第74話 その目に焼かれる
「はぁっ、はぁ...っ!」
オスカーは乱暴に、街の外れに停めていた馬車の扉を閉めた。
乾いた衝撃音が狭い車内に響く。
彼の息はあがったまましばらく戻らなかった。会場から一度も止まらずに走ってきたからだけではない。
先ほどの出来事に混乱していた。汗も滝のように吹き出てきては流れて行った。
汗に濡れた手袋を外そうとするが、指先が強張って、うまく革が滑らない。苛立ちのままに引き剥がした手袋を床へ投げ捨てた。
指先が、酷く震えていた。
——自分は先ほど、何をした?なぜ今日、またあの場所へ行った?
目的などなかったはずだ。ただ、あの妙に鼻につく銀髪の青年を見つけた瞬間、気づけば身体が動いていた。
オスカーは震える手を握る。
彼の腕を掴んだときの情景が、脳内で繰り返される。
——細い
——力を込めれば、容易く折れてしまいそうだった
あの感触が、まだ掌に残っている。
熱を持った柔らかな肌の感触。
指を離したあとも、妙に生々しく残り続けている。
——あの細さと華奢さ。
オスカーの脳内には、何度も何度も銀髪の彼の腕に手を伸ばした瞬間がフラッシュバックしていた。
腕を掴まれた瞬間、相手は驚愕に目を見開き、金縛りにあったように固まった。声すら出せなかった。ただ、仮面の奥の目だけが——何か、見たことのない色で揺れていた。
彼が自分の姿をその目に写した。その事実がじわじわとオスカーの気づかぬうちに追い討ちをかけていた。
「……っ、」
オスカーは自分の手を見る。
震えが、まだ止まらない。
あの目のせいだ。
あんな目で見られたのは、生まれて初めてだった。
……いや、違う。
ざわり、と脳の奥で、冷たい違和感が首をもたげる。
そう思った瞬間、思考が停止した。ぞわっ、と背筋に寒気が走った。
あれは女だ。
あの細さと華奢さ。
振り解けない力のなさ。
——あれが女?
そして、自分が無意識に口走った名前。あまりにも意味不明だった。が、脳裏に、先日捕まえた老婆の言葉がこだまする。
かつてローゼンベルク家で働いていたというメイドが話した昔話。
『銀色の美しい髪』
あれは、もしかして。
あのエレノアなのか?
だが、あの女の髪色は深いパープル色だ。
……染めているのか?
だが、至近距離で睨んできた、あの「はちみつ色」の瞳は...。
あの細い腕。
白い首筋。
仮面越しでもわかる、息を呑んだ顔。
——女だった
あれが?
あの、妙に目を引く銀髪の青年が。
「……くだらん」
吐き捨てる。だが、脳が勝手に思い出す。
掴んだ瞬間の肌の熱。
振り払えなかった細い身体。
乱れた呼吸。
——……なぜ、あんなものを思い出す。
ノア、と呼ばれていたが。
男の恰好をして…何なんだ?
銀髪の彼——ノアは美しい。
それは認める。
認めるが…それだけだ。
そう必死に自分に言いくるめるオスカーだったが、その胸のうちには、ノアと目が合った瞬間の不思議な感情を持て余していた。
彼が自分を見た。認識した。そのことがなぜ、こんなにも胸を締め付けるのか。
そして彼は、その気持ちが、『自分がいつも手に入れる美術品への気持ち』と同じだとすぐに結論付けた。
(美しいものは手に入れればいい。それだけのことだ)
金があれば、この世の全てが手に入る。あの銀髪も、あの生意気な瞳も、いくら積めばこちらを向く。
……そのはずなのに。
なぜか、馬車の中で考えれば考えるほど、あの目が美術品のように思えなくなっていく。
彼は生きている。
息をしている。
怒っている。
あれは、ただ美しいだけのものじゃない。
——だから何だ。
オスカーは窓の外へ視線を投げた。
——そして、横にいた女
違う。
オスカーの手を引き剥がしたあの強い力は完全に男のものだ。
しかもあの声は、完全に聞き覚えのあるあいつの声だ。
——アレクシス・ユリウス・ヴァルトハイム
(あれがあの、ヴァルトハイム‥‥?)
