第70話 その腕が引き寄せる祈り
オスカーの元を離れた後、アレクシスは足早に父の方へ向かった。 静まり返った回廊で、エドワードはいつもの威厳のまま佇んでいた。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません、父上」
アレクシスが頭を下げると、父はちらりと息子の背後に冷徹な視線を向け、忌々しそうに眉をひそめた。
「……ヴィルヌーヴか」
「ええ」
「奴の父親も、昔から己の利益のためなら手段を選ばない男だ。……若造と侮るな。足元をすくわれるぞ」
「肝に銘じます」
アレクシスは静かに拳を握りしめた。父の言葉の重みが、公爵家の責任感をピリッと引き締めていく。
「ローゼンベルク家との式の手順は進んでいるのだろうな」
父の問いに、アレクシスはエレノアと話し合って決めた進捗を簡潔に報告した。父は厳かにうなずき、深く溜息をつく。
「ローゼンベルク公爵には、私から謝罪の手紙を送っておいた。先ほども議場で挨拶を交わしたが……もう、あちらは帰られた。後ほど、お前からも手厚く対応をしておくように」
「もちろんです」
そこまで話すと、エドワードはそれ以上の言葉を費やすことなく、アイゼンドルフへと帰るための馬車へと乗り込んだ。 しかし、その扉が閉まる直前。父が振り返りもせずに、ぼそりと呟いた。
「……顔色が良くなったな」
それだけだった。 え、とアレクシスが反応を示す前にドアは閉まり、すぐさま馬車は走り出した。
(聞き間違いか...?)
アレクシスは去っていく馬車を静かに見送る。父からの言葉はいつも叱るか命令する内容ばかりだった。体調を気遣う言葉なんて初めてだった。
しかも今回、厳格でプライドの高い父が、自分の不手際のために裏でわざわざ動いてくれていたという。
以前のアレクシスなら『公爵家の面子のためだ』と冷めた目で受け取っていただろう。けれど今は、その無骨な言葉の裏に、父なりの不器用な気遣いがある可能性を、素直に感じ取ることができた。
(……前の僕なら、きっと何も感じなかったのに)
アレクシスは長く、熱い息を吐き出した。 急激に、腕の中の温もりが恋しくなる。
(これも、ノアのおかげかな)
馬車に乗り込みながら、アレクシスは静かに目を細めた。
ギルバートに命じたヴィルヌーヴ家の件、さらに急がせなければならない。オスカーのあのねっとりとした視線を思い出すと、一刻の猶予もないように思えた。
****
屋敷に戻ったアレクシスは、自室(もとい、エレノアの)ソファで本を開いていた。 ……読んでいるつもりだったが、文字は滑り、思考はあの会議室へと囚われていた。オスカーの、あの苛立たしい歪んだ紫の瞳が頭から離れなかった。
―― 『男の寵愛を受けると、女はああも変わるものですか』
遠回しな侮辱を含んだあの言葉が、何度も脳裏の奥で反響し、彼の内側を黒く焦がしていく。
「お疲れですか……? 先ほどから、本が逆さまだけど」
エレノアの呆れたような、けれど深い優しい声に、アレクシスはハッと我に返った。 いつの間にか部屋に入っていた彼女が、心配そうにすぐ傍らから顔を覗き込んでいる。
彼女の顔を見ただけで、胸の奥にわだかまっていたドロドロとした黒いものが、すっと薄れていくのがわかる。
「今日は朝が早かったし。疲れたでしょう? ――僕が、洗ってあげる。お湯を入れるから」
普段なら遠慮するはずのその申し出に、断る余裕などなかった。 気づけば、大理石で造られた浴室の、豊かな湯気の中に二人はいた。
アレクシスが湯船の縁に腰を下ろし、その背後から、エレノアの白く繊細な指先が彼の金の髪を優しく梳いていく。心地よい細い指の感触に、アレクシスは自然と目を閉じていた。
「気持ちいい?」
「……はい。とても」
エレノアが「フフ」と嬉しそうに低く微笑む声がする。
会議室で極限まで張り詰めていた神経が、彼女の手によって一枚ずつ解かれていく。やっぱり、この世界で彼女の前でしか、自分はこんな無防備な顔はできない。
