第1話 プロローグ/日常が変わる音
『無名の夜会』には、三つのルールがある。
名前を聞かないこと。
身分を明かさないこと。
そして――昼の自分を持ち込まないこと。
月に一度だけ、紫のランタンが灯る夜。
そこでは誰もが別人になる。
群青の燕尾服を纏った青年が、壁際に立っている。
白い仮面。
月光を溶かしたような銀髪。
会場の誰もが、その姿を目で追う。
けれど誰も気軽には近づけない。
男か、女か。
そんな疑問すら無意味なほど、その存在は美しかった。
彼は月に一度だけ、この夜会に現れる。
誰も名前も身分も知らない。
そして彼自身もまた、誰にも知られたくなかった。
なぜなら、その正体は――
公爵令嬢エレノア・フォン・ローゼンベルク。
社交界では「完璧な令嬢」と呼ばれる少女だったからだ。
****
ある、満月の夜。
公爵令息アレクシス・ユリウス・ヴァルトハイムは、その震える脚で、
すがるように古い洋館の前に立ち尽くしていた。
そこには紫のランタンがかかっていた。
金色のウィッグ。ピンクの仮面。
淡いレースのドレスを着て。
夜の闇は、アレクシスの男の体格をうまく隠してくれる。
(ただの背の高い令嬢、に見えるはずだ)
自分以外の誰かになりたかった。
男でも女でもいい。
公爵家の跡取りでもなく。
完璧な王子でもなく。
ただ。
自分を知らない誰かになれれば、それでよかった。
公爵令息アレクシス・ユリウス・ヴァルトハイムには、誰にも言えない秘密があった。
可愛いものが好きなのだ。
七歳の頃。
母のドレスの裾についた白いレースを、綺麗だと思った。
指先でそっと撫でる。
柔らかかった。
だが次の瞬間。
父がその手を払いのけた。
「男が、そのようなものに興味を持つな」
その日から。
可愛いと思う気持ちは隠すものになった。
人形も、ぬいぐるみも、絵も。
公爵家の跡取りに求められるのは、強さと結果だけ。
「男が、そのような軟弱なものを好むな」
幼い頃から何度も聞かされた言葉だ。
だから隠した。
好きなものも。
興味も。
憧れも。
全部。
——僕には許されない。
完璧な息子でいれば、父は満足する。
そして、社会から完璧な次期公爵と見られるためなら。
ーー自分の本心は、誰にも、もう見せない。
どんなに息苦しくても、それでいいと思っていた。
美しい金髪、澄んだ青い目。高い背丈。
名門貴族の、次期公爵。
誰もが振り返る美貌と権力を持つ裏で、彼が息を殺して二十四年たったある日。
光がさした。
ーー秘密の夜会があると知った。
そこでは誰もが名を伏せ、仮面をつけ、なりたい自分になるという。
偶然耳にした貴族たちの会話。
いつものくだらない噂なら、聞き流していた。
——行ってみたい。
そう思った瞬間、自分でも驚いた。
こんなふうに何かを欲しいと思ったのは、いつぶりだろう。
誰にも知られないように調べた。
しかし非公式の秘密の会だけあって情報は少ない。
わかったのは一つだけ。
紫色のランタン。
それが目印だということ。
(でも、絶対ここだ)
夜も更けた頃。
王都の街はずれの洋館に、小さな紫の灯りが揺れていた。
不安がよぎる。
——大丈夫。
男だとバレたとしても。
誰も僕が、あのアレクシス・ユリウス・ヴァルトハイムだとは気づかない。
誰もが知る公爵家の跡取り。
社交界では完璧な王子と呼ばれている。
まさかその本人が女装して夜会に来ているなど、誰も想像しないだろう。
門番が頷いた。重い扉が開く。
アレクシスはゆっくりと足を進めた。
甘い香り。
音楽。
グラスの音。
仮面をつけた人々。
予想していたよりも賑やかだった。
(後ろ暗い、退廃的な場所を想像していたが……存外、賑やかなのだな)
緊張がとける。
しかし、それはたった一瞬だった。
「そのドレス、珍しい色ですね」
「こういう夜会は初めてですか?」
「どなたかお探しで?」
次々に話しかけられる。
言葉は丁寧で柔らかい。だが、視線は違う。
ーー僕自身ではない。
僕が何者か。
どんな価値を持つのか。
何家の令嬢なのか。
何をもたらしてくれるのか。
そんなものばかり見ている感じがする。
——やっぱり同じだ。
仮面をつけても変わらない。
ここもまた社交界の延長だったのか…。
ガッカリしたとき、ある青年が目に入った。
壁にもたれたまま、その人は誰とも話していなかった。
孤立しているのに堂々とした姿。
(……あ)
目が離せなかった。
その一瞬で、アレクシスは感じとった。
目が離せなかった。
孤独に慣れた人間には、わかる。
同じ匂いがした。
夜会の喧騒が遠のいた。
ただ、その人だけが見えた。
気づけば足が動いていた。
夜の闇に浮かび上がる彼の横顔は、彫刻のように整っていた。
ただ、綺麗だと思った。
目を逸らせないほどに。
胸の奥がじりじりと熱を持つ。
こんな感覚は初めてだった。
(……綺麗だ)
近くで見た瞬間、息が止まった。
月光を溶かしたような銀髪。
白い仮面。
作り物めいたほど整った横顔。
男とも女ともつかない、中性的な美しさ。
アレクシスはしばらく言葉を忘れた。
彼の立ち方。
視線。
息遣い。
わかる。
——この人も自分を隠している。
「……夜会は、よく来られるのですか?」
声音を整えて、アレクシスは彼に話しかけた。
「はい」
ベルベットを思わせる、低い美しい声だった。
はい。の二文字。
なのに、アレクシスは不思議とひどく安心した。
彼はこちらを見る。
鷹のような、美しい琥珀色の目を、じっとこちらへ向けた。
そして、少しして、今度は彼から話しかけてきた。
「甘いものは、お好きですか?
