第71話 殺していいかな
――殺す。
今や、その暴力的な衝動を抑える気すら起きなかった。
ヴァルトハイム家の総力を挙げ、ヴィルヌーヴ家ごと、あの男の存在をこの世界から跡形もなく消し去ってしまえればいい。 泡だらけの手が、無意識に湯船の縁を破壊せんばかりの力で強く握りしめられる。
ギシ、ミシリ、と大理石が悲鳴を上げるような重い軋み音が響いた。
「……リィ、手を痛めてしまう」
エレノアの心配そうな声に、アレクシスはゆっくりと視線を上げた。 その青い瞳は、激しい怒りと、そしてどこか引き裂かれそうなほどの「悲しみ」に揺れている。
「なぜ……なぜ、それをすぐに、僕に教えてくれなかったんですか?」
一人で抱え込み、一人で処理しなければならないほど、僕はあなたにとって頼りない男ですか。
僕はあなたを誰よりも愛しているのに。
風呂の湯気だけでなく、脳内の悲しみで顔に熱が集まる。喉の奥がつまり、うまく息ができない。
「……だって、リィに余計な迷惑をかけたくなかったから!」
エレノアは少し眉を寄せて、いつものように『ノア』の強気な調子で言い返した。
「…断って、もう終わったかと。オスカーにとっては少し冗談というか、嫌がらせで絡んできただけで…。そんなことで私が騒いだりして、ヴァルトハイム家に迷惑をかけたらと思うと」
「…は…?」
(めいわく??)
アレクシスの脳内に、その言葉がなじまなすぎて意味がわからない。
だが、強気に言い放ったはずのエレノアの声が、徐々に小さくなっていく。
「リィならスマートに解決できたかもしれないのに、私が感情的に怒って騒いだせいで、大事になって、公爵家に泥を塗ったらどうしようって……」
ぽかんとしていたアレクシスの表情が、だんだん苦虫をつぶしたように歪んだ。
その青い瞳に浮かんでいるのは、怒りではない。引き裂かれそうなほどの「悲しみ」だった。
(……僕が、信用できなかったのか?)
「……!」
アレクシスの傷ついたような、切ない表情を見た瞬間、エレノアの目が大きく揺れた。
「ごめ……、アレクシス様、ごめんなさい……」
その声は、夜の顔である『ノア』のものとは思えないほど弱々しく、震えていた。エレノアはしゅんと肩を落として下を向いた。
下を向く彼女を見つめながら、アレクシスはやるせない感情を抱く。
(ノアも、こんな顔をするのか……)
自分では気づいていないかもしれないが、エレノアは優しい。今も、アレクシスの顔を見てショックを受けていた。なんだかいつも、エレノアは自分のためではなく、誰かのために心を砕いている。
――彼女も、公爵家を背負う、ひとりの女性だ。
僕らは嫌でも家を背負わされているのだと、こういうときにアレクシスは思い知らされる。頭の奥で、どす黒い感情がぐるぐると渦を巻く。
本当は自由なエレノア。燕尾服を着た彼女は家と役割を忘れ、どれだけ軽く生き生きとあの場所に立っていたのだろう。
――君は、そんな顔をする人間じゃないだろう。
――怯え、身を縮め、周囲や世間の枠に収まるような小さく大人しい人間に、君になってほしくない。そんな顔をさせたいわけじゃないんだ。
なのに髪を染め下を向き、自分を後回しにするエレノアの優しさに、そして彼女に頼ってもらえなかった自分の無力さに、 今はどうしようもなく腹が立つ。
(僕の力が足りないんだ。どうすれば、彼女が…)
二人とも何も言えず。沈黙の時間がしばらく流れた。パチ、パチ、と泡がつぶれる音だけが響いた。
アレクシスはやるせない溜息をつくと、手のひらに残っていた泡を、わざとエレノアの頬へと不器用に塗りたくった。
「僕が言いにくくさせていたのでしょうか」
「……そうじゃない。でも、リィがそんな顔をするなんて、思ってなかった」
