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第1話 日常が変わる音

男の服を着ているときだけ、呼吸が深くなる。


胸を締めつけるコルセットも、貼りついた笑顔も、「令嬢らしく」という正解も——

今夜はすべて、置いてきた。


鏡の前で、燕尾服の襟を整える。

解いたままの髪が肩に落ちる。

染めていない本来の色は、灯りの下で淡く銀に光っていた。

片側だけ、細く編み込んだ束を後ろへ流す。


顔の上半分が隠れるように白い仮面をつける。


似合ってる、と自画自賛した。


そこに映るのは、社交界の誰も知らない“私”だった。


それでいい。むしろ、この夜だけは——それでなければならない。


令嬢が男装して夜会に出入りしているなど、知られれば即刻破滅だ。


それでも、来るのをやめられなかった。


月に一度だけ開かれる夜会がある。

身分も名前も伏せ、皆ここでは嘘をつく。

場所も毎回変わり、招待状がなければ入れない特別な会。

『無名の夜会』だ。


この場所に来る参加者は、素性を隠し

身分を偽り、一晩の夢を楽しんでいる。


…もしかしたら、不倫関係にある人もいるのかもしれない。


けれど私は、この場所でだけ、

自分に嘘をつかずにいられた。


ここでは、

私は「どう生きるべきか」を問われない。

「何者であるべきか」を演じなくていい。


ただ、ここに立っているだけでいい。


昼間の私は「完璧な公爵令嬢」だから。


今はただの「青年」。



日付が変わり、月がてっぺんを越えた時刻。


入口には、今夜も紫色のランタンが灯されていた。


ここで合っている。


入口に立つ黒装束の男がこちらを確認し、静かにうなずいた。



音楽が流れ、

グラスが触れ合い、

仮面越しの視線が、静かに行き交う。


私は壁際でグラスを傾け、

必要以上に誰とも関わらないようにしていた。


友人を作りたいわけじゃない。

普段から、友人はほとんどいない。

今さら増やすつもりもなかった。


——それなのに。




会場の奥が、わずかにざわめいているのに気づく。


視線の先にいたのは、

初めて見る一人の人物だった。


彼女の周囲には、すでに何人かの男性がいた。

声をかけられ、微笑み、礼を返す。

どれも、完璧な所作だった。


けれど、会話は長くは続いていないようだ。

彼女は一歩踏み込まれる前に、

自然な距離を保っていた。


その視線が、ふとこちらを向く。


仮面越しに、目が合った。




次の瞬間、彼女は他の誰でもなく、私のほうへ歩いてきた。




淡い色のドレス。

控えめな微笑み。

誰がどう見ても、非の打ちどころのない令嬢。


(……あの人、かわいいな)


ただ、目が離れなかった。


歩き方。

背筋の伸ばし方。

視線を向けられたときの、ほんの一拍の間。


作られた仕草のはずなのに、

不自然さがなかった。

完璧な令嬢のしぐさだ。



人は嘘をつくとき、どこかに必ず、逃げ道を残すものだ。


けれど彼女には、

そういう隙が見当たらなかった。



目の前に来た彼女の表情が一瞬だけ硬くなり、

すぐに、わずかに息を吐いたのが分かった。



私の胸の奥にあったざらつきが、静かに引いた。




言葉は交わしていない。

それでも、視線が離れなかった。


——私たちは、嘘をつく夜会の中で、素の自分でここに立っている。



そんな空気だけが、不思議と伝わってきた。


ここは嘘をつくための場所のはずなのに…。


「……夜会は、よく来られるのですか?」


"彼女"のほうから、声をかけてきた。


柔らかく、静かな声。

高すぎも、低すぎもしない。


「はい」


それだけ答える。





嘘の中にいながら、嘘を重ねなくていい。


そんな感覚は初めてだった。


言葉を増やさなくても、

時間が進んでいく。




私はまだ知らない。

彼女の名前も、身分も、その仮面の下にある現実も。


ただ、この夜のことを、きっと簡単には忘れない。そんな予感がした。


「甘いものは、お好きですか?」


今度は、こちらから声をかけた。


相手は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、

それから小さく頷く。


「あちらに、美味しそうなケーキがあるのですが。

ご一緒にいかがですか?」


街で人気のスイーツ店<エチュール>の新作らしい、と囁くと、

仮面の奥で、彼女の瞳がわずかに輝いた。


この夜会では毎回何かしらの催しがされており、今回はスイーツの試食会なのだ。

もちろん店の名前は秘密なのだけど…


(私も詳しくはないが、参加者が話してるのが聞こえた。というのは言わないでおく)


「……はい。ぜひ、食べたいです」


彼女がひっそりと、でも力強く答える。

その答えが嬉しくて、気づけば自然と左腕を差し出していた。彼女は迷うことなく、その腕を取る。


二人でホールの奥へ向かう間、言葉は多くなかった。それでも、沈黙は重くならない。


この夜会は、すべてが秘密だ。

主催者も、出資者も、来賓の身分も伏せられている。


ここで許されているのは、

嘘。

秘密。

そして、名前を持たない関係である。


ウェイターが二人分のケーキを取り分ける。


私は甘いものを、好んで口にすることはほとんどない。


(……甘そうだな)


そう思いながら、横を見る。


彼女が、一口。

次の瞬間、頬がふわりと緩み、

思わず、というように微笑んだ。


——ああ。


それだけで、十分だった。


社交界が求める理想と、

自分で選びたい生き方の、その狭間。


————

—————————

——————————————————



「また」


そう短く言って、彼女は帰っていった。


私は何も言わずに見送った。


会場を後にすると、遠くの空が明るくなってきていた。


——この人ともし、また会えたなら。

——もし、また言葉を交わせたなら。



この夜から始まったものには、

きっと条件がある。


誰にもばれないこと。

互いの“役割”を壊さないこと。

そして——


本当の自分を、手放さないこと。


出会ったばかりなのに、

なぜか、そんな気がしていた。


——そして翌朝、父から呼び出しの声がかかった。


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