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第7話 公爵令息の誤算

「……最悪だ」


自室の鏡の前で、アレクシスは低く独りごちた。


執事が見れば腰を抜かすだろう。


いつもなら数分で終わる身支度に、彼はもう1時間も費やしている。


ネクタイの結び目を解いては結び直し、前髪のわずかなハネに眉をひそめる。


鏡の中にいるのは、いつも通りの、髪の一房まで完璧に整えられたヴァルトハイム家の貴公子だ。


けれど、彼が思い返していたのは、数日前の森の雨宿り。


虹を見つけて歓声を上げ、あどけない子供のように自分の腕を掴んだ、

はちみつ色の瞳の婚約者の姿。



(……あんな顔をするなんて、聞いていなかった)



けれど、それ以上に頭から離れないのは、

あの東屋で雨音に耳を澄ませていた、彼女の静かな横顔だ。



変わりゆく葉の音に、彼女は頷いた。


僕が義務や仮面の重さに耐えかねて、雨の中にだけ見出していた「自由」を、彼女も同じように感じ取っていた。


(ああ、この人だけは、同じ音を聞いている…)



その確信が、虹よりもずっと鮮烈にアレクシスの心を揺さぶった。


完璧な公爵令息としてではなく、ただの一人の男として、誰かと呼吸が合った。


その瞬間、アレクシスの中で、何かが音を立てて崩れた。


これまでの自分なら、決して許さなかったはずの衝動。


完璧な婚約者としてではなく、もっと剥き出しの自分で、彼女を抱きしめたくなった。



——そんなふうに考えている自分に困惑している。



もともと、この縁談は彼にとって「仕事」の一つにすぎなかった。



数ヶ月前。


父である公爵から、ローゼンベルク家との縁談を告げられた時のことを思い出す。


事務机に置かれた、彼女の肖像画と身上書。


アレクシスはそれを一瞥しただけで、

「分かりました。ローゼンベルク家なら商売上の利点も多いですね」と、感情の欠片もない返事をした。



実際、肖像画のエレノアは美しかったが、どこか近寄りがたく、表情も読み取れなかった。


社交界での噂も「何を考えているか分からない」「変わり者」という、およそ王太子妃候補から外れた娘に対する冷ややかなものばかり。



(当時の僕は、彼女の瞳が何色かなんて、興味すら持っていなかった)



自分もまた、周囲から『完璧な王子』という記号でしか見られていない。


ならば、相手も記号でいい。


心など交わさずとも、利害が一致し、社交の場で美しく並んで立っていられれば、それで「正解」だと思っていたのだ。


そんな傲慢な自分を、殴り飛ばしたい気分だった。



かつては「記号」として処理していた婚約者のために、

今日はどのタイピンが彼女の瞳に映えるか、どの香水なら彼女の安らぎを邪魔しないかと、

髪の一房まで神経を尖らせている。



(ただの仕事だと思っていたのに)



以前の彼なら、「相手をいかに心酔させるか」という戦略に基づき、

迷わず王道で華やかなウッディ系の香水を選んでいただろう。


それは、完璧な王子という『正解』を演出するための、合理的な選択だった。


だが、今日彼が手に取ったのは、驚くほど淡く、雨上がりの草木を思わせる控えめなものだった。


——彼女の隣にいるなら、これくらいが……。


ふと気づき、アレクシスは苦く眉をひそめた。


計算ではない。誰かの機嫌を伺うためでもない。


ただ、あの森で触れた彼女の気配を邪魔したくない――そんな、理屈を超えた本能が指先に選ばせていた。



戦略的に自分を偽ることは得意だった。


でもこうして誰かの「色」に自分を合わせようとするのは、彼にとっては初めての、得体の知れない体験だった。



鏡の中の「仮面」は相変わらず完璧だが、その内側は、あの日彼女が流し込んできた『素』の温度で、今にも溶け出してしまいそうだった。



思い出すだけで、手袋の下の指先が、じりじりと熱を帯びる。



正直に言えば、先日の狩りの誘いですら、義務感による「少しばかり面倒な予定」だとすら思っていたのだ。

(……それなのに)

彼女は、僕の本音を否定せず、ただ隣にいてくれた。



あの日、別れ際に彼女が言った「撃たなくてよかった」という言葉を、アレクシスはもう百回は反芻している。


そのたびに、胸の奥が甘痒いような、妙な熱に浮かされるのだ。


「……正解が、わからない」


今まで、どんな淑女に対しても「完璧な王子様」としての正解を差し出してきた。


けれど、彼女のあの真っ直ぐな瞳の前では、塗り固めた仮面を差し出すことが、ひどく卑怯なことのように思えてしまう。


彼女がくれた「素」の温度に対して、自分だけが殻に閉じこもったまま。


もし今日、彼女に「あの日、黙り込んで怖かった」なんて言われたら、自分はどう言い訳すればいいのか。


(嫌われてはいないだろうか。不気味だと思われなかっただろうか。……いや、そもそも彼女は僕のことなど、これっぽっちも意識していないのではないか?)


——あれ?


そこまで考えて、アレクシスは自分で自分に愕然とした。



これまで彼が気にしてきたのは、「自分がどう見られているか」という客観的な評価だけだった。


民衆が、貴族が、父が求める『完璧なアレクシス』を演じ、狙い通りの賞賛を得る。


それは彼にとって、単なる計算通りの結果でしかなかったはずだ。


けれど、今は違う。


世間の評価などどうでもいい。


ただエレノアという一人の女性が、この仮面の裏側にいる僕をどう感じたのか。


その、計算では導き出せない『答え』が怖くてたまらないのだ。


完璧な仮面の下で疼く、この正体不明の『もどかしさ』に、今日は名前をつけられるだろうか。



今日はこれから新事業の視察だ。


『サロン・ド・ヴァルトハイム』。


王都に新しくスイーツサロンを作った。


エレノアも来る。



新店舗の視察へ向かう馬車の準備は、もう整っている。


かつてないほど速い鼓動を、社運を賭けた事業への緊張だと自分に言い聞かせる。


… けれど、本心は違った。

一刻も早く彼女に会わなければならない。


そうしなければ、胸の奥のモヤが晴れることはないのだと、本能が告げていた。



「アレクシス様、馬車の準備が整いました」



アレクシスは、あの日感じた手のひらの熱を封じ込めるように、ゆっくりと白い手袋をはめた。



「……行こう。待たせるわけにはいかないから」



鏡の中の「仮面」をもう一度だけ確認して、彼は部屋を後にした。


その胸に、嵐のような予感を抱えたまま。


部屋を出る際、長年仕えてきた老執事が一瞬だけ目を見開いたのを、アレクシスは見逃さなかった。



「……何か変か?」


「いえ。ただ、アレクシス様がこれほどまでに装いに心を砕かれるのは、十年前の戴冠式以来でございますので」


「……っ、ただの視察だと言っただろう」



頬に熱が昇るのを自覚しながら、アレクシスは足早に廊下を歩き出した。


自分でも、今の自分がどれほど滑稽か分かっている。


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