易なことだったはずだ。
彼女たちは、アレクシスが差し出す「新事業の説明」など聞いてはいなかった。
ただ、完璧な王子様が目の前にいる。
その事実だけに熱狂し、獲物を囲い込む猟犬のように距離を詰めてくる。
一人、また一人と距離を詰められ、磨き上げられた靴の先が、令嬢たちの華やかなドレスの裾に触れそうになる。
――これ以上、後ろへは下がれない。
壁を背にしたわけではない。
だが、四方を熱狂的な視線に囲まれたそこは、出口のない『完璧な檻』だった。
「アレクシス様、あちらのテラス席で、私と新作の試食をしてくださいませんこと?」
「いいえ、私とですわ!」
「ありがとうございます」「ええ、また後ほど」 呼吸がわずかに浅くなる。
微笑みが、顔に張り付いた仮面のように重い。
「アレクシス様」
喧騒を裂いて届いたのは、低く、驚くほど透き通った声だった。
刹那、腰に柔らかな熱を感じ、腕が優しく絡められる。
驚いて視線を落とせば、そこには深いパープルの髪――エレノアがいた。
「……っ」
令嬢たちの声が、急に遠くなる。
不思議だった。
気づけば令嬢たちの声は遠のき、世界には自分と彼女しかいないような気がした。
「エ、エレノア……?」
完璧な王子の口から漏れたのは、余裕のない、掠れた本音の響きだった。
令嬢たちも止まる。
二人の婚約の話はもはや誰でも知っている話だ。
明らかなけん制。
しかしエレノアは微動だにせず、
アレクシスの青い澄んだ目だけを見つめている。
エレノアが入ってきた瞬間、アレクシスの思考が止まった。
(ああ、やっぱり……この人だ)
「エレノア嬢…こんにちは」
少しだけ余裕を失って呼吸が乱れる 。
「こんにちは」
彼女はいつもの声音に戻った。
アレクシスはエレノアをエスコートし、令嬢たちを引きはがす。
背後から上がる、令嬢たちの落胆と羨望が混じった溜息。
いつもならその「負の感情」すらも計算に入れて、全員が納得するようなフォローの言葉を投げかけていただろう。
だが、今のアレクシスにそんな余裕はなかった。
エレノアの指先が、自分の上着の袖に触れている。
そのわずかな重みだけが、今の彼を現実へと繋ぎ止める錨だった。
「……あちらへ。二階にテラス席を用意させてあります」
掠れた声をどうにか整え、彼女を導く。
大理石の階段を上がる一歩ごとに、階下の喧騒が遠ざかる。
代わりにエレノアのまとう「森の静寂」が彼の中に満ちていく。
ようやく二階のテラスへと辿り着き、手すり越しに王都の風が吹き抜けた瞬間、
アレクシスは誰にも気づかれないほど深く、肺のすべてを入れ替えるように息を吐いた。
(助かった……)
そう思った自分に、アレクシスは戸惑う。
誰かが現れただけで、こんなにも安堵したことなどなかった。
けれど、それは決して不快な侵入ではなかった。
むしろ、彼女が触れている場所から、凍りついていた心がじわりと溶けていくような感覚。
アレクシスは、エスコートしていた彼女の手を、あえてすぐには離さなかった。
手袋越しでも伝わってくる彼女の控え目な熱。
先ほど自分で選んだ「控えめな香水」が、彼女の香りと混ざり合い、しっくりと馴染んでいることに気づく。
「……っ」
階下の喧騒は、もう遠い国の出来事のように思えた。
その時のアレクシスは、まだ知らない。
この安堵が。
やがて、自分を壊すほどの感情になることを。




