第72話 その暴言は最高の賛辞
しばらくの間、どちらも動かなかった。
お湯の流れる音だけが、静かに浴室を満たしている。
アレクシスは、まだ心の中の何かを堪えるように、エレノアをきつく、強く抱きしめていたが――やがて、その張り詰めた身体を緩めると、愛おしそうに彼女の濡れた頭をそっと撫でた。
「何か、あいつにされなかった…?」
「されてません。大丈夫」
その言葉に、アレクシスは「良かった…」胸の奥の不安を追い出すように、一度深い溜息を吐き出した。
沈黙の重さに耐えかねたのか、エレノアがぽつりと、けれどどこか意を決したように言う。
「……リィ」
「はい」
「私、ちゃんと言い返したから。あいつに」
ピキ、とアレクシスの腕が、わずかに強張る。 まだ収まりきらない、あの男へのどす黒い怒りが、再び喉元までせり上がってくるのを自覚した。
「……そういえば」
澄んだ青い目で、彼が聞く。声には、まだ剣呑な響きが残っている。
「追い返したって…。あいつに何て言ったんです?」
何か、恐ろしいことを聞くような、緊張した沈黙が浴室に落ちた。
え?えーっと… と、エレノアは顎に手を添えて、あの日の記憶を思い出す。
「『君の金の音は、アレクシス様の静かな吐息より、ずっと安っぽい。反吐が出る』って言ったかな」
「……」
アレクシスは、完全に固まった。 美しく整った顔を唖然と見開いたまま、彫刻のようにフリーズしている。
だが次の瞬間――「ふはははは!!!」と、彼は自分のお腹を抱えて、大理石の壁が震えるほどの声で笑い出した。
「金の音が…吐息より…!!」
しばらく何度も同じ言葉を繰り返し、アレクシスは息も絶え絶えになりながら大爆笑している。
あの、金と家柄を笠に着た傲慢なヴィルヌーヴに、その言葉は的確すぎる。
エレノアはなんてセンスがあるんだろう。
愛おしさが限界を突破していく。これから先、公式の場でオスカーのあの小生意気な顔を見たとき、絶対このセリフを思い出して笑ってしまう自信があった。
ひーひーと涙目になって笑い狂う彼を前に、エレノアは完全に固まっていた。
そんなに笑っている彼を初めて見た。
何より、淑女にあるまじきそんな暴言を吐いてしまって、後悔はしていないけれど――心のどこかで、怒られるかもしれない、幻滅されて嫌われるかもしれないとも思っていたというのに……。
「ひー……っ、はは! く、くく……っ」
散々笑い散らし、アレクシスは涙目のまま濡れた手で顔を拭った。 そして、まだ呆然と固まっているエレノアの肩を、今度は愛おしくてたまらないというように優しく引き寄せると、お互いのおでこをこつんと合わせた。
「……最高です、エレノア。本当に、あなたは僕の最高の婚約者だ」
嫌われるかもしれないとも思っていたというのに、向けられたのは極上の賛辞と、蕩けるような甘い笑顔だった。
はー…と落ち着きながら、アレクシスはサブンと湯に入り、全身の泡を落とす。
仕事の疲れも、不安も、汗も。
大笑いして風呂に入って。
全部落ちたのだった。
「ふ、フフフ…」
エレノアの前に、美しく笑う、濡髪の完璧な貴公子がそこにいた。
けれど今の彼は、社交界で見る完璧な公爵令息とは違う。
湯気の中で肩を震わせ、大笑いして。
嫉妬して、拗ねて、傷ついて。
そんなふうに、自分の前だけで感情をさらけ出してくれる。
エレノアの胸の奥が、じんわり熱くなる。
――ああ。
この人になら。
本当に何でもさらけ出せるんだ。
****
数日後。
ヴァルトハイム公爵邸の執務室。
ギルバートが、静かにアレクシスの元を訪れた。
重厚な執務デスク。いつもならアレクシスが一人で冷徹に書類を捌いているはずのその場所に――エレノアも、当然のように隣に並んで座っていた。
公爵家の機密を扱う場に、いくら婚約者とはいえ「女性」を同席させるなど有り得ない。ヴァルトハイム家なら一層ありえない光景。
