第5話 また、来てしまった
アレクシス視点です
無名の夜会は、今夜も静かに始まっていた。
金のウィッグを整えながら、仮面の紐を結ぶ。
また来てしまった。
——愚かだ。
婚約が決まったばかりだというのに。
それでも、足は止まらなかった。
会場へ入ると、すぐに声がかかる。
「まあ、お久しぶり」
「今夜はご一緒しません?」
静かに首を振った。
「ごめんなさい。少し、一人でいたくて」
嘘ではない。
ただ、正直でもない。
人混みを避けながら、壁際へ移動する。
——いるかな。
そう思っている自分に、少し驚く。
視線を巡らせると。
いた。
壁にもたれている。
腕を組んで、今夜の演奏を聴いている。
夜のような深い色の燕尾服を着た、銀色の髪の青年。
そのとき。
少し離れた場所で、笑い声が上がった。
「聞いたか?ヴァルトハイム家の跡取り、婚約だと」
「ローゼンベルク家の令嬢らしいな」
昼の名前が、夜に混ざる。
呼吸が、ほんの少し浅くなる。
「完璧な男らしいぜ」
「ドレスにも詳しいとか?はは」
くすくすと、軽い笑い。
慣れている。
昼でも、夜でも。
“少し変わっている”ことを、笑われることには。
——慣れているはずだ。
そのとき。
低い声が、静かに落ちた。
「……ドレスに詳しいのが、何だって言うんだ」
心臓が跳ねた。
銀髪の彼が、隣に立っていた。
仮面の奥の瞳が、まっすぐ前を見ている。
誰かを睨むわけでもなく、
守ろうと誇示するわけでもない。
ただ、事実のように言っただけ。
「綺麗なものが好きで悪いのか」
静かで揺るがない声。
胸の奥に、熱が落ちる。
あの顔合わせの日、
レースの話を否定しなかった婚約者の顔が、ふとよぎる。
違うはずなのに。
重なる。
「…来てたんだ」
短い言葉。
でも、口元が少しだけ緩んでいる。
「……うん」
それだけで、胸の奥が静かに温かくなった。
彼は僕を守るように、「こちらへおいで」と奥へエスコートする。
低く言って、背後から両腕でそっと囲むようにして。
人混みから守るような、その動作。
自然に、足が動いていた。
会場を歩く人が、隣をすり抜けていく。
ノアは視線を動かさない。
声をかけられても、軽く頷くだけで流している。
ほぼ無視だ。
——この人は、こういう人なんだ。
誰とも、深く関わらない。
なのにこちらを向くとき、少しだけ違う。
目が、少し柔らかくなる。
——なぜだろう。
考えているうちに、テーブルがあるところまで来た。
この間はケーキだったが、今回もまた、スイーツが立食できるようになっている。
いつもこういった仕様なのかもしれない。
彼はグラスを渡してくれる。
「甘いもの、好きだったよね?」
グラスを渡しながら、彼が言う。
——覚えていたのか。
「……好きです」
「そうか」
それだけ。
でも、なんとなく嬉しかった。
スイーツを食べながら、つい見てしまう。
彼の横顔、静かな輪郭。
すらりと長くて細い首。
色白の肌。
視線に気づいた青年が、わずかに首を傾げる。
「ん?」
首を振る。
——ただ、見ていただけ。
「ついてるよ」
ここ、と自身の頬を示す。
——見ていてくれたのか。
僕は右の口元を触る。
「反対」
…左だった。
ふと、彼の口元が緩んだ。
声は出さない。
でも、確かに笑っている。
——初めて見た。
この人が、こうして笑うところを。
なぜか、胸の奥が静かに跳ねた。
——なんだろう、この感じ。
ふと、彼の顔が近い、と気づいた。
クリームがついていた場所を確認しようとして、距離を縮めすぎたのかもしれない。
一瞬、どちらも動けなかった。
彼が先に、すっと顔を引いた。
「……取れてる」
短く言う。
声が、少しだけ低かった。
今夜の夜会は、演奏が主だ。
楽団が奥の舞台で演奏している。
僕たちは並んで、音楽を聴いた。
言葉は少ない。
それでも、沈黙は心地いい。
人が増えて、少し押し込まれた。
青年の肩が、こちらの肩に触れる。
離れない。
意図はわからない。
でも、こちらも動けなかった。
しばらく、そのままでいた。
温かい。
それだけのことなのに。
胸の奥が、静かに騒いでいる。
演奏が変わる。
少し静かな、ゆっくりとした曲になった。
「……好きな曲ですか」
気づいたら、声をかけていた。
彼が、こちらを見る。
「ああ。こういう静かなのが好きだ」
そう言って、また前を向く。
その横顔を、しばらく見てしまった。
——なんとなく、好きだと思う。
この人の、こういうところが。
まだ、それだけだ。
演奏が終わった。
拍手が広がる。
隣で、彼も静かに手を叩いている。
大きな拍手ではない。
でも、確かに叩いている。
こちらを見て、目が合う。
何も言わない。
でも、お互いに少しだけ笑った。
拍手の後、しばらくまた二人で過ごした。
夜も更けてきた頃。
帰ろうとしたとき、袖を軽く掴まれた。
振り返ると、彼が少しだけ困った顔をしている。
「……もう少し、いられる?」
短い言葉。
でも、その声が少しだけ柔らかかった。
——他の誰かには、こんな声を出さないだろう。
なんとなく、そう思った。
断れなかった。
断りたくなかった。
結局、もう一曲聴いた。
隣に、彼がいた。
それだけのことなのに。
なぜか、十分だった。
夜の終わり。 別れ際。 「また来る?」 彼が言う。
「……たぶん」
正直に答えた。
彼が、わずかに目を細める。
その表情が、なんとなく好きだと思った。
聞こうとした。
——名前。
でも、口から出なかった。
名前を知ったら、何かが変わる気がして。
——まだ、いい。
今夜は、このままでいい。
——まだ、名前も知らない。
それでも。
また来てしまうだろう。




