第2話 澄んだ青の瞳
——王都にて。
エレノア・フォン・ローゼンベルクは日傘を傾けた。
令嬢らしく歩く。
令嬢らしく微笑む。
令嬢らしく振る舞う。
息苦しいのはいつものことだった。
月に一度、夜に燕尾服を着るときだけ、やっと深く息が吸える。
「……っ」
思わず視線を落とすと、石畳の上に、くっきりとした自分の影が伸びていた。
気づけば、季節は夏へと向かっている。
「大丈夫?」
少し前を歩く母が、振り返って微笑む。
エレノアが日差しを苦手としていることを、よく知っている顔だ。
「……それは、もう耳にたこができるほどです」
そう言うと、むう、と母がわざとらしく頬を膨らませてきた。
今日は贈り物を買うため、二人で繁華街に出ていた。
エレノアの婚約が決まりそうだった。
すぐに顔合わせができるように、と母は菓子を準備したがった。
(決まってからにしたらいいのに…)
そう言ってみたが、「こういうものはトントン拍子に決まるのだから、準備しておくにこしたことはないのよ!」と母は、エレノアの重い腰を引っ張った。
スイーツに詳しくないエレノアとは対照的に、母は買い物が大好きで、一流の令嬢にとってそれは“嗜み”だと思っている。
生ものではなく、日持ちがする菓子を買うのだという。本当なら馬車で済ませるところを、引きこもりがちな娘を案じて歩いて行くことにした。
エレノアは特に異論を唱えなかった。
——夜会に行くため窓から飛び降りる程度には、足腰は鍛えられているのだが。
(知らない人と、結婚なんて)
やれやれ。と、エレノアはガリッと石畳を踏む。
——仕方ない。公爵令嬢に生まれてしまったのだから。
王都の中心は人で溢れていた。
「ここにするわよ!」
母が指さしたのは、今話題の菓子店。
看板を見上げた瞬間、エレノアの脳裏に、夜会の情景がよぎる。
——あの夜。
仮面の下で、並んで食べたケーキ。
「どうしたの?入るわよ」
腕を引かれ、我に返る。
扉を開けると、店内は想像以上の賑わいだった。
棚には色とりどりの菓子。
壁際のソファには、会計待ちの婦人たちが並んでいる。
ふと、新作の札が目に留まった。
(……これ)
先日の夜会で食べたものと、同じだった。
(あの子、すごくおいしそうに食べてたな……)
目を輝かせていた。…生まれて初めて食べたみたいに。
ケーキなんて、誰が食べても同じ顔をすると思っていたのに。
あの子だけは違った。
また来るだろうか。
次の夜会まで、まだ三週間もある。
そんなことを考えている自分に気づいて、エレノアは眉を寄せた。
珍しくエレノアが興味を示しているのに気づき、母が反応する。
「気に入ったのなら、これ買いましょ!」
そして「ほかにも見てくるわ!」と、人混みに消えていく。
ひとり残されたエレノアのもとへ、店員が試食を差し出した。
小さく切り分けられた新作ケーキ。
口に運ぶ。
——おいしい。
以前は甘いものが得意ではなかったはずなのに、
今は、不思議なくらい自然に受け入れられる。
「ローゼンベルク家のエレノア様じゃない?」
「こんなところにいらっしゃるなんて、珍しいわね」
「××家の〇〇様と婚約が進んでいるらしいですわ」
「まあ…」
囁き声が、避けようのない距離で耳に届く。
ここは王都。
視線も、噂も、避けられない。
(××家の〇〇様って誰だよ…)
エレノアは自分も知らないうちに、聞いたこともない人と婚約したことになっているらしい。
やれやれ、とエレノアは人目を避けるように、店の隅へ移動した。
ふう、と壁に寄りかかり、片膝を軽く遊ばせて息を吐く。
——それは無意識の癖だったが、今の彼女は気づかない。
(このドレスを脱ぎ捨てて、ブーツとスーツで歩けたらどんなに楽だろう)
——自由が欲しい。
好きな服を着て、好きな人と、好きに話せる時間が。
先日夜会で会った令嬢のことを、また考えてしまう。
——シン‥‥
店の喧噪が消えていく。
またあの夜のように。
素のままで、笑えたらいいのに。
『無名の夜会』には何年も通ってきた。
行くだけで良かった。
なのに、この間、話しかけられて。
いつもは誰とも離さないのに、話した。
あの人からは自由の気配がしたから…。
「…共犯、だね…」
あの子の笑顔を思い出す。
エレノアは一人、ぽそりと低くつぶやいた。
****
「あら、ここにいたのね!」
母に話しかけられ、エレノアの意識が引き戻される。
戻ってきた母と並び、ソファで会計を待つことになった。
母は試食を羨ましがり、エレノアは小さく笑った。
——そのとき。
ガチャリ、と扉が開いた。
「……アレクシス様だわ」
「素敵……!!!」
店内の空気が、一瞬で熱を帯びる。
フーン、とエレノアは視線を向けた。
王都の話題を独占する次期公爵、アレクシス。社交界に疎いエレノアでも、名前だけは聞いたことがあった。
初めて見た。
彼は淡い色のスーツに、磨きあげられた革靴を履いて。
高い背丈に、美しい金髪。彫刻のように美しい顔。遠目からでもわかる青い瞳は、涼し気なのに、どこか甘い。
(…綺麗な人)
アレクシスの周りには、金の粉が舞っているみたいだ、とエレノアは思った。
そして次の瞬間。
なぜか夜会の「あの子」を思い出した。
——え?なぜ?
