第7話 公爵令息の誤算
「……最悪だ」
鏡の前で、アレクシスは低く独りごちた。
ネクタイの結び目を解いては結び直し、前髪のわずかなハネに眉をひそめる。鏡の中にいるのは完璧な貴公子だが、もう1時間も同じ場所で手が止まっていた。
長年仕える老執事が恐らく「戴冠式以来のこだわりようでございます」と目を丸くするほどに、今の自分は異常だった。
今日、王都の一等地に自身が企画したスイーツサロン『サロン・ド・ヴァルトハイム』がオープンする。
次期公爵としての新事業。
本来なら、その成功に向けた最終チェックにこそ、すべての神経を注ぐべき日だった。 建前としては、今日の自分の外出もただの「視察」だ。
――それなのに、なぜ自分は、仕事でもない装いにここまで心を砕いているのか。
(……彼女は、本当に来てくれるだろうか)
婚約者として、エレノアには事前に招待状を送ってある。
けれど、アレクシスの胸中にあるのは、押し潰されそうなほどの不安だった。
思い出しては、自己嫌悪で消えたくなるのは、数日前の森での自分の態度だ。
(……僕は、なんて失礼なことをしたんだ)
本来なら、獲物を仕留めて男としての強さを示すべき狩猟の場。
それなのにあの時の自分は、あろうことか 「義務です。嫌いなんです、本当は」などと、みっともない後ろ向きな本音を、投げやりで素っ気ない態度のまま差し出してしまった。
適当に突き放すために、不躾な姿を見せた。
あんな最悪な態度を取っておいて、よくも堂々と招待できたものだ。
「本当は、私のことなど嫌いなのでしょう」と、呆れ果てて拒絶されても文句は言えない。
あの森の一件で、完全に嫌われてしまったかもしれない――そう思うと、鏡を見る手の先が冷たくなった。
けれど、あの瞬間のエレノア・フォン・ローゼンベルクの姿を思い出すと、
どうしても期待を捨てきれない自分がいる。
(僕は鹿を打ちたいと思ったことなんて、1回もない)
普通なら、男らしくない、と幻滅されるところだろう。
しかし彼女は僕の本音を笑わず、責めず、驚きも軽蔑もしなかった。
『怖いからといって見ないふりはしません』
『今日は、撃たなくてよかったと思います』
あの日、彼女がくれた言葉を思い出すたび、胸の奥が妙に熱くなる。
さらに、あの雨宿りの時間だ。
何度も思い出してしまうのは、雨の音を聞いていた彼女の美しい横顔だった。
「葉の音が変わるから好きなんです」と零した僕の言葉に、彼女は揶揄も否定もせず、『本当ですね』と頷いた。
(ああ、この人だけは、僕と同じ音を聞いている)
理解されたいなどと思ったことはなかった。
そうやって生きてきたはずなのに。
自分のちょっとした本音を否定されず、ただ隣で受け止められたことが、どれほど嬉しく、安心したか。
彼女はあの時、張り詰めた本当の本心で、一人の人間として僕に向き合ってくれていた。
それなのに、自分はなんと身勝手な壁を作っていたのだろう。
今までなら、相手が求める完璧な姿ー正解を演じればよかった。
けれど彼女の前では、その欺瞞がひどく卑怯で無礼なものに思えて仕方がなかった。
彼女の本心に、自分も対等な本心で応えなければ、男としてあまりにも失礼だ。
――なのに、詫びるためだけなら、なぜこんなに装いに心を砕いている?
完璧な仮面の下で疼く、この正体不明の『もどかしさ』に、今日は名前をつけられるだろうか。
今日選んだ香水は、王道のそれではなく、
あの森を思わせる雨上がりの草木の香りだった。
理由は分からない。
ただ、偽りの完璧さで塗り固めた王子のような香りで、
彼女の清らかな空気を邪魔したくなかった。
コンコン、とドアがノックされ、使用人の声がする。
「アレクシス様、馬車の準備が整いました」
「ああ、今行く」
アレクシスは、あの日感じた手のひらの熱を封じ込めるように、ゆっくりと白い手袋をはめた。
鞄と上着を手に取り、鏡の中の「仮面」をもう一度だけ確認して、彼は部屋を後にした。
廊下へ出た際、控えていた老執事が一瞬だけ目を見開いたのを、
アレクシスは見逃さなかった。
「……何か変か?」
「いえ。ただ、アレクシス様がこれほどまでに装いに心を砕かれるのは、十年前の戴冠式以来でございますので」
「……っ、ただの視察だと言っただろう」
頬に熱が昇るのを自覚しながら、アレクシスは足早に廊下を歩き出した。
自分でも、今の自分がどれほど滑稽か分かっている。
本来なら、新事業であるスイーツサロン『サロン・ド・ヴァルトハイム』の成功だけを考えていればいい。
仕事の利点だけで一瞥した、数ヶ月前の彼女の肖像画を思い出しては、今の自分の変わりように呆れるばかりだ。
今日の視察が終われば、この妙な熱も消えるだろう。
そう思いたかった。
馬車へ向かう足が、視察のためではなく、
ただ“彼女に会うため”に動いていたことに、本人はまだ、気づいていなかった。
****
エレノアはその頃、王都に向かう馬車の中にいた。
深いパープルの髪を編み込み、美しく着飾ってはいるが、彼女の胸中は驚くほどに平坦だった。
(今日は、新しい施設の視察か……)
頭の中で、今日のタイムスケジュールと、公爵令嬢として取るべき適切な振る舞いを反芻する。 彼女にとって、昼の社交は「仕事」であり「役割」だ。それ以上でも以下でもない。
けれど。揺れる馬車の中で、ふと数日前の森の雨宿りが脳裏をよぎる。
いつも隙のない完璧な微笑みを貼り付けているあの男が、あの時だけは違った。
金の髪を濡らし、「嫌いなんです」「葉の音が変わるから好きなんです」と、むき出しの、そっけない本音を零していた。
社交界の誰もが羨む、遠い雲の上の公爵令息。
その仮面の下から覗いた彼の「素の冷たさ」は、
お仕着せの甘い社交辞令よりも、彼女にとっては、不思議とずっと心地よく、息がしやすかった。
(……アレクシス様。あなたは、どちらが本当の姿なの)
完璧な次期公爵の彼と、雨音を聞いていた彼。
まだ彼の本質を図りかねている。
だからといって、彼という個人に深く踏み込もうとするほどの熱は、今の彼女にはまだない。
ただ、少しだけ奇妙な引っかかりを残したまま、今日もまた完璧な婚約者という役割を全うするだけだ。
「お嬢様、大丈夫ですよ」
隣に座るユノがにっこりと話しかける。
「今日もお嬢様はとっても素敵です。アレクシス様のお店、楽しみですね」
エレノアが緊張していると思ったのか、ユノが勇気づけてくれる。
「ええ、そうね。楽しみにしているわ」
――彼は私を見て、どんな反応をするだろうか。




