第2話 澄んだ青の瞳
王都は今日も平和だった。
公爵令嬢 エレノア・フォン・ローゼンベルクが日傘をわずかに傾けると、強い日差しが視界に差し込む。
「……っ」
思わず視線を落とすと、石畳の上に、くっきりとした自分の影が伸びていた。
気づけば、季節は夏へと向かっている。
「大丈夫?」
少し前を歩く母が、振り返って微笑む。
エレノアが日差しを苦手としていることを、よく知っている顔だ。
「はい」
「また夜遅くまで本を読んでいたのでしょう?
そんな生活では、健康で美しい令嬢にはなれませんよ」
「……それは、もう耳にたこができるほどです」
むう、と母がわざとらしく頬を膨らませる。
今日は贈り物を買うため、二人で繁華街に出ていた。
実は、エレノアの婚約話が、近いうちにまとまりそうだった。
いつでも顔合わせができるように、と母は菓子を準備したがった。
(いくら何でも早くない?)
そう言ってみたが、こういうものはトントン拍子に決まるのだから、準備しておくにこしたことはないのよ!
と母は、エレノアの重い腰を引っ張った。
生ものではなく、日持ちがする菓子を買うのだという。
本当なら馬車で済ませるところを、
引きこもりがちな娘を案じて、歩きで行くことにした。
スイーツに詳しくないエレノアとは対照的に、
母は買い物が大好きで、一流の令嬢にとってそれは“嗜み”だと思っている。
王都の中心は、相変わらず人で溢れていた。
「ここにするわよ!」
母が指さしたのは、今話題の菓子店。
看板を見上げた瞬間、エレノアの脳裏に、先日の夜会の情景がよぎる。
——あの夜。
仮面の下で、並んで食べたケーキ。
「どうしたの?入るわよ」
腕を引かれ、我に返る。
扉を開けると、店内は想像以上の賑わいだった。
棚には色とりどりの菓子。
壁際のソファには、会計待ちの婦人たちが並んでいる。
ふと、新作の札が目に留まった。
(……これ)
先日の夜会で食べたものと、同じだ。
(あの子、すごくおいしそうに食べてたな……)
ぽつりと零れた言葉に、母が反応する。
「これ買いましょ!」
即決だった。
そして「ほかにも見てくるわ!」と、人混みに消えていく。
ひとり残されたエレノアのもとへ、店員が試食を差し出した。
小さく切り分けられた新作ケーキ。
口に運ぶ。
——おいしい。
以前は甘いものが得意ではなかったはずなのに、
今は、不思議なくらい自然に受け入れられる。
「ローゼンベルク家のエレノア様じゃない?」
「こんなところにいらっしゃるなんて、珍しいわね」
「××家の〇〇様と婚約が進んでいるらしいですわ」
「まあ…」
囁き声が、避けようのない距離で耳に届く。
やれやれ、とエレノアは人目を避けるように、店の隅へ移動した。
ふう、と息を吐く。
エレノアは自分も知らないうちに、聞いたこともない人と婚約したことになっているらしい。
ここは王都。
視線も、噂も、避けられない。
——このドレスを脱ぎ捨てて、
パンツで歩けたら、どんなに楽だろう。
そして、あの夜のように。
素のままで、笑えたなら。
「あら、ここにいたのね」
戻ってきた母と並び、ソファで会計を待つ。
母は試食を羨ましがり、エレノアは小さく笑った。
そのとき。
ガチャリ、と扉が開いた。
「……アレクシス様だわ」
「素敵……」
空気が、わずかにざわつく。
フーン、とエレノアは視線を向けた。
背筋の通った青年。
淡い色のスーツに、磨き込まれた靴。
整った容姿は、確かに目を引く。
——社交界で、名前だけは聞いたことがある。
アレクシスと呼ばれた青年は、ゆっくりと店内を見渡す。
店員に声をかけられ、にこやかに礼を言い、試食を受け取った。
そして。
はむ、と一口。
ほんの一瞬だけ。
嬉しそうに、口元が緩んだ。
(……え?)
その表情を、エレノアは知っている気がした。
——そんなはずはないのに。
「すみません」
店員を呼ぶ、低く、静かな声。
——今の声。
胸の奥が、わずかにざわつく。
カウンターに手を置く仕草。
視線の配り方。
場から一歩、距離を取る立ち方。
夜会の、あの子。
——そんなはず、ない。
背丈も違う。——男装のときは、私はブーツで誤魔化しているけれど。
装いも、立場も。
なのに、なんで思い出しちゃうの?
会計が終わり、母は大量の菓子を抱えていた。
代わりに、エレノアが紙袋を受け取る。
長居は無用だ。
出口へ向かった、そのとき。
「お嬢さん。……忘れ物です」
静かな声。
振り返ると、アレクシスが、日傘を差し出していた。
——しまった。
ソファに座ったまま置き忘れていた。
視線が、ぶつかる。
澄んだ青の瞳。
夜会の闇ではなく、昼の光を映した色。
一瞬、時間が止まった気がした。
「……ありがとうございます」
丁寧に頭を下げ、店を出る。
——なんて、美しい目。
馬車に乗り込み、扉が閉まる。
胸の奥に、まだ残る、あの感覚。
違う。
あの子は、夜の世界の人。
……なのに。
どうして、こんなにも考えてしまうのだろう。
——そしてエレノアは、母の言葉が正しかったと知ることになる。
家では父が、婚約の知らせを持って、二人の帰宅を待っていたのだった。
その相手の名を聞いた瞬間、 エレノアの頭に、あの澄んだ青の瞳が浮かんだ。