エレノアは自分に驚く。
アレクシスと呼ばれた青年は、ゆっくりと店内を見渡す。
店員に声をかけられ、にこやかに礼を言い、試食を受け取った。
そして。
はむ、と一口。
ほんの一瞬だけ。
嬉しそうに、口元が緩んだ。
「すみません」
店員を呼ぶ、低く、静かな声。
カウンターに手を置く仕草。
視線の配り方。
場から一歩、距離を取る立ち方。
背丈も違う。
——男装のときは、私はブーツで誤魔化しているけれど。
装いも、立場も。
なのに、なんで思い出してしまうの?
会計が終わり、母は大量の菓子を抱えていた。
代わりに、エレノアが紙袋を受け取る。
長居は無用だ。
出口へ向かった、そのとき。
「ご令嬢。……忘れ物ですよ」
静かな、けれど胸の奥を直接叩くようなテノールの声。
振り返ると、アレクシスが日傘を差し出していた。
視線が、ぶつかる。
澄んだ青の瞳。 夜会の闇ではなく、昼の光を強く映した色。
一瞬、時間が止まった気がした。
一生かかわることのないと思っていた、有名な人。
「……ありがとうございます」
丁寧に頭を下げ、逃げるように店を出る。
馬車に乗り込み、扉が閉まった後も、あの目の色が網膜に焼き付いて離れなかった。
****
——そしてエレノアは、母の言葉が正しかったと知ることになる。
帰宅すると、父が書斎の前で待ち構えていた。
「おお、エレノア! ちょうどいいところへ。お前の婚約と、顔合わせの日が決まったぞ」
驚く娘に、父は満面の笑みで、重厚な紋章の入った親書を差し出した。
「お相手はアレクシス・ユリウス・ヴァルトハイム殿だ。この国を担う若き逸材。この国で彼を知らぬ者はおらん。お前、なんて幸運なんだ!」
――アレクシス。 その名を聞いた瞬間、エレノアの脳裏に、先ほど店で見かけたあの澄んだ青の瞳が、鮮烈に浮かび上がった。
(あの人が……私の、婚約者!?)
完璧な気遣い。隙のない美貌。甘い笑顔。 社交界の光のなかにいる、誰もが羨む完璧な青年。
けれど、エレノアの胸を激しく揺さぶったのは、そんな輝かしい肩書でも、突然決まった政略結婚への絶望でもなかった。
脳裏に蘇るのは、あの夜会で出会った、ケーキを一口食べて子供のように目を輝かせたあの子。 そして――昼の光の下、アレクシスが試食を口にした瞬間、ほんの一瞬だけ見せた、あの綻ぶような表情。
(……まさか。あり得ない)
性別も、立場も、何もかもが違いすぎる。 似ているはずがない。ただの私の見間違いで、気の迷いに決まっている。
なのに。 否定しようとすればするほど、あの店で重なって見えた感覚が、どうしても胸から消えてくれない。
(どうして……なんで、思い出してしまうの?)
違うと思いたいのに、彼の名を聞いた瞬間、一番に「あの子」を求めてしまう自分がいる。
驚きで固まったまま、エレノアはただ、手の中の親書を強く握りしめていた。




