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孤独な公爵令息は、夜の香りに毒される 〜夜会で恋した「彼」は、完璧な昼の婚約者(ただし男装令嬢)でした〜  作者: ユニ子


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第4話 婚約者のことを考えるはずだった

エレノアはクッションをぎゅっと握る。

良い縁談だ。

私がおかしいだけ。

私はきっと、守られる側になる。



そう思うとまた心が重くなる。優秀なアレクシス・ユリウス・ヴァルトハイム。


隣に立てば安心できるだろう。きっと誰もがそう言う。 良い夫になり、きっと私を優しく守ってくれる。


贅沢な悩みだ。私がおかしいだけなのだと、分かっている。


守られるだけの存在として、このまま人形のように生きていく未来が、静かに胸を締め付ける。それなのにレースの話をしていたときの、あの一瞬の彼の目が、どうしても頭から離れなかった。





****

アレクシスは一人、屋敷で紅茶を飲んでいた。婚約者との顔合わせは、数日前、滞りなく終わった。


婚約そのものに思うところはなかった。父が決めた、公爵家として必要な縁談。


事前に仕入れた社交界のエレノアの噂は、「変わり者」「姿を見ない」「どんな見た目だっけ?」といった珍獣扱いだった。


——どんな令嬢かと思ったら…


資料に優秀と書いてあったエレノアは、理想的すぎるほどに、理想的な婚約者だった。誰もが羨む縁談だろう。僕もそう思う。


しかし、あの夜会の青年なら、この部屋で何を話しただろうと思った。

すぐに首を振る。比較する意味などない。


自分の屋敷でネクタイを緩めながら、アレクシスは窓の外を見た。

婚約者。それ以上でも、それ以下でもない。彼女は美しく、控えめで、礼儀正しい。非の打ち所がない。公爵夫人として完璧だ。



それなのに、非の打ち所がないからこそ……少しだけ息苦しかった。



息苦しい執務室で、ふと思い浮かぶのは婚約者の顔ではなかった。白い仮面。月光を溶かしたような銀髪。

『じゃあ、共犯だね』

あの人と話している方が、不思議と呼吸が楽だった。


しかし、エレノア嬢も妙だ。

『どのようなレースがお好きなのですか?』

完璧な社交辞令ではなく、ただ純粋に知りたそうに、まっすぐこちらを見てきたあの瞳。アレクシスは社交界の裏も探り合いも嫌というほど見てきた。だからわかる。彼女の質問に、打算はなかった。なぜか、その一瞬のやり取りばかりが頭から離れない。理由はよくわからなかった。



アレクシスは小さく息を吐く。なぜか、その後の会話ばかりを覚えている。理由はよくわからなかった。



領地の話も。

今後の展望も。

父たちの会話も。

ほとんど覚えていない。

なぜか思い出すのは、彼女との何気ないやり取りばかりだった。



婚約後の予定について確認しておかないと。そう思って資料を開いた。気づけば夜会の日程を確認していた。


——何をしているんだ。


今日は夜会の日だと、気づいたのは昨日だった。

気づいた瞬間、胸が落ち着かなくなった。

理由はわからない。

ただ、あの人に会えるかもしれないと思った。


二人の婚約は、誰もが羨むだろう。

なのに、アレクシスには今日が夜会の日だと気づいた時の方が、顔合わせの日より気分が浮いた。



『無名の夜会』は毎回場所が変わる。

目印は紫のランタンだけ…。




****


エレノアは寝台に横たわりながら、クローゼットを見つめていた。その隅には、大切なキャリーケースがある。


——「令嬢らしく」という言葉が嫌いだ。


いつもそう思いながら、鏡の前で燕尾服の襟を整える。解いたままの銀髪を後ろへ流し、白い仮面をつける。鏡の中に映るのは、公爵令嬢ではない。


誰も知らない「私」だった。

胸を締めつけるコルセットも。

貼りついた笑顔も。

“令嬢らしさ”という正解も。


夜会の夜だけは必要ない。

令嬢が男装して夜会へ出入りしているなど知られれば終わりだ。

それでも、やめられなかった。


月に一度だけ開かれる『無名の夜会』。

名前も身分も伏せる場所。

ここでは誰も、本当の自分を問わない。

だから息ができる。



じっと暗闇を見つめながら、先月の夜会のことを思い出す。

あの日、会場の奥がざわつき、ふと目が合った、淡いドレスにピンクの仮面をつけたあの令嬢。



『ケーキですか?』


人気菓子店エチュールの新作らしい、と背中を押すと、仮面の奥の瞳が初めてはっきりと輝いた。


『……ぜひ』


その反応が嬉しくて、思わず腕を差し出した。

その瞬間だった。

少し見えた、しっかりした細い手首。 女性にしては低い声。夜に溶けるような響き。


この人もまた、仮面の下に別の顔を隠しているのだと思った。


――私と同じように。

それだけで、少し嬉しかった。

ケーキを一口食べて、仮面の下でふわりと表情を緩めたあの顔。


――ただ同じ場所で、同じ時間を過ごしているだけで満たされた。

胸の奥にあった孤独が少しだけ薄くなるような、心地いい時間だった。



「……ふふ、馬鹿みたい」



誰もいない部屋でぽつりと呟く。

帰宅して燕尾服を脱いだ後も、彼女が触れた袖口が、なぜか少しだけ温かい気がしたのを覚えている。



今日は、月に一度の『無名の夜会』の日。

エレノアは窓から空を見つめる。


―― 月が真上になったら。


今夜もあの子は来るだろうか。

エレノアは寝台を音もなく抜け出し、キャリーケースを開けた。




****

今日も王都の外れの屋敷の入口に、紫のランタンが揺れていた。アレクシスは、屋敷をこっそりと抜け出してきた。

『無名の夜会』は、今夜も静かに始まっていた。門番がうなずき、ドアを開ける。


また来てしまった。


ドレスを着て、金髪のウィッグ、ピンクの仮面をつけた。


——愚かだ。


婚約が決まったばかりだというのに。それでも、足は止まらなかった。会場へ入ると、すぐに声がかかる。



「まあ、お久しぶり」

「今夜はご一緒しません?」



静かに首を振った。

声を出したくない。

人混みを避けながら、壁際へ移動する。



——いるかな。



そう思っている自分に、少し驚く。


視線を巡らせると彼はいた。壁にもたれている。白い仮面。腕を組んで、今夜の演奏を聴いている。夜のような深い色の燕尾服を着た、銀色の髪の青年。



向こうもこちらを見た。琥珀色の瞳がわずかに開く。そして初めて見るほど柔らかく笑った。


「来たんだ」


低いベルベットの声が、鼓膜を優しく揺らす。


ガコンしたアレクシス。これからどうなっていくのか…。

楽しんでいただけると嬉しいです。(2026.4.24)


話数の入れ替えと内容を追記しました。(2026.6.10)


話数の入れ替えと内容を追記しました。(2026.6.25)

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