第3話 アレクシス・ユリウス・ヴァルトハイム
その日は、よく晴れていた。
顔合わせにふさわしい天気だと、母は言った。
エレノアは窓辺に立ち、光の中に浮かぶ埃をぼんやりと見つめる。胸は、驚くほど静かだった。期待も、拒絶もない。
ただ——
“自分の番が来たのだ”と、理解しているだけだった。
いくら、王都で知らない人がいないほど、優秀で美しい、有名な殿方だったとしても。応接室に向かいながら、エレノアは一筋の希望を胸に抱いていた。
——夜会のあの子だったり、する?
いや、そんなわけ、ないか…。
エレノアは、はちみつ色の瞳を揺らす。溜息をひとつついて、軽く顔を叩いた。
****
しばらくして。
足音。
ノックの後、ドアが開く。
名が告げられる。
空気が、静かに整えられる。現れたのは、絵画のようにすべてが整った美しい青年だった。
「アレクシス・ユリウス・ヴァルトハイムです。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
片手を胸に当て、流れるように一礼する。
——この方が私の婚約者
彼は、どこから見ても完璧だった。声も、所作も、微笑みも。
柔らかな金の髪は整えられ、額にかかる前髪さえ計算されているように見える。
澄んだ青の瞳は、昼の光を正しく反射して、まぶしいほどだった。
そこまで広くはない肩幅で、背筋は真っ直ぐに伸びている。この人は、守られる側ではなく、守る側だと一目でわかる体躯。
完璧だった。
——あまりにも。
エレノアは正体不明の寂しさを感じた。
(違う……気がする)
エチュールで会ったときは、もっと柔らかかったような…。
しかし、エレノアはその違和感をうまく言葉にできなかった。
「エレノア・フォン・ローゼンベルクと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
教え込まれた通りのカーテシー。声は高く美しく、柔らかく、従順に。
今日の私は、夜の私ではない。
昼の令嬢だ。
深いパープルのロングヘアを編み込んで、やさしいピンクのドレスを着て。
靴は細かい細工のされたシルバーのヒールをはいている。
母がこの日のために仕立てたお気に入りのコーディネートだ。
エレノアには少し可愛いすぎる気もしたが、第一印象が良いのに越したことはないので(仕立屋も母も、お互いに手を取りぶんぶん振り回しながら喜んでくれるので)これにすると決めた。
両家の父親たちが満足げにうなずく。お人形さんみたいだわ、と公爵夫人が嬉しそうにしてくれた。
(とりあえず第一関門は、乗り越えた…)
テーブルには先日買いそろえた菓子や、うちの料理長が作ったデザートが並び
アフタヌーンティの形に整えられた。
ヴァルトハイム家の領地について、アレクシス様は淀みなく説明していく。
狩猟や毛皮、革製品の加工。どれも名門の跡取りにふさわしい、隙のない知識だった。
エレノアもまた、ローゼンベルク家の令嬢として仕込まれた完璧な教嬢をもって、穏やかに相槌を打つ。
お互いに、一寸の狂いもない模範解答を出し合っている。
隙がない。
迷いもない。
堂々としている。
——強い人だ、とエレノアは思った。
私はこの完璧な人の隣で、守られる側になるのだろう、と。
(それでも私は、私でいると決めている)
——例え、普通の令嬢じゃない私だとしても…。
父同士はお互い面識があったようで、ときどきエレノアの知らない王都の話題になったりしている。父同士が盛り上がってるすきに、アレクシスが紅茶に砂糖を3個入れた。
エレノアは見た。
——夜会で、あの子も甘いものが好きそうだった。
(だめ、集中しないと…)
エレノアはごくりと紅茶を飲んだ。
ローゼンベルク公爵がアレクシスへ話しかけた。
「アレクシス君は、何が趣味なんだい?」
「うちの息子は狩猟が趣味でして」
アレクシスの代わりに、ヴァルトハイム公爵が誇らしげに言う。
「十歳で大きな鹿を仕留めました。大会でも優勝するほどの腕前です」
感嘆の声が上がる。
(違う)
エレノアは思った。夜会で見たあの子は、狩りをする人には見えなかった。
アレクシスを見る。
彼は微笑んでいる。完璧な、模範的な微笑。だがほんの一瞬だけ、その目の奥が、わずかに遠くを見た。
——なんだ?
「愚息ですが、様々なことに長けておりまして。服飾にも詳しいのですよ。婦人服のレースなども」
ヴァルトハイム公爵が、少し茶化すように続ける。 室内に、軽い笑いが広がる。エレノアの母も、くすりと笑った。アレクシスは、やはり微笑む。
「教養の一環として学びました」
綺麗な答え。完璧な外の顔。エレノアは、良家の子女としての完璧な微笑みを崩さないまま、場を促すように言葉を返した。
「まあ、素敵ですね。アレクシス様は、どのようなレースがお好きなのですか?」
歓談を円滑に進めるための、ごくありふれた令嬢の問い。だが、その瞬間。アレクシスの澄んだ青い目が、ほんのわずかに揺れた。
——それは今日初めて見た、作られていない反応な気がした。
「……細い糸で編まれた、透けるようなものが好きです」
わずかに、声が柔らぐ。その声は、磨かれた昼の声ではなく、 ほんの少しだけ、夜の静けさを含んでいた。
——聞いたことがある声だ…でも、どこで?
「遠目にはただの白ですが、近くで見ると、驚くほど緻密で。壊れそうで、でも、簡単には壊れない感じの」
「素敵ですね」
自然にそう言っていた。笑わない。揶揄しない。ただ、肯定する。アレクシスの視線が、真っ直ぐこちらを向く。笑顔が崩れた、一瞬。
無表情だ。
それは夜の静けさに似た、温度を帯びていた。でもすぐに消えてしまって、完璧な婚約者の顔に戻る。
****
会話は滞りなく進み、二時間後、すべては円満に終わった。両家とも満足。未来は安泰。エレノアは立ち上がり、深く礼をする。
「今後ともよろしくお願いいたします」
アレクシスが、澄んだ青い瞳をこちらへ向けた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
エレノアははちみつ色の瞳で見つめ返した。
——これでいい。
私は令嬢だ。
役割を果たせばいい。
****
客人を見送り、屋敷が静まり返ったころ。
エレノアは寝台に横たわり、
天蓋越しにぼんやりと天井を見つめていた。
ふと、思う。
(あの人は、強い)
そう思うと、心がずしりと重くなる。
——少しも嬉しくなかった。
話数を入れ替えました。(2026.6.10)
内容を加筆しました。(2026.6.25)




