第75話 君に選ばれるための痛みを
アレクシスとエレノアは、ノアの腕の傷に気づいた後、隠れ家へ急いで帰った。部屋に滑り込んだ後、しばらく息も絶え絶えに抱き合うことしかできなかった。
何かあるかもしれない、と危惧していたことが実際に起こってしまった。普段の仕事では冷徹で理性的に、社交界では優しく細められていたアレクシスの瞳が、エレノアに迫る脅威を目の前にしてどす黒く濁っていた。
アレクシスの動揺を察したエレノアは、彼の背をあやすように優しく撫でる。ジャケットを脱いで、もう一度腕を見た。うっ血した白い肌には、くっきりと男の指の形に沿った、禍々しい紫色の痣が浮かび上がっていた。
それを見たアレクシスの喉が、「ひゅっ」と音をたてる。
「大丈夫」
エレノアは彼をなだめるように言って。「とりあえず水で冷やそう」と濡らした布を用意する。アレクシスはその様子をただ血の気の引いた顔で見つめたまま、立ち尽くしている。指先で痣に触れようとして、途中で止まる。触れるのすら怖い。
——夜会なんかに来なければ
——違う場所にいれば
——僕ひとりで参加すれば
そんな後悔がアレクシスの中で渦をまいていた。
ノアが掴まれているのを見たとき、彼の顔から表情が消えた。全身の血の気が引き、考えるよりも先に体が動いていた。
彼女の細い腕に残る、汚らわしい男の指の痕。
おぞましくて、頭がどうにかなってしまいそうだ。
脳裏に浮かぶのは、あの不快な紫の瞳。アレクシスは奥歯を噛み締めた。
震える手で布を押し当て、エレノアの腕を冷やす。 エレノアは何かを考えるようにしばらく腕を見ていたが、少しして彼の張り詰めた服の胸元を、甘えるようにぎゅっと掴んだ。
「……そばにいて、リィ」
エレノアには、今のアレクシスにそうさせることが一番いいのだとわかっていた。
アレクシスは耐えかねたように、 ノアをかき抱く。怖かったでしょう、と必死にその存在を確かめるように抱きしめた。
「…やっぱり、やめておけばよかった」
そう言うアレクシスの声がひどく掠れる。
胸の奥が、ひどく痛い。
ノアをかばった時。あの瞬間、ノアが自分を掴んだ指先の感触が蘇る。
震えていたのは、彼女ではない。
自分だ。
彼女はあの男に触られた。その事実が、 喉の奥に鉛のように沈む。
許せない。
いや——違う。
本当に許せないのは、隣にいながらそれを行わせた“自分”だ。
しばらく冷やした後、エレノアは手を広げたり握ったりして「大丈夫そうだ」と腕を確認する。
寝台に座りながら、エレノアが細い腕を差し出すと、アレクシスはまだ震える手で包帯代わりの布を巻いていく。
いつもはクスリと笑って手伝うエレノアも、今回は何も言わず、ただ彼の手元を見つめていた。きゅ、と静かに結び目を作る。
「ありがとう」
エレノアが、アレクシスの首に手を回した。
「抱きしめて」
アレクシスはそっと、その華奢な身体を強く抱きしめ返した。 エレノアも彼に全体重を預け、疲れたように目を瞑る。 彼の鼓動と安心する香り、温かな体温に、すとんと眠りに落ちた。
もう少しすれば、迎えの馬車が来る。アレクシスはエレノアを抱きしめたまま、暗闇の中でずっと目を開けていた。
『……そばにいて』
彼女の声が離れない。
怖かったはずだ。傷ついたのは彼女だ。本当なら、自分は彼女を守れなかったことだけを悔いるべきなのに。
なのにあの言葉を思い出すたび、胸の奥が醜く熱くなる。自分を求める声に、どうしようもなく救われている自分がいる。そんな自分がおぞましい。
守りたいと思っていた。彼女の自由を。彼女の笑顔を。彼女の未来を。
けれど、今、突きつけられて理解してしまった。
…僕はそれだけじゃない。そんな綺麗ごとじゃない。
彼女が無事でよかった。
彼女が助かってよかった。
もちろん、それも本当だ。
だけど胸の奥で、それ以上にドロドロとして熱い感情がある。
『そばにいて』
あの言葉。震える指で掴まれた服。自分を求める声。
あの瞬間、恐ろしいほど安堵していた。震える声で名を呼ばれ、縋られたことが、どうしようもなく——嬉しかった。
自分が必要とされていることに。
他の誰でもない、自分を選んで甘えてくれたことに。
——彼女に必要とされたい。選ばれたい。唯一無二の、彼女の特別でいたい。
アレクシスは初めて気づく。
自分は「守る男」として綺麗に彼女の側にいたいのではない。
恐怖に震える彼女に乞われ、求められることで満たされる、歪んだ自我が自分にあった。
「ノア、ごめん…」
アレクシスは、寝てしまった彼女の髪に顔を埋める。
「ごめん、ごめん……っ、好き…もう、止まらない…ノア…っ」
喉の奥が熱くなる。指先が震える。
守れなかった申し訳なさなのか、それとも自分を選んでくれたことへの狂おしい歓喜なのか。もう自分でも区別がつかない。
自分の浅ましさに絶望しながらも、彼は彼女を放すどころか、さらに強く、深く、その腕の中に閉じ込めた。
腕の中の体温が、やけに現実的で。
まだ、指先には男の腕の感触が残っている。
(あの男は)
紫の瞳。
仮面の奥に見えた、あの特異な紫の瞳。王国の全貴族の情報を頭に叩き込んでいるアレクシスにとって、該当する男は、実質一人しかいない。
暗かったし、仮面をつけていたから確証はないが…。
あの乱暴な力。
上流階級特有の、他者を人間とも思わない躊躇のない“所有の癖”。
会議室でエレノアの名前を出した時の、あの探るような目。
点が、線になっていく。
——オスカー・ド・ヴィルヌーヴ。
奴があの場にいた?なんのために?なぜノアの腕を掴んだ?