エレノアは今日、また茶会へ参加してきたらしい。連日茶会へ呼ばれているが、彼女なりに社交を頑張っている。
しかし、そろそろ菓子を食べるのがキツい、と心底うんざりした顔をする彼女が可愛い。
耐えきれず、アレクシスは振り返り、彼女の細い首に手を回して唇を重ねた。何度も角度を変え、吸い上げるように、慈しむように。
アレクシスの濡れた手と湯気のせいで、エレノアの髪がその白い頬に張り付いている。 アレクシスは彼女の前に膝をついたまま、泡にまみれた手を持て余すようにして、甘い空気の中にそっと、試すような言葉を落とした。
「そういえば今日、会議の後にオスカー・ド・ヴィルヌーヴに会いました」
その瞬間、エレノアの指がピタリと止まる。湯気の向こう、はちみつ色の瞳が、見たこともないほど静かに、鋭く細められていた。
「……何を言われた?」
表情が消えた顔から、冷たく低い声が発せられていた。
——ああ。その顔の意味、わかった。ノアが怒っている時なんだ。
「大丈夫ですよ。ちゃんと、二度と近寄るなと牽制しておきましたから」
「牽制……?」
エレノアは少し躊躇うように視線を彷徨わせた後、沈黙し、意を決したように口を開いた。
「……実は、私も…オスカーについては…」
アレクシスは、ゆっくりとエレノアの顔を覗き込む。
「少し前に実家で、ヴィルヌーヴ卿に結婚を申し込まれて」
「――っ、……なんですって……???」
全く予想していなかった言葉に、アレクシスの澄んだ青い瞳が、あり得ないほど大きく見開かれた。
…いや、心のどこかでは予想していたのかもしれない。アレクシスはひどく動揺している自分に驚いていた。とにかく味わったことのない感情に、頭と心が追いつかなかった。
一瞬、浴室のすべての音が消え去った。
アレクシスは言葉を失ったまま、跪いた状態でエレノアを凝視した。
青いの瞳の奥で、ドス黒いマグマのような衝撃と動揺が、凄まじい勢いで渦巻いていく。
——あいつが?
——あの底意地の悪い紫の瞳をした男が、自分の、世界で唯一無二の婚約者に、直接「結婚してくれ」と迫った…??
何かあるのかと思ったのは、本当だった。
(そうか。だからあいつは今日、あんな顔をして僕に突っかかってきたのか)
アレクシスの全身の血が逆流し、呼吸の仕方を忘れるほどの激しい憤怒と動揺が彼を襲う。
「…当然、その場ですぐに断って追い返しました! 父も裏で動いてくれて、あいつは二度と我が家には」
エレノアが慌てて彼の胸に手を当て、必死に言葉を紡ぐ。 けれど、アレクシスの耳には、その弁明の半分も届いていなかった。
——あの男が、エレノアに向かってどんな顔をし、どんな汚らわしい言葉を並べ立てたのか。
想像するだけで、指先の感覚が怒りで消え去っていく。
触れたのか。その瞳に、彼女の姿を映したのか。あの汚い口で、愛を囁き、笑いかけたのか。
昔…まだ想いが通じる前、エレノアと話していただけの警備員にすら、激しい嫉妬を覚えた。 あの頃からもう、自分は狂っていたのだ。理由なんてなかった。ただ、彼女に近づく男が、無性に気に食わなかった。
それが今は──あいつは、アレクシスの命そのものである彼女に求婚した。 アレクシスとすでに婚約している事実を知りながら。
——なんで。
なんで、あいつが。
政治とか、家柄とか、そんなものはどうでもいい。ただ、エレノアに手を伸ばそうとした。それだけで、もう、許せる理由が一つもない。
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。冷静な判断も、公爵家としての体面も、今はどうでもよかった。
――殺す。
その一言しか、浮かんでこない。
本日もお読みいただきありがとうございました!
激しい怒りを抱いたアレクシス。求婚を教えてくれなかったエレノアに対し、彼は…?
次回10/20(月)公開予定です。




