第76話 古い箱と引き出しの奥
ユノには腕のことは隠せないので、怪我をしたとだけ簡単に伝えることにした。
幸い、時間の経過とともに痣は広がり、人間に強く掴まれた痕だとは、言われなければわからない状態になってきた。 痣を見たユノは、真っ青な顔で倒れそうになっていた。
実はその上からアレクシスの愛の痕がついているとは、流石に言えない。
あのときの彼の瞳。暗く沈んだ、熱を孕んだ青。
痣に口づけながら、男の痕跡を削ぎ落とすように“上書き”してくれた指先と唇。
——ノアに触れていいのは、僕だけ。
耳元で何度も囁かれた、低い声。 離したくないとすがりつくような腕の強さ。 思い出した瞬間、エレノアの顔に一気に熱が上り、身体の奥がじんわりと熱くなった。 が、心の奥底では冷えたものがくすぶっていた。
「早く治るといいですね。痛むようならすぐに仰ってください」
「ありがとう、ユノ。心配せさせてごめんね」
ユノが手際よく包帯を巻いてくれる。
もう痛みもほぼないけれど、少し目立つので隠しておきたい。
痣を見るたびに自分を責めるアレクシスのためにも。
「…元気を出してくださいね、お嬢様」
そう言って、ユノは部屋を出ていった。
エレノアはしばらくそのドアを見つめていた。
一人になると、夜会で自分の腕を力任せに掴んだ、あの男の影が脳裏をよぎる。
あまりにもアレクシスが優しく丁寧に扱ってくれるから、忘れていた。 ——男性という生き物の、圧倒的で抗えない力強さを。 いや、初めて知ったかもしれない。
仮面越しに見えた、あの紫の瞳。
エレノアは何度も何度も、あの夜から考えていた。見たことのある瞳だと感じた。
まさか…オスカーだった?
もしそうだとしたら、あまりにも恐ろしい。ただ参加していただけなのか?何か、自分たちが調べていることと関係があるのだろうか。
初雪が積もった雪原を踏み荒らされたような、調和のとれた音色の演奏の中で酔っ払いがふざけて叫んだ時のような。アレクシスと出会った大事な思い出を汚された最悪な気分だった。
しかし、彼が王都の社交界だけでなく、あの自由な夜会にまで暗い影を落とし始めているとしたら。 エレノアは窓辺から外の景色を眺めながら、壁にもたれる。
ローゼンベルク嬢、とあいつが言った気がする。
(まさか、ノアの正体がわかった?なぜ?)
気のせいだっただろうか。しかし…。そう思った途端、気持ちがまたぐらりと揺れる。振り解けなかった自分の弱さと無力さが、悔しかった。 エレノアは包帯の上から腕にそっと触れる。触れるたびに、恐怖と胸糞の悪さと、アレクシスに救われた記憶が交差する。
(自分は結局、守られるだけの存在)
アレクシスは危険だと言ってくれていた。なのに自分が行くと言ったから、彼にあんな顔をさせてしまった。
腕を掴んできた男のことと、反省の気持ちが、エレノアの心をずっしりと重くしていた。
(…自分の力の無さに、腹が立つ)
ため息を吐き出し、机の前に座る。なんとか頭を整理したかった。
何が起こったのかをメモしておくのがいいかもしれない。書いているうちに気持ちも落ち着いて、次に自分が何をすべきかわかるかもしれない。
今まで日記など書いてこなかったエレノアだったが、起きたことや、考えたこと、気持ちなどを書いてみることにした。
エレノアは机の引き出しに手をかけた。
何か使えるものはあっただろうか、と奥へと手を滑らせる。
その時。
指先が、奥の硬い何かに触れた。
(……え? こんな奥に、何かあった?)