一瞬、ノアとしての強気な物言いが顔を覗かせたが、すぐにまた、しゅんとした令嬢の顔に戻ってしまう。
アレクシスは彼女の顎を優しく上向かせ、泡のついた頬を親指でそっとなぞりながら、低く、逃がさないような声音で告げた。
「もう隠し事はなしです。……あなたに関わる重大なことを、他の男の口から後出しで知らされる方が、僕はよほど傷つきます」
その声には、彼女を責める色よりも、独占しきれなかったことへの引き裂かれそうな熱い痛みが滲んでいた。
「……リィが、忙しい時期だったし……邪魔したくなくて」
「忙しさなど関係ありません」
即答だった。
「僕は、あなたの婚約者です。あなたのすべてを背負うと決めたのです」
その毅然とした言葉に、エレノアの涙目が切なく輝いた。アレクシスは少しだけ子供のように拗ねたように目を細め、彼女の濡れた髪を指に絡めながら、その耳元へと唇を寄せた。
「それに、他の男から求婚されたなんて...普通に男として嫉妬で狂いそうなんですが」
「……っ!」
エレノアの顔が、湯気とは違う熱で一気に赤くなる。
「その場ですぐに断った!」
「知ってる」
アレクシスは微かに、歪んだ笑みを浮かべた。
「あなたがそんな男になびかないことくらい、最初から分かっています。疑ってなどいません」
その言い方には、エレノアへの絶対的な信頼があった。しかし、だからこそ次の言葉が重く響く。
「ノアのことを汚い目で考えている男が存在する、それだけで僕は虫唾が走るほど嫌なんです。……あなたが、それを一人で耐えていたなんて」
アレクシスは、エレノアの湿気た髪を掴むようにして引き寄せ、逃がさないようにその細い身体を両腕で強く、濡れることも気にせず強く抱きすくめた。そうして衣服の隙間から伝わる彼女の脈動を確かめた。
「……他の男に、あなたの名前を呼ばれるのも、その姿を見られるのだって、本当は耐えられない。無理だ」
低い、地を這うようなテノールだった。湯気よりも熱く、重く、どろりとした独占欲が、大理石の浴室を支配していく。
「……僕には、言えないと……僕ではあなたを守れないと、思ったのですか」
それは責めているのではない。ただ、愛する人の「安心」になれなかった男の、悲痛な懇願だった。 エレノアは答えられなかった。そうじゃない、と叫びたかった。けれど、自分が彼を気遣うあまりに、孤独な戦いを強いていたのは事実だった。
「……ごめんなさい……アレクシス様」
小さな、掠れた謝罪。 アレクシスは何も言わなかった。ただ、彼女の温度を形を素肌で感じていた。
しばらくの間、浴室にはお湯の垂れる音が響き、濃密な沈黙が二人を包み込む。 やがて、彼の掠れた低い声が、呪いのようにエレノアの耳元に落ちてきた。
「リィって、呼んで」
命令ではない。懇願に近い、アレクシスの剥き出しの執着。 エレノアはそっと、アレクシスの広く温かい胸元へ額を寄せ、その力強い鼓動を聞きながら、静かに息を吐いた。
「ごめんなさい、リィ」
小さな声。けれど、それは自分のすべてを彼へと委ねる、明確な約束の響きだった。
アレクシスの腕が、ゆっくりと、さらに深く彼女を縛り付けるように強くなる。
「――約束ですよ、ノア」
彼女の愛おしい体温をその腕で確かめれば確かめるほど、自分たちの領域に泥足で踏み込んできたあの男への、恐ろしい純度の殺意が膨れ上がっていく。
(ヴィルヌーヴ……)
あいつの持っている「金」も、「名誉」も。 この手で足元から徹底的に引きずり下ろし、すべてを灰にして、二度とエレノアの名前すら口にできないように絶望させてやりたい。
湯気の中で、エレノアを抱きしめたまま。 アレクシスの青い瞳から、完全に光が消えた。
お読みいただきありがとうございました。
更新が遅くなってしまい、本当にすみません…!
次回10/23(金)公開予定です。




