第6話 嫌いなんです、と彼は言った
ヴァルトハイム領の森は、深く、静かだった。葉擦れの音と、遠くの鳥の声だけが響いている。今日は親睦もかねて、森でのデート、という名の狩りである。
エレノアは、馬に乗りながら、横を走る青年を見た。
アレクシス・ユリウス・ヴァルトハイム。婚約者。彼は今日も、完璧だった。背筋は真っ直ぐで、無駄のない動きで馬を操る。その姿は、どこか遠い。
「怖くはありませんか?」
彼は穏やかにこちらを見る。
「はい、大丈夫です」
エレノアは短く答えた。
馬の歩みに揺られながら、森の匂いを吸い込む。
(落ち着く)
エレノアは自身のドレスに目を落とす。本当は、馬に跨って走る方が好きだ。だがそれは、令嬢としては許されない想像だった。
****
少し開けた場所に、狩猟の準備が整えられていた。従者たちが動き、弾薬や道具が静かに配置されていく。アレクシスは慣れた手つきで銃の弾を確認している。
「いつもこのあたりで、こうして準備をします」
今回は従者が特別にエレノア用の椅子とパラソルまで用意してくれているようだ。
そこまでしてくださるとは…。
エレノアは苦笑いをひっこめ、おとなしく椅子に座った。それでも、不思議と退屈ではなかった。そこに彼がいるからだ。
いきなり空気が張り詰めて、アレクシスの表情が変わった。
いつもの柔らかな微笑みではない。すっと余計な感情が削ぎ落ちる。氷のように静かな青い瞳、ただ獲物だけを見据える視線。獲物を狩る、狩人の顔。
息を飲むほど綺麗で、同時に、遠いとも思う。アレクシスが望遠鏡を見て、エレノアに渡す。
「あそこです。見てみてください」
静かに草を食む若い鹿がいる。アレクシスが銃を構える。指が引き金にかかる。
——そのとき。
エレノアが、ふと声を出した。
「……綺麗ですね」
アレクシスの指が、わずかに止まる。
「え?」
「鹿の毛並み。陽の光で、金色に見えます」
…ほんの一瞬の沈黙。
鹿は気配を察したのか、森の奥へ走り去ってしまった。銃声は鳴らなかった。
「撃たれないのですか?」
従者が戸惑う。
アレクシスは銃を下ろした。
「今日は、様子を見る」
完璧な理由を口にする。
けれど、エレノアは見ていた。…彼の指が、ほんの少し震えていたことを。
(なぜ?)
森を歩きながら、沈黙が続く。不思議と、居心地は悪くなかった。むしろ、静かだった。
「狩猟は、お好きなのですか?」
エレノアが問う。
「……義務です」
即答だった。
「……嫌いなんです。本当は」
素っ気なく言ってから、彼はすぐに前を向いた。それ以上は、何も言わなかった。エレノアも、何も聞かなかった。
沈黙が続く。けれど、不快ではない。アレクシスが、ちらりと横を見る。
「……あなたは」
「はい?」
「銃を怖がらないのですね」
エレノアは少し考えた。
「怖いといえば怖いですが…でも、怖いからといって見ないふりはしません」
静かに、足元の小さな野花を見つめる。その言葉に、アレクシスは何も返さない。ただ、少しだけ視線を落とした。
従者が獲物を探す間、エレノアとアレクシスはバードウォッチングをした。エレノアは何かを見つけるたびに喜んだ。アレクシスはその都度名前を教えてくれる。
空が、急に暗くなった。
「雨が来る」
————ポツリ。
アレクシスが言った瞬間、大粒の雨が落ちてきた。
「こっちへ」
腕を引かれる。雨足が強くなる前に、森の中の小さな東屋へ駆け込んだ。
息が上がっている。アレクシスが先に入り、こちらへ手を差し伸べた。受け取ってから、エレノアは少しだけ心臓が速くなった。温かい、自分より少し大きな手だった。
東屋の屋根を、雨が叩いている。
「しばらくかかりそうですね」
「……そうだね」
雨音だけが続く。沈黙は、不思議と苦ではなかった。東屋の柱にもたれて、アレクシスが空を見上げた。
急に降り出した雨に、彼の金の髪が少しだけ濡れて、額に張り付いている。
彫刻のようなその横顔から滴る雨の雫が、彼の白い首筋へと伝い落ちていくのが見えた。
(……ッ、目のやり場に困る、これ)
唐突にくる圧倒的な色気に、エレノアは慌てて視線を外した。
「森の雨は好きなんです」
そっけない、独り言のような声。
「葉の音が変わるから」
エレノアは耳を澄ませた。
確かに。
雨が落ちるたびに、葉が揺れて、重なって、違う音になる。
「……本当ですね」
アレクシスが、こちらを見た。
少し驚いたような顔。
——同意してもらえると思っていなかったのかもしれない。
(この人は、決まった音色に飽きているんだ)
そう思った。
正しくあることを強いられる日々の中で、
この騒がしい雨音だけが、彼の心を「義務」から解放してくれる。
自分も、同じだ。
ドレスの裾を気にせず、ただ雨に守られている今だけが、本当の呼吸ができる気がする。
しばらく二人で雨の音を聞いていた。
「アレクシス様、見て…」
エレノアが指を伸ばす。虹がかかっていた。
「綺麗ですね……!」
その瞬間、思わずアレクシスの袖を掴んでいた。
「あ…申し訳ございません」
慌てて手を離そうとしたエレノアだったが、それより早く、アレクシスの大きな手が彼女の震える指先を包み込んだ。
「構いませんよ」
彼は真顔だった。彫刻のように整った横顔。
冷えた指先に、体温が流れ込む。強くて、逃がさない熱。
「……消えそうですね」
アレクシスの声は、少しだけ掠れていた。エレノアは、空に架かる虹を半分も見ていなかった。ただ、隣に立つ彼の、今まで感じたことのない圧倒的な『熱』に、息を止めることしかできなかった。
二人とも、相手の体温を痛いほどに感じながら、虹が消えるのをじっと見つめていた。
****
雨があがる。もう夕方になってきていた。
「戻りましょうか」
アレクシスが手を引き、元の場所まで戻る。
「今日は、撃たなくてよかったと思います」
非難でも、称賛でもない。事実のように言った。すると、アレクシスが、初めて笑った。完璧な笑顔ではない。少しだけ、力の抜けた笑み。
「……そうですね」
短い返事。しかしその声は、夜の静けさに、ほんの少し似ていた。
やがて森の出口が見えてくる。 遠くに従者たちの姿が視界に入った、その瞬間だった。
スッと、アレクシスの大きな手が離れた。
つい先ほどまで、あんなに熱く自分を繋ぎ止めていた力が、まるで最初からなかったことのように消える。
体温を奪われた指先が、急に寒かった。
「アレクシス様、ご無事でしたか?」
「ああ、問題ない。エレノア嬢を東屋へお送りしていた」
振り返った彼の青い瞳には、もう虹も、雨音に聞き惚れていた少年のような影も残っていない。完璧な、模範的な婚約者の仮面。
――閉ざした。とエレノアは分かった。
私は今日、確かに彼を知ったはずなのに。
完璧な婚約者ではない。
雨音を聞いていた彼。
鹿を撃てなかった彼。
私の手を握り潰しそうだった彼。
すべて幻だったかのように彼は遠い公爵の跡取りに戻っていく。
――彼は、どこへ行ってしまったのだろう。さっきまでの彼に、また会いたい。
読んでいただきありがとうございました!
内容加筆・修正しました。(2026.6.25)