あちらに、美味しそうなケーキがあるのですが。ご一緒にいかがですか?」
ケーキ。
昼間は食べられない。
ーー男らしくないから。
そうよぎって、一瞬だけ迷う。
すると彼は少し身を寄せた。
「人気菓子店の新作らしいですよ」
その声と、彼の気遣いに、思わず頷いていた。
彼は自然に腕を差し出す。
エスコートされながら歩く。
並ぶと、彼は僕より少し背が低かった。
けれど不思議だった。
誰よりも頼もしく見えた。
揺れる銀髪。
白い仮面。
——この人はいったい何なんだ。
テーブルに並んだ、たくさんのケーキ。
彼が、アレクシスの分までよそってくれる。
皿をもらい、ケーキを一口食べる。
アレクシスは、おいしくて、思わず目を見開く。
顔を上げると。
――あまりの顔の近さに、息が止まった。
彼は、僕のすぐ目の前にいた。
普通の紳士なら、初対面の相手に絶対に踏み込まない、唇が触れ合いそうなほどのゼロ距離。
隙間のないパーソナルスペース。
けれど彼は照れるでもなく、下心を滲ませるでもなく、ただ当然のようにその位置から、僕を覗き込んできた。
白い仮面の奥にある琥珀色の瞳が、僕の唇の動きを、表情のすべてを、淡々と静かに観察している。
心臓が、不快なほどにドクンと跳ねた。
(近い……! なんだ、この人は。マナーも羞恥心も、この人には存在しないのか?)
気圧されて一歩引きそうになる僕の動揺など、初めから計算に入っていないかのように、
彼はふっと目を細めて微笑んだ。 笑うと目が細くなる人だった。
「好きなだけ食べましょう」
優しく彼は言った。
「足りなければ、また頼みましょう」
当たり前の言葉だった。
でもアレクシスにとっては違った。
——好きなものを好きなだけ食べていい。
そんなことを言われたのは、
生まれて初めてだった。
アレクシスはぽつりとつぶやく。
「…何か、こっそり、悪いことをしているみたい」
——いや、何を言っているんだ僕は…!
思わず、仮面の下でアレクシスは赤面した。
しかし、白い仮面の彼はくすりと微笑み、さらに一歩、僕との境界線を無くすように滑り込んでくる。
「じゃあ、共犯だね」
そう低く甘い声で言って、彼は自分の分を少しだけ食べた。
評価するためじゃない。
探るためでもない。
ただ僕を見ている。
そんな目を向けられたことがなかった。
それなのに、僕が美味しそうに食べるのを見ている。
胸の奥が温かくなる。
ここなら息ができる。
——いや。
この人の隣なら。
人生で初めて、ただ誰かと一緒にいることが心地よかった。
****
夜が深くなる。
別れの時間が近づいていた。
「また」とだけ言って、アレクシスは会場を出た。
もっと気の利いたことを言いたかった。
けれど彼は何も言わず、ただ静かに見送ってくれた。
名前も知らない。
顔も知らない。
それでも、彼にまた会いたいと思った。
生まれて初めて誰かに会いたいと思った。
帰り道。もうすぐ朝がくる。
白み始めた空を見上げる。
月光を溶かしたような銀髪。
琥珀色の瞳が、目に焼き付いて消えない。
——その時の僕はまだ知らない。
あの銀髪の青年が。
数日後、
僕の婚約者になることを。
****
「お前の婚約者が決まった」
父、エドワードが言った。
アレクシスは書類を受け取る。
興味はない。
どうせ政略結婚だ。
名前を見る。
——エレノア・フォン・ローゼンベルク
ローゼンベルク家。
アレクシスは少し目を見開いた。王国屈指の名門だ。
書類に添えられた肖像画を見る。
整った顔立ち。
美しい紫の髪。
誰もが称賛する令嬢なのだろう。
社交界によく顔を出すアレクシスだが、エレノアのことは見たことがない。
それにしても、何も感じなかった。
紙の上の美人画にしか見えない。
「承知しました。ローゼンベルク家なら利点も多いですね」
「顔合わせの日程はすでに打診している。向こうの返事待ちだ。準備をしておけ」
「承知しました」
アレクシスは書類を閉じた。
興味はない。
どうせ政略結婚だ。
婚約者の名前だけ覚えておけば十分だった。
公爵を継ぐものとして、結婚して、子供を作って。
…自分の意志など、関係ないのだから。
帰りの馬車で、アレクシスは膝の上の書類に視線を落とした。
エレノア・フォン・ローゼンベルク。
王国屈指の名門。
誰もが羨む婚約話だ。
それなのに。
頭に浮かぶのは肖像画の令嬢ではなかった。
先日の夜会で見た、ケーキを食べながら笑った顔だった。
——「じゃあ、共犯だね」
低く甘い声。
また、会えるだろうか。
ふいに。
言葉が胸の奥から零れた。
「……婚約者があの人だったらよかったのに」
(僕と共犯になって)
その瞬間、アレクシスは息を止めた。
――いや、僕は、何を考えている!?
型にはまる女性らしさに悩むすべての方へ…そんなきっかけで考えた物語です。
楽しんでもらえたらうれしいです!次回はもう一人の主人公が登場します。




