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第6話 嫌いなんです、と彼は言った

ヴァルトハイム領の森は、深く、静かだった。


葉擦れの音と、遠くの鳥の声だけが響いている。


今日は親睦もかねて、森でのデート、という名の狩りである。



エレノアは、馬に乗りながら、横を走る青年を見た。


アレクシス・ユリウス・ヴァルトハイム。


婚約者。


彼は今日も、完璧だった。


背筋は真っ直ぐで、手綱さばきは無駄がない。

馬は彼の指示に素直に従う。


「怖くはありませんか?」


穏やかな声。


「はい、大丈夫です」


エレノアは短く答える。馬をひく従者も安心した顔をする。


横向きに腰かけた形での乗馬。


ゆっくりと進む歩み。



馬も森の匂いも嫌いではない。

むしろ落ち着く。


人工の香りより、ずっと。



でも本当は、ドレスを脱いで、馬に跨って

森を颯爽と走り抜けたい。



(きっと楽しいだろうな…。)



エレノアのささやかな希望は森の奥へ、吸い込まれて消えていく。



——————

————————

————————————



少し開けたところに陣をはり、狩猟の準備が整えられる。

アレクシスは慣れた手つきで銃の弾を確認している。


使用人が周囲を探索し、獲物をさがしてきた。



「いつもこのあたりで、こうして準備をします」



今回は従者が特別にエレノア用の椅子とパラソルまで用意してくれているようだ。


そこまでしてくださるとは…。


エレノアは苦笑いをひっこめ、おとなしく椅子に座った。



しかし、エレノアも初めての狩り。

緊張して静かに座っているしかできない。



誰かが何か言った。



いきなり空気が張り詰める。


アレクシスの表情が変わった。


いつもの柔らかな微笑みではない。



冷静で、研ぎ澄まされた顔。



(強い人だ)


そう思う。


同時に、


(遠い)





アレクシスが望遠鏡を見て、エレノアに渡す。


「あそこです。見てみてください」


「えっと…あ!」



鹿だ。


角が少し伸びている。雄だ。


下を向いている。


草を食べているのかな?