「フ、フフ‥‥フハハハハ!!!!!」
笑いが止まらない。
そうだとすれば、あまりにも傑作だ。
何なんだ、あいつらは。
どういうことだ?
秘密の夜会、仮面、素性を隠した銀髪。……そして、ヴァルトハイム。
脳裏に浮かぶのは、先日の会議室だ。
あの男の、冷えた青い目。
ああいう顔なら知っている。
敵を見る目。
競争相手を見る目。
男として闘志を滲ませる顔。
あれは理解できる。
だが最後に見た顔だけは、違った。
——『愛していますから』
その言葉を口にした時、アレクシスは、心底愛しいものを思う顔をしていた。
熱を孕んだ目。
柔らかくほどけた口元。
まるで、その女が存在するだけで世界が満たされているかのような、ひどく甘ったるい顔。
思い出すだけで、喉の奥が砂を噛んだようにざらついた。
なぜ、あの男があんな顔をする。
ぞわり、と嫌悪が背筋を這う。
理解できない。
理解したくもない。
あの男は、女に酔っている。
(……理解できない)
「……フフ…クク……気色の悪い」
喉の奥で笑いが漏れる。
アレクシスを引き摺り下ろす情報を、得たかもしれない。そう思うと、口元が緩む。オスカーは口元を手で隠した。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、あの銀髪だった。
腕を力任せにほどかれた瞬間の光景がまた、スローモーションで蘇る。
冷たい飛沫、周囲の視線、そして
——あの目
驚いた後の、ぞっとするほど冷たい嫌悪。
獲物を狩る猛禽類のような、鋭く、凍てつく視線。
あの目が、頭から離れない。
脳内で、ローゼンベルク家に求婚しに行った際のエレノアの激昂した顔が重なる。
社交界では人形のように微笑んでいた女が、自分を見る時だけ、まるで汚物でも見るような目をしていた。
(なぜ、あの目を向けられるほど…)
ノアは、自分ではなく、あの男の背に隠れた。当然のはずなのに。なぜか、胸の奥が焼けるように苛立った。
****
屋敷へ戻ったオスカーは、執事に一言も発さず自室へ向かった。
すぐに湯を浴びた。
夜会の不潔な空気を、あの場所の匂いを、すべて洗い流そうとした。
しかし、ダメだった。
湯の中でも、あの細い腕の、吸い付くような肌の感触だけが手のひらから消えない。
細い腕。
首元を見ただけでわかる、柔らかな肌。
震えていたのは、相手か。
それとも、自分だったのか?
タオルで手を拭きながら、オスカーは鏡を見た。
いつもと同じ顔がそこにある。
紫の瞳。整った顔立ち。
自分は何も変わっていない。
変わっていないはずなのに。
鏡の中の自分が、どこか見知らぬ男のように見えた。
「……くだらん」
もう一度、吐き捨てる。
ギシ!と、勢いよく座ったソファがきしむ音がする。
それでも、瞼を閉じれば暗闇の向こうから、あの銀髪が、あのはちみつ色の瞳が、鮮烈に浮かび上がってくる。
——逃れられない。
何度顔を洗っても、いくら湯を浴びても、脳の奥にあの女の息遣いと眼差しが焼き付いて離れない。
部屋には、金で買い漁った豪華な美術品や宝石が並んでいる。意志を持たず、自分を嫌悪することもなく、言われるがままそこに鎮座する無機質な美。 自分が欲しがれば、世界中の何だって手に入るはずだった。
しかし今夜はなぜか、そのすべてが、ひどく色褪せて見えた。
自分を恐れず、従わず、心底嫌悪の目を向けてきたあの生身の女。
あの冷酷な瞳に、一瞬でも自分を映させたという事実だけが、熱病のように頭を灼き尽くしていく。
オスカーは、静かに立ち上がった。
——確かめなければ。
あの女が、本当にエレノア・フォン・ローゼンベルクなのか。
もしそうならば――アレクシス・ユリウス・ヴァルトハイムを地の底まで引きずり落とし、あの高慢な瞳を、二度と自分以外の男に向けられないようにしてやる。
お読みいただきありがとうございました。
次回、怪我をさせられたノア。その傷を見るアレクシスの様子が...
10/30(金)公開予定です。




