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孤独な公爵令息は、夜の香りに毒される 〜夜会で恋した「彼」は、完璧な昼の婚約者(ただし男装令嬢)でした〜  作者: ユニ子


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第73話 壊された聖域

「アレクシス様」

ある夜、執務室で書類と向き合っていたエレノアが、思いついたように顔を上げた。

「『無名の夜会』に、もう一度行ってみませんか?」


アレクシスがピタリとペンを止め、驚いたように青い瞳を細める。


「……息抜きですか? 今、屋敷の外に出るのは危険すぎます。先日会話した通り、僕たちの周りを嗅ぎ回る不審者も出ている」

「息抜きではありません。……覚えていますか? 前に夜会に行った時、二人で『少し人が少ないかもしれない』と話したこと」


エレノアは真剣な眼差しで、ノアの低い声になって言った。


「夜会がなくなるかもしれないという噂もあった。ずっと気になっていたのです。……最近、あの夜会に参加している人がさらに減っている気がする。社交界の裏で何かが起きていて、みんな怯えて夜の外出を控えているのでは?」


澄んだ瞳が、かすかに揺れる。 あの夜会は、貴族社会の重圧や偽りをすべて脱ぎ捨て、ありのままの二人で笑い合えた『大切な場所』だ。


「名目は調査です。運が良ければ、私たちの家に起こっていることが何かわかるかも」

「……」


アレクシスはしばらく無言で彼女を見つめた。 ノアにとって、そして自分にとっても、あの場所がどれほどかけがえのない『逃げ場』であるかを彼は痛いほど分かっていた。頭ごなしに否定することはできず、苦々しく吐息を漏らす。


「危険です。もし僕たちの存在を探る人間が紛れ込んでいたら……」

そういうアレクシスに、迷いのない真っ直ぐな琥珀色の瞳がじっと見つめてくる。

――ああ、やっぱりこの人はこういう人だ。 守られるだけで満足する令嬢ではない。


危険があると分かっていても、自分の大切なものを守るために前に出ようとする、強く気高い『ノア』なのだ。

アレクシスは敗北感を滲ませながら、深く息を吐き出した。


「……わかりました。ですが、僕の独断で極秘の護衛を配備します。この間の部屋も経由します。そして――一秒たりとも、僕の視界から離れないと約束してください」

「……はい。約束します」


そう返事をしたエレノアの顔立ちと佇まいは、昼間の令嬢からすでに夜の伴侶・ノアの気配へと変わっていた。

アレクシスは、深く息を吐いた。


****


後日、紫色のランタンが灯る夜。王都の一角の洋館で、二人でやってきた『無名の夜会』は始まっていた。



いつもは扉を開けた瞬間から、密度の濃い、熱を孕んだ夜の空気が詰まっている。 しかし、なんだか肌に触れる空気が妙に冷ややかだ。


(人が、さらに少なくなった…?)



今日はひっそりと楽器の演奏が行われている。ノアは仮面の奥から周りを見渡す。



「潜入感のせいか、やはり参加者が少ないような気がします」



隣を歩くリィも、不思議そうに低くつぶやいた。



いつもなら語らう人々であふれ、自慢の芸術や技術の披露の場になっていた。催しが毎度変わり、決して飽きることのない、大人のための秘密基地のような空間。……ついこの間までは、確かにそうだったはずなのに。



エレノアは、年末に耳にした噂を思い出す。 …この夜会がなくなるかもしれないと…。

思えば、その頃から不穏は始まっていた。


人がまばらな会場で、かつての熱気はどこにもない。けれど、添えられたリィの手だけが、驚くほど熱く、確かにそこに存在していた。


二人は寄り添うようにして会場を歩き回った。

愛の言葉、最近あったこと、妻の愚痴、流行の小説について…他愛のない会話ばかりが聞こえる。

しばらくそうしていたが、昼間の噂話は何も聞こえてこなかった。


『無名の夜会』には、三つのルールがある。

名前を聞かないこと。

身分を明かさないこと。

昼の自分を持ち込まないこと。


(昼間の話題が制限されている場での情報収集は、難しいか)



ノアがそう思った、その時だった。

人混みの間から、ある男が真っ直ぐに歩いてきた。


黒い仮面をつけた男だ。その仕立ての良い燕尾服の着こなしは、威圧感がある。



(――誰だ?)



不穏な気配を察し、無視して他の場所へ移動しようとした、その瞬間だった。ガシッ!と、いきなり強い力で右腕を掴まれた。



「…っ!?」


驚きで喉が詰まり、声が出ない。 振りほどこうとしても、男の腕の力は異常なほど強く、びくともしない。

――なんで。

抗おうとする指先に、力が入らない。

恐怖より先に、悔しさが胸を焼いた。

至近距離で仮面の奥から覗くのは、粘つくような不快な紫の瞳だ。

「ノア!!」

割れんばかりの鋭い声。 リィが手元にあったワイングラスの中身を男の顔面へと叩きつけ、ひるんだ隙にその拘束を力任せに引き剥がす。

リィがノアの前に立ちふさがり、守るようにしっかりと抱いた。ノアの目が、怒りと嫌悪で鷹のような目に変わり、男を見る。

男はこちらを見て固まっている。一瞬、自分の手を見る。


「……ローゼンベルク、嬢」


という呟きが、かすかに耳に届いた気がした。


――今、何て言った?


聞き間違いかもしれない。雑踏と音楽の中で、確信は持てなかった。

しかしノアの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。



彼はそれ以上何も言わず、取り巻きが駆けつける前に、這うようにして踵を返し、夜会の闇へと立ち去っていった。




すぐにリィがウエイターを呼び、最奥の個室を借り切った。 扉が閉まった瞬間、リィは仮面を剥ぎ取り、ノアの肩を掴んだ。



「大丈夫ですか!? けがは……っ!? 」



アレクシスはノアの体中を、狂ったような心配の目で確認する。



「腕を、掴まれた…」



ノアも仮面を外し、上着を脱いでシャツの袖をたくし上げた。 白い肌の上に、くっきりと指の形に沿った赤い跡が浮かび上がっている。


ぞわぞわと、エレノアの背中におぞましい寒気が走った。


あの強烈な力。驚き抵抗できず、声すら出せなかった恐怖。自分の未熟さと屈辱に、エレノアは赤くなった腕の跡を見つめながら、静かに、けれど固く唇を噛んだ。

腕の跡を見ながらエレノアが静かに言う。


「……次は振り解く」


アレクシスはその痛々しい腕の跡を見つめたまま、数秒の間、彫刻のように何も言わなかった。 ただ、彼の大きな手が、見たこともないほど小刻みに震えている。 エレノアを恐怖から守れなかったことへの絶望。そして、あの男への、内臓を焼き尽くすような怒り。


「リィの方が、震えてる」


場を和ませようとしたけど、だめだった。

アレクシスは返事をする代わりに、膝をつき、彼女の腕の赤い痕にそっと唇を寄せた。


「……痛かったでしょう」


掠れた声。そのままエレノアを壊れ物のように強く引き寄せ、抱きしめる。その腕は震えるほど強いのに、声だけが恐ろしいほど静かだった。


「……許さない、あの男」


それだけを、絞り出すように呟いた。


彼の青い目の光は消え、どす黒い怒りが渦巻いている。


エレノアはただ、アレクシスにもたれて、そっと息をするしかできなかった。


(あの目の色は...)







本日もお読みいただきありがとうございました。


次回は10/26(月)更新予定です。

ノアの腕を力強く掴んだ男。彼の思惑とは?

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