アレクシスが銃を触る音がする。


静止。


照準。


指が引き金にかかる。


——そのとき。


エレノアが、ふと声を出した。


「……綺麗ですね」


アレクシスの指が、わずかに止まる。


「え?」


「鹿の毛並み。陽の光で、金色に見えます」



野生の鹿をこんなにしっかりと見たのは初めてだ。


思わず思い出す。


小さな頃読んだ、子鹿の絵本。


母鹿が人間に殺されてしまって、一人残されて。


でも森の仲間たちとともに成長して。


また自分の家族を持つ話。



絵で見る鹿と違って、野生の鹿は体が引き締まっている。


とてもキレイ。



…ほんの一瞬の沈黙。




鹿は気配を察したのか、森の奥へ走り去ってしまった。


銃声は鳴らなかった。


周囲がざわつく。



「撃たれないのですか?」



従者が戸惑う。


アレクシスは銃を下ろした。


「今日は、様子を見る。思ったよりも若い鹿だった」


完璧な理由を口にする。




けれど、エレノアは見ていた。


…彼の指が、ほんの少し震えていたことを。


森を歩きながら、エレノアが言う。



「狩猟は、お好きなのですか?」


「……義務です」


即答だった。


「……嫌いなんです。本当は」


素っ気なく言ってから、彼はすぐに前を向いた。

それ以上は、何も言わなかった。

エレノアも、何も聞かなかった。



沈黙が続く。


けれど、不快ではない。


アレクシスが、ちらりと横を見る。



「……あなたは」


「はい?」


「銃を怖がらないのですね」


エレノアは少し考えた。


「怖いといえば怖いですが」


静かな声。


「でも、怖いからといって否定はしません」


足元の小さな野花を見つめる。




従者が獲物を探す。


その間、エレノアとアレクシスはバードウォッチングをした。



エレノアは何かを見つけるたびに喜んだ。


アレクシスはその都度名前を教えてくれる。



空が、急に暗くなった。


「雨が来る」


——ポツリ。


アレクシスが言った瞬間、大粒の雨が落ちてきた。


「こっちへ」


腕を引かれる。


雨足が強くなる前に、森の中の小さな東屋へ駆け込んだ。


息が上がっている。


アレクシスが先に入り、こちらへ手を差し伸べた。

自然な動作だった。


温かい、自分より少し大きな手…


受け取ってから、少しだけ心臓が速くなった。


東屋の屋根を、雨が叩いている。


「しばらくかかりそうですね」


「……そうだね」


雨音だけが続く。


沈黙は、不思議と苦ではなかった。


東屋の柱にもたれて、アレクシスが空を見上げた。


急に降り出した雨に、彼の金の髪が少しだけ濡れて額に張り付いている。


いつも完璧に整えられているはずの髪が乱れているのが、なぜかひどく色っぽく見えて、エレノアは目のやり場に困った。


「森の雨は好きでね」


そっけない、独り言のような声。


「葉っぱの音が変わるから」


エレノアは耳を澄ませた。


確かに。


雨が落ちるたびに、葉が揺れて、重なって、違う音になる。


「……本当ですね」


アレクシスが、こちらを見た。

少し驚いたような顔。


——同意してもらえると思っていなかったのかもしれない。


(この人は、決まった音色に飽きているんだわ)


正しくあることを強いられる日々の中で、この騒がしい雨音だけが、彼の心を「義務」から解放してくれる。


自分も、同じだ。


ドレスの裾を気にせず、ただ雨に守られている今だけが、

本当の呼吸ができる気がする。


二人の間に、言葉を超えた、奇妙な共犯意識が芽生えた瞬間だった。




しばらく、雨の音を聞いていた。



雨が軽くなり始める。


ースッー

…曇の間から光がさした。 



「アレクシス様、見て…!」


虹が出る瞬間だった。端が見えないほど大きい。


「綺麗ですね……」


夢中で指差そうとして、アレクシスの腕をガッツリと掴んでいたことに気づく。


(あーッ! 令嬢として、なんてはしたないことを……!)


「申し訳ございません、私ったら…」


慌てて手を離そうとしたエレノアだったが、それより早く、アレクシスの大きな手が彼女の震える指先を包み込んだ。


「構いませんよ」


彼は真顔だった。彫刻のように整った横顔。


けれど、その視線は虹の端を射抜くように固定されたまま、微動だにしない。


握り込まれた手のひらは、雨で冷えたエレノアの肌に痛いくらいに熱い。


アレクシスの指は、細くて繊細に見えるのに、握りしめる力は驚くほど男性的で、強い。


冷えた指先から、彼の体温がドクドクと流れ込んでくるようだった。


(嫌だったのかしら……?)


拒絶されたような冷たさに胸がちくりと痛んだが、差し出された手のひらは、私の肌が火傷しそうなくらい熱かった。



「……もう少し、このままで。虹が消えるまで」


彼の声は、いつもより少しだけ低く、掠れていた。


繋がれた手を通じて、アレクシスの心臓の鼓動が一定のリズムで伝わってくる。


エレノアは、空に架かる虹を半分も見ていなかった。


ただ、隣に立つ彼の、今まで感じたことのない圧倒的な『熱』に、息を止めることしかできなかった。



二人は手を繋ぐ。

相手の体温を感じながら、虹が消えるまで見ていた。



——————

————————

————————————


夕方になった。


「戻りましょうか」


アレクシスが手を引き、元の場所まで戻る。



森の出口。


光が差し込む。


エレノアがふと、アレクシスを見る。


「今日は、撃たなくてよかったと思います」


ただそれだけ。


非難でも、称賛でもない。


事実のように。



すると、アレクシスが、初めて笑った。


完璧な笑顔ではない。


少しだけ、力の抜けた笑み。



「……そうですね」



短い返事。


けれど。


その声は、


夜の静けさに、ほんの少し似ていた。



従者たちが見えると、スっと手を離してしまった。


つい先ほどまで、あんなに熱く、痛いほどに自分を繋ぎ止めていた力が、

まるで最初からなかったことのように消える。


体温を奪われた指先が、冷えた空気に晒されて急激に熱を失っていく。



「アレクシス様、ご無事でしたか?」


「ああ、問題ない」



完璧な声。


振り向いた彼の瞳には、もう虹も、雨音に聞き惚れていた少年のような影も残っていない。


閉ざした。とエレノアはわかった。


彼がその大きな手で守り抜こうとしているのは、私ではなく、ヴァルトハイム家の「完璧な後継者」という重すぎる殻なのだ。




遠いと感じる彼は、本当の彼じゃないのかも。



結局、あのあとは一匹も獲物は見当たらなかった。




帰りの馬上。


アレクシスは、どこか遠くを見ていた。

森の奥を。 あるいは、もっと別の何かを。

エレノアは、その横顔をそっと見る。

昼の完璧な婚約者。

けれど今日だけは、その輪郭が少しだけ柔らかかった。


——夜のあの子も、こんな顔をするだろうか。


なぜか目の奥に、彼女の姿がちらついたのだった。


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