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孤独な公爵令息は、夜の香りに毒される 〜夜会で恋した「彼」は、完璧な昼の婚約者(ただし男装令嬢)でした〜  作者: ユニ子


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第5話 君の名前が知りたい

――ああ、やっぱり。

ドクン、と仮面の下で心臓が跳ねる。

胸を締め付けていた息苦しさが、その一言だけで、嘘のように消えていくのをアレクシスは感じていた。



『無名の夜会』では、音楽が演奏されていた。

グラスの音は、もう耳に馴染んでいる。

彼の隣にいるのが当然のように感じていた。

それが少し怖い。




離れた場所で、笑い声が上がった。


「聞いたか?ヴァルトハイム家の跡取り、婚約だと」

「ローゼンベルク家の令嬢らしいな」


昼の名前が、夜に混ざる。アレクシスの呼吸が、思わず浅くなった。



――アレクシスの婚約の話題は、すぐさま王都を駆け巡った。


あのヴァルトハイムがついに!? アレクシス様が!?


と、各方面で話題にされ、王都で知らないものはいないのではないかというレベルだった。




「完璧な男らしいぜ」

「なんでもできて、ドレスにも詳しいとか?はは」



くすくすと、悪意のない、だからこそ残酷な軽い笑い。

昼の名前が、夜の闇に混ざっていく。

アレクシスの指先が、グラスを持つ手の中で、わずかに冷たくなっていく。

――ああ、まただ。

昼でも、夜でも。完璧な跡取りとして生きながら、ほんの少し“変わっている”部分を面白おかしく品定めされる。

慣れているはずだった。

そのとき。



「……ドレスに詳しいのが、何だって言うんだ」


低く、冷徹な声が、静かに落ちた。


心臓が跳ねた。


銀髪の彼が、隣に立っていた。仮面の奥の瞳が、まっすぐ前を見ている。燃える琥珀色の瞳が、鷹のようだ。


誰かを睨むわけでもなく、守ろうと誇示するわけでもない。


ただ、事実のように言っただけ。



「綺麗なものが好きで悪いのか」



静かで揺るがない声。胸の奥に、熱が落ちる。


アレクシスは言葉を失う。


こんなふうに庇われたことが、今まで一度もなかった。


けれど、あの顔合わせの日、レースの話を否定しなかった婚約者の顔が、ふとよぎる。



彼はアレクシスを守るように、「こちらへおいで」と背後から両腕でそっと囲うようにして人混みの奥へエスコートした。

それはエスコートというには、あまりにも密着した距離だった。

彼の胸元に、僕の背中が完全にぴったりとくっついている。

普通の紳士なら、周囲の目を気にして指先を添える程度にするはずだ。

だが、彼は他人の目など初めからこの世界に存在しないかのように、淡々と、隙間なく僕をその体躯で包み込んで歩く。

燕尾服の袖から香る、微かな夜の匂い。

女性にしては高い背の僕を、さらに大きな存在感で包み込んでいくその所作に、じりじりと心臓が鳴る。

(……この人は、ズルい)


マナーも常識も無視して僕の領域に踏み込んでくるのに、 こちらに向ける目だけが、嘘みたいに柔らかいのだ。


会場を歩く人が、隣をすり抜けていく。

ノアは視線を動かさない。

声をかけられても、軽く頷くだけで流している。

ほぼ無視だ。

——この人は、こういう人なんだ。

誰とも、深く関わらない。

なのにこちらを向くとき、少しだけ違う。目が、少し柔らかくなる。

——なぜだろう。


気づいた。

彼は“優しい”のではない。

“無理をしていないだけ”だ。

その違いが、なぜかアレクシスの胸に残る。


(この人の隣では、僕は本当に、何かを演じる必要がないのかもしれない)


知り合ってばかりなのに、そんなことを思っている自分が不思議でならない。


テーブルには前回に続き、スイーツが立食できるようになっている。


彼はグラスを渡してくれる。


「甘いもの、好きだったよね?」

グラスを渡しながら、彼が言う。


「……好きです」

「そうか」



返事は素っ気ない。

でも、それがなんとなく嬉しかった。

グラスを受け取り、並んだスイーツを一口食べる。

美味しくて、そして何より彼がそれを覚えていてくれたことが嬉しくて、つい彼の横顔を見つめてしまった。



すらりと細い首、色白の肌。笑っていないのに、怖くない。

余計なものが落ちていくようなその美しさに、ただ、目を奪われていた。

視線に気づいた青年が、わずかに首を傾げる。


「ん? ……ついてるよ」



ここ、と自身の頬を示す。 慌てて右の口元を触ると、「反対」と短く、ふっと彼の口元が緩んだ。

初めて見る、悪戯っぽい微笑み。

胸の奥が跳ねた瞬間、す、と彼の手指が伸びてきて、僕の左の口元をなぞった。



「……取れた」



一瞬、どちらも動けなかった。

息が止まる。

指を引いた彼は、そのまま離れようとはしなかった。

見上げるほどに、彼の仮面の奥の瞳が近い。



お互いの吐息が仮面の隙間で混ざり合うほどの、逃げ場のないゼロ距離。

普通の人間なら、気まずさに耐えかねて身体を引くか、冗談めかして誤魔化す間合いだ。だが彼は、その位置のまま、燃える琥珀色の瞳で、僕の動揺をじっと静かに観察している。

まるで、僕がこの距離にどう反応するかを淡々と試しているかのように。



(……まただ。この人には、心の壁というものがないのか)



心臓がうるさい。

詰められた間合いの圧倒的な熱に、頭がどうにかなりそうだった。

すっと指を引いた彼の声が、いつもより少しだけ低く響いた。



****


楽団が奥の舞台で演奏している。

二人は並んで、音楽を聴いた。


沈黙が心地いい。


人が増えて、少し押し込まれた。

青年の肩が、こちらの肩に触れる。

離れない。でも、こちらも動けなかった。

しばらく、そのままでいた。


温かい。


それだけのことなのに。

胸の奥が、静かに騒いでいる。


演奏が変わる。

少し静かな、ゆっくりとした曲になった。


「……好きな曲ですか」


気づいたら、声をかけていた。

彼がこちらを見る。


「ああ。こういう静かなのが好きだ」


そう言って、また前を向く。

その横顔を、しばらく見てしまった。


——なんとなく、いいなと思う。

この人の、こういうところが。


演奏が終わった。

拍手が広がる。

隣で、彼も静かに手を叩いている。

こちらを見て、目が合うが、彼は何も言わずにただ、少しだけ目を細める。

その表情を見て、アレクシスは思う。


(この人は、誰にも説明しない)

(でも、拒絶もしない)


それが、なぜか安心だった。



夜も更けてきた頃。


帰ろうとしたとき、袖を軽く掴まれた。振り返ると、彼が少しだけ困った顔をしている。


「……もう少し、いられる?」


短い言葉。でも、その声が少しだけ柔らかかった。


(なぜ、そう聞く?)

(なぜ、それを僕に確認する?)


断れなかった。

結局、もう一曲聴いた。

彼の隣にいると、息苦しくない。

それだけのことが、今のアレクシスには、何より大切だった。



****

夜の終わり。 別れ際。 「また来る?」 彼が言う。


「……たぶん」


正直に答えた。

彼が、わずかに目を細める。

その表情が、なんとなくいいなと思った。

でも、同時に思ってしまった。


(君の名前は?)


だめだ。

本名を隠すルールだ。


——僕だって、明かせない。


今まで誰かの名前を知りたいと思ったことなど、

あっただろうか。


読んでいただきありがとうございました!

内容修正・加筆しました。 (2026.6.25)

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