奥に押し込まれるように置かれていたのは、薄い木箱だった。 表面にはうっすらと埃が積もっており、最近触れられた形跡はない。
(……何これ…古いけれど…)
エレノアは慎重に箱を取り出し、蓋を開けた。
中に入っていたのは、黄ばんだ古い資料の束。 そして、その下に静かに納められた小さな日記だった。
資料は紙質から見ても、かなり年代が古いものだとわかる。 一枚手に取り、エレノアは息を呑んだ。
精巧に描かれた、仮面の絵。 どくり、と心臓が強く跳ねる。
吸い寄せられるように視線を落とした先には、流麗な文字でこう記されていた。
『私の考える理想の夜会――無名の夜会についての構想』
「……え……?」
そこには、仮面の意匠。
ランタンの配置。
開催場所についての案。
細かなメモや図案が、隙間なく書き込まれていた。
勝手に見てはいけない品かもしれない。 そう思うのに、ページをめくる指が止められない。
日記を手に取り、裏表紙に刻まれた名前に目をとめた瞬間、エレノアは完全に息を止めた。
『キミ・ライオネル・ヴァルトハイム』
——この名前、聞き覚えがある。
「リィのお祖母様の名前だ……」
思考が追いつかない。けれど、胸の奥が激しく脈打っている。
(リィに、伝えなきゃ……!)
資料と日記を胸に抱きかかえ、エレノアは部屋を飛び出した。
*****
「……祖母が」
アレクシスは資料を見つめたまま、微動だにしない。 燭台の光が、彼の美しい横顔を静かに照らしていた。
「確かに……これは祖母の名前です」
アレクシスは低い声で呟いた。 さっきまで暗く沈んでいた青い瞳に、困惑と、静かな光が戻ってくる。
「僕も……こんなものは初めて見ます」
ページをめくる指が、途中で止まる。 美しい仮面のスケッチ。手描き特有のインクだまり。真剣な情熱をもって描かれたことが、ひと目でわかる筆致。
(これを……おばあ様が描いたというのか……?)
アレクシスはしばらく、そこから目が離せなかった。
幼い頃の記憶を探る。
幼い頃に亡くなった祖母の顔は、もうぼんやりとしか思い出せない。ただ「優しかった」という温かい感触だけが残っている。
絵を見ていると、胸の奥が妙に騒いだ。
理由はわからない。 でも、目が離せなかった。
「…リィが描くスケッチに、なんだか似ているね」
そう、呟いたエレノアの声がいつもより深く優しくて。アレクシスがゆっくりと顔を上げた。
確かに似ていた。細部の描き方や、傾き方、配置が、なんだか見たことあるような気がしていた。
「……ギルバートに、聞いてみましょう」
アレクシスは立ち上がり、エレノアの手を握った。思った以上に強い力に、エレノアは小さく目を瞬かせる。
祖母のことを、もっと知りたい。 そして、この愛おしい婚約者が導いてくれた真実に、手を伸ばしたい。
****
ギルバートは扉を開け、二人を見て目を丸くした。アレクシスは何も言わず、ただ資料を差し出した。
ギルバートは紙へ視線を落とし――そのまま、固まった。 眼鏡の奥の目が細められる。
「……これは…」
かすれた、低い声。 ギルバートは壊れ物を扱うように、ゆっくりと黄ばんだ紙の端に触れた。大切な記憶を確かめるように、指先を震わせる。
「キミ様の……字です」
その一言に、アレクシスの喉がひくりと鳴った。
「これを、どこで?」
「私の部屋です。机の奥に……」
エレノアが答えると、ギルバートは不意に、とても穏やかに目を細めて微笑んだ。
「そうでしたか」
まるで――長年迷子になっていた大切なものが、ようやくあるべき人の元へ見つけ出されたのを祝福するような顔だった。
「実に懐かしいですな……」
「ギルバート……知っているのか。これが、何なのかを」
ギルバートはゆっくりと顔を上げると、二人を見つめた。
「……どうぞ、お掛けになってください」
三人は静かに机を囲んだ。 ギルバートは資料を慈しむように撫でながら、しばらく思いを馳せるように黙っていた。 どこから語るべきか、思い出の重みを確かめるように。
本日もお読みいただきありがとうございました。
次回、夜会とキミの謎が明かされます。
11/2(月)公開予定です。




