第77話 名前を脱いで笑える場所
アレクシスは少し間を置いた。
「ギルバートが知ってることを教えて欲しい」
ギルバートの目が、柔らかくなった。
揺れるランプの温かい光が、黄ばんだ紙に描かれたランタンのスケッチを柔らかく照らし出す。まるで何十年も前の祖母の情熱が、今この部屋で静かに息を吹き返したかのように。
「そうですな」
ギルバートは、低い声で、ゆっくりと話し出す。
「...私は15才よりずっとヴァルトハイム家に仕えて参りました。
キミ様が結婚されてヴァルトハイム家にいらしてからは、少しずつ関わらせていただくようになり、お亡くなりになるまで仕えせていただきました。
キミ様は、自由な方でした。ですから…この屋敷で、息ができないでいらっしゃったのだと思います。
ヴァルトハイムだから。 公爵夫人だから。 女性だから。 ……そういう言葉が、奥様はお嫌いだったのだと思います」
初めはキラキラとした光が、ギルバートの目の中に見えた。抑えきれない懐かしさ。しかしだんだんと、その光は消えてしまった。
ギルバートの話を聞きながら、エレノアは無意識に、自分の腕を押さえていた。
「ある日、奥様がこっそりと私に、いいことを考えた、と言い出して」
黄ばんだ紙をそっと指先でなぞる。
「それが、始まりでした。ここに書かれている内容です」
ギルバートは顔を上げた。
懐かしむような、それでいてどこか痛みを含んだ目をしていた。
「……夜会と言うのは?」
アレクシスが静かに尋ねる。
ギルバートは深く頷いた。そして、ゆっくりと口を開く。
「夜会の話をしている時は、キミ様は本当に楽しそうでしてな。変わった夜会をやりたいと仰るのです」
そう言うギルバートもまた、どこか嬉しそうだ。仮面の絵をまた指先でなぞる。
「構想を考えておられる時など、まるで少女のようでした」
懐かしそうに目を細める。
「毎回場所を変えたらおもしろいだろうと。仮面をつければ、誰でも自由になれると…」
アレクシスは黙って聞いていた。
「奥様はよく、こう仰っていました。『名前も家柄も関係なく、ただ好きなものを自由に語れる場所が欲しい』」
あまりにも、その言葉は話を聞いていた二人の胸を射抜いた。あの日、ドレスとウィッグを被り屋敷を抜け出したアレクシス。ただ息を深く吸いたかったエレノア。
資料の力強く、けれどどこか楽しげに躍る手描きの文字。紙の端に残った小さなインクの染みすら、当時の彼女の胸の高鳴りを物語っているようだった。
「社交界では皆、肩書きでしか話をしないものです。キミ様にはご友人と呼べる方がいらっしゃいませんでした」
その声は穏やかなのに、どこか重かった。
「それに奥様は……役割を押し付けられることが、お嫌いな方でしたので」
ひとつひとつ、確かめるように静かに続けた。
「女性だから。公爵夫人だから。ヴァルトハイムだから。そういう言葉で、奥様が少しずつ何も話せなくなっていく様を、私は見ていることしかできなかったのです」
アレクシスの指先が、資料の上で静かに止まった。
ギルバートは仮面の絵を見つめたまま、ふっと笑った。
「でも、私に夜会の構想を話してくださっている時だけは、……本当に、楽しそうでした」
****
しばらく、三人は黙っていた。
ランタンの絵。 仮面。 古い紙に残された筆跡。
アレクシスは資料を見つめたまま、動かなかった。
祖母の話を、彼はほとんど知らない。幼い頃に亡くなったからだ。...いや、誰も祖母の話をしなかったから。父や母から、祖母の話を聞いた事はない。
もちろん実家には肖像画はある。
知っているのは、今住んでるこの屋敷は、祖母が晩年に建てて住んでいた屋敷だということ。庭の隅に立つ桜の木は、祖母が植えたということ。
『あなたはそのままで十分美しいのよ』そう言ってくれた優しい響き。
だからこそアレクシスは、朧気に覚えている祖母の気配を"そういうものだ"と思い、それ以上誰かに聞こうと思ったこともなかった。
けれど無意識に、彼なりに大切にしていた感覚だった。
けれど今。 古い紙に残る筆跡を見ていると、まるで今、祖母の声を聞いた気がする。
胸の奥が、妙に騒いでいる。
やがてギルバートが、穏やかに目を細めた。
「奥様は、とても自由な方でした」
そして、どこか優しく微笑んだ。
「……なんだか、エレノア様に似ていらっしゃると、私は思っていますよ」
エレノアは顔を上げた。
ギルバートは静かに頷いた。
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二人は部屋に戻り、しばらく何も話せなかった。
「私は……夜会は、友達が誘ってくれたのがきっかけで」
エレノアは昔のことを思い出す。初めて話す夜会のきっかけ。アレクシスは興味深く、しかし優しい目でエレノアを見つめた。
「キミ様のおかげで、私、生きてこれたのですね」
夜会に惹かれるのは、必然だった。
「私、夜会に行けてよかった」
アレクシスは、しばらく日記を見つめていた。
古い紙を撫でる指先が、どこか優しい。
「……僕もだ」
静かな声だった。
「ノアに、会えたから」
そして、言おうか迷って、「実は」と笑う。
「祖母は、僕のことをユリィって呼んでいました」
え、とエレノアが驚く。
「ほんとうに、驚きました。まさか、あなたにリィとあだ名をつけられるとは……」
そう言って少年のように少し照れくさそうに笑う彼の顔は、完璧な公爵令息ではなく、ただのひとりの愛おしい男性だった。
名前を脱ぎ捨てて『リィ』と呼んだあの日。自分たちは会うべくして出会い、惹かれ合うべくして惹かれ合ったのだと、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「そう、だったんだ」
そう言うのがせいいっぱいで。
エレノアが寄り添う。
「……」
エレノアが顔を上げる。 彼が何か言った気がしたが、聞こえなかった。
ただいつもの穏やかな青い瞳が、ひどく冷えていた。
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数日後。
貴婦人たちが扇の陰でヒソヒソと囁き合う、王都の華やかなサロンにて。
その喧騒から離れた影で、紫の瞳を怪しく光らせる男が、ワイングラスを傾けて冷ややかに微笑んでいた。
――彼らの『聖域』を泥で汚し、完璧な公爵のメッキを剥ぎ取るための、卑劣な罠が静かに動き出していた。
社交界に、奇妙な噂が広がり始めた。
仮面をつけ、名前を隠し、夜な夜な貴族たちが集まる秘密の夜会がある、と。
そこでは身分も性別も偽られる。
退廃的で、危険な遊び場なのだ、と。
そして——その夜会には、大物の貴族が関わっている。
そんな囁きまで、流れ始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回、R15回です!苦手な方はご注意下さい!!更新は11/6(金)予定です。お楽しみに!