あの潔癖で、成金特有のプライドに塗れた男が、身分を隠す非公式な夜会になど、興味を持つとは思えない。何か明確な目的があって潜り込んでいたのか。
噂でも入手できればと思ったが、まさか本人がいたのか?
あの夜会は、エレノアが初めて息ができた場所だった。
名前も身分も関係ない。ただそこにいるだけでよかった場所。自分もそうだった。あの場所だけが、完璧な公爵令息でなくていい、唯一の夜だった。
——僕たちが出会った、かけがえのない大切な場所。
それを、奴は…。
アレクシスの思考が、激昂で一瞬白く飛んだ。腕の中のエレノアを、無意識にきつく抱き寄せる。
(落ち着け……落ち着くんだ )
自分に言い聞かせる。
今、エレノアは眠っている。起こしてはいけない。怖がらせてはいけない。
それだけが、今の自分を辛うじて繋ぎ止めていた。
奥歯を噛む。指先が震える。
それでも、腕の力だけは緩められなかった。
——次は、させない。
エレノアの自由を。彼女が息をできる場所を。誰にも、奪わせない。
****
翌朝、エレノアが目を覚ますと、朝の用意を済ませた、いつも通りの完璧な姿のアレクシスが横に立っていた。
エレノアはまだ頭が回らないまま、甘えるように彼へと両腕を伸ばす。
「起きましたか?」
彼は澄んだ青い瞳をとろりととろけさせ、愛おしそうに彼女の目元へ唇を落とした。
「朝食ができています。天気が良いので、テラスで食べませんか? 」
見ると、サイドテーブルには温かい朝食の用意が完璧に整えられていた。
(そんなに長く寝ちゃったのかな……?)
時計を見るが、いつも通りの時間だ。
身を起こそうとした瞬間、ズキン、と右腕に鈍い痛みが走った。 昨日の出来事を思い出す。
(そうだ、昨日、夜会で怪我をしたんだった…)
顔を洗っているうちに、腕に巻いた布が濡れてしまった。取り替えようと一旦外した瞬間、エレノアはギョッとする。
昨日よりも、痣が酷く広がっている。白い肌の上で、赤黒い指の痕が、生々しくなっていた。
「見せて」
背後から低い声がした。振り返ると、アレクシスが今にも泣き出しそうな、それでいて酷く痛々しい顔でエレノアの腕を見つめている。
——傷ついた顔をしてる。私よりも。
それを見たエレノアの胸の奥に、奇妙な熱が灯った。困ったように、けれど愛おしさに微笑んでしまう。
(彼にここまで想われて、 うれしいなんて、私はどうかしてる)
アレクシスの目が光をなくし、どす黒い怒りとドロリとした執着が漂いはじめる。
彼はエレノアの細い手首を、今度は壊れ物を扱うような優しさで、けれど絶対に逃がさない強さで包み込んだ。そのままゆっくりと自分の方へ引き寄せ、酷くなっている紫がかった痣へと顔を伏せる。
男の残した酷悪な痕跡を、自分の熱と唾液で塗り潰し、上書きするように。 アレクシスは、その痣の上にじっと深く唇を押し当て――痛むほどの強さで、じち、と吸い上げた。
「っ……ん、あ……っ」
痣を噛み、舌で撫で上げる狂おしいほどの熱。 肌越しに伝わる彼の荒い呼吸と、皮膚を侵食していくような熱量に、エレノアの体温が奥から急速に上がっていく。腰から力が抜け、彼の胸に倒れ込む。
痣からゆっくりと唇を離したアレクシスは、赤く湿った痣を見つめたあと、濡れたサファイアの瞳でエレノアを見上げ、掠れた声で囁いた。
「……二度と、他の男に触れさせないで」
向けられた青い瞳には、夜の闇よりも深い独占欲がぎらぎらと燃え上がっている。
「ノアに触れていいのは、僕だけです」
それは命令ではなく、彼からの痛切な懇願であり、エレノアを縛りつける極上の『呪い』だった。