だが、二人の間に流れる空気は、ギルバートの常識をあっさりと跳ね返した。まるで、一つの盤面を睨みつけているかのような、絶対的な「対等」と「信頼」の空気がそこには満ちていた。
「ギルバート、ヴィルヌーヴについては何かわかったか」
アレクシスがいつも通りの声で促す。
「はい。ヴィルヌーヴ家が近年、どの家に融資を行い、どの業者と太いパイプを持っているか、資金の流れを中心に洗い直しております」
ギルバートは、ちら、とエレノアを気にするように視線を向け、声を潜めた。情報をどこまで開示してよいものか、測りかねたのだ。 だが、アレクシスは小さく頷き、「言ってくれ」と、そのまま続きを促した。
「……また、調査と平行して、逆にこちらの動きやエレノア様のお身内を嗅ぎ回っている不審な者がいる、という報告も上がってきております」
アレクシスの目が、静かに、氷のように鋭く細まった。
「エレノアの周りにいるやつと同じ件か? 別件か?」
「まだ判別がつきかねます」
「引き続き、警戒と特定を頼む……、オスカー・ド・ヴィルヌーヴの金で動いている手先かもしれない。あるいは――ジュリアン・ヴァイスやダミアン・ローレンツあたりの差し金か。あいつらの動きも合わせてマークしておいて欲しい」
アレクシスはエレノアが入手した、二人の貴族についても考える。
「……オスカー・ド・ヴィルヌーヴは、エレノアに求婚を拒絶された。奴のことだ、断られた腹いせにローゼンベルク家へ嫌がらせを企んでいるか、あるいは僕たちの足を引っ張る口実を探している可能性が高い」
アレクシスは深い海の底のような瞳で、手を組みながら考える。
「あの男の武器は金と裏の繋がりだけだ。融資先や資金の流れを叩けば、向こうの協力者や、こちらの周りをチョロチョロしている手先の尻尾も掴めるはずだ。……相手がどこの誰であれ、我が家に手を出したことを後悔させてやる」
冷徹で的確な主人の思考に、ギルバートの目がわずかに光る。
淀みないアレクシスの指示に、ギルバートは「承知しました」と深く一礼し、下がろうとする。 「それから」 と、アレクシスは低い声で呼び止めた。
ギルバートが足を止めると、アレクシスは隣にいるエレノアの手を、慈しむようにそっと優しく包み込んだ。
「この件に関する報告、および今後の対策は、すべてエレノアにも同時に共有する。彼女の父上、ローゼンベルク公爵とも即座に連携を取れるよう、連絡網を構築してくれ」
ギルバートは、今度こそ驚愕を隠せず、わずかに目を見開いた。
いくら婚姻関係を結ぶとはいえ、我が家の情報網の機密をここまで曝け出すのは、貴族としてはあまりに危険な賭けだ。
しかし、アレクシスの青い瞳には、一切の迷いがなかった。
「なんでも言って欲しい、僕を頼って欲しいと、僕自身が彼女に求めた。ならば、僕がそれを破るわけにはいかない。僕は彼女に、何一つ隠し事はしないと決めた」
主人のその毅然とした言葉に、隣のエレノアもまた、そんなアレクシスの手に、そっと自分の手を重ね返した。
その二人の佇まいは、玉座に並び立つ王と女王のように、圧倒的な風格と揺るぎない絆を放っている。外からの小細工など、一切通じないであろう無言の確信がそこにあった。
ギルバートは、胸の奥から湧き上がる深い畏敬の念を覚えながら、もう一度、今度はより深く、深く頭を下げた。
「承知しました。ただちに手配いたします」
ギルバートが部屋を出た。
残された二人は、再び一つの机に向かい、これからの戦いを見据えるように静かに視線を交わし合う。
――その直後。
屋敷の裏門で、見慣れない男が、ひっそりと立ち去っていくのを、窓を拭いていたフィオナが見た。
(誰…?)
顔は見えなかった。
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