第69話 青の公爵令息
早朝、夜明け前の空はまだ藍色だった。
窓の外からは鳥の声一つ聞こえない。 静かな寝室で、アレクシスはゆっくり目を開けた。
隣には、無防備にシーツにくるまったエレノアが眠っている。 深いパープルの髪が枕へ流れ、穏やかな寝息が小さく聞こえている。
(……ああ、そうだ。目覚めて一番初めに映る景色が、これなんだ)
世界で最も愛する人が、自分のすぐ隣で同じ体温を感じながら眠っている。 かつて孤独と重圧に擦り切れていた彼にとって、その当たり前の光景は、胸が締め付けられるほどに奇跡的な幸せだった。
ーー触れたい。もう少し見ていたい。
けれど、このままでは本当に仕事へ行きたくなくなってしまう。 アレクシスは小さく息を吐き、名残を振り切るように布団から出た。
今日は早朝から、国の貴族たちが集まる会議が王城で開かれることになっている。
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眠気はすぐに飛び、緊張感のある面持ちに変わっていた。
きっちりとした仕事服に身を包んだアレクシスに、目をこすりながら追いついてきたエレノアが、しょぼしょぼと言う。
「リィ、今日は出発が早いんだった……」
そこにはすでに、一糸乱れぬ礼服を着たヴァルトハイム家次期公爵の姿があった。 あまりの眩しさにエレノアが目を細めると、アレクシスは愛おしそうに彼女を抱きしめた。
「まだ寝ていてください、ノア」
優しく告げて自室を出て、玄関の重厚な扉を開けようとしたその時——
「アレクシス様!」
階段を駆け降りてきたエレノアが、彼の手の中に何かを押し付けた。 灰色と青の模様が入った、あの羽根だった。
——僕も、一緒だからね
そう、ノアの声がする。彼女は知っているのだ。今日の会議には父もいること。たくさんの貴族の中で、ヴァルトハイム家次期公爵として、試される場であること。
「……っ」
アレクシスはその羽根を壊れ物のように大切に手の中へ包み込んだ。 溢れ出す愛しさに耐えかねるように、彼女を力強く抱きしめ直す。
「……行ってくる。待っていてくださいね」
低いテノールを響かせ、アレクシスは迷いのない足取りで屋敷を出ていった。
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朝日が入る廊下をすり抜け、王城の会議室前へたどり着いた。現当主である父・エドワードが冷徹な視線を向けてくる。アレクシスは横に立つと父上、と声をかけた。
「方々に余計な心痛をかけよって、軟弱者が」
「申し訳ありません」
「……抜かりはないだろうな」
「はい」
以前なら、アレクシスが現れた瞬間に空気がさらに冷えていた。
隙のない有能さ。
誰より美しく、誰より近寄りがたい男。それがアレクシス・ユリウス・ヴァルトハイムだった。
だが今は違う。彼が席についた時、周囲には奇妙なざわめきがあった。
「思ったより顔色がいいな」
「復帰直後とは思えん」
「婚約者のおかげか?」
そんな下俗な 囁きが聞こえる。アレクシスは聞こえていないふりをして、書類へ視線を落とした。
国政の中枢を担う中央会議が始まった。 税制、交易、隣国との情勢、騎士団の運営。議題が次々と上がり、意見が飛び交う。
場が荒れかけた瞬間、アレクシスが手を上げ、静かに口を開いた。
それだけで、空気が変わった。
淡々とした声が、広い会議場に響く。彼が新しく提示した完璧な資料と完璧な論理に、誰も口を挟めなかった。以前と変わらない。 いや——反対意見も切り捨てない。 そのことに、何人かがわずかに目を見開いた。
「ほう……」
誰かが小さく唸る。
次期公爵であるアレクシスであるが、その有能さは皆が理解していた。彼は判断が早く的確であり、いつも正論をいく。賢すぎて、周囲の何手も先を読んで判断を下していく彼のスピード感についてこれるものはなかなかいなかった。
正しい、しかし、何かがそれを拒む。そう思う貴族たちも多かった。それは今までの慣習を変えようとする破壊的な姿勢への嫌悪感かもしれなかったし、自分ができないことを易々と発案しやり遂げていくアレクシスへの嫉妬かもしれなかった。
彼が正しいことは誰もが理解していた。意義を唱えれば、実際、彼に論破されてしまうからだ。だからこそ、それについていけない自分が間違っている、能力がない、という事実を突きつけられるような気がする。
…しかし、今回のアレクシスは違っていた。
頭の切れはそのままに、誰のことも否定しない意見だった。正しい目標、妥協案の整理と、絡まった議題が整理されていく。
書類を目で追う父・エドワードの手が、ふと止まった。言葉には出さずとも、父が自分の成長を認めた瞬間だった。
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その会議を、同じテーブルにつくオスカー・ド・ヴィルヌーヴが見つめていた。
(……何だ? 以前のヴァルトハイムは、もっと刃物のように鋭かったはずだ)
刃を剥き出しにせず場を支配するアレクシスに、オスカーは不快感で眉を寄せた。
会議が終わり、少し張りが緩んだ室内で、年配の有力貴族がアレクシスに声をかけた。
「ヴァルトハイム卿も随分と丸くなられた。社交界で噂のご婚約者の影響ですかな?」
周囲から好意的な笑いが漏れる中、アレクシスはふっと唇の端を上げた。
「ええ。彼女は、僕の人生を変えました」
即答だった。
空気が止まった。
アレクシスの返答は冗談ではない。照れもない。本気の声だった。オスカーの紫の瞳が細くなる。
今までのアレクシスは人形のようだった。魂のない、完璧に動いて声が出る人形。それも薄気味悪かった。が、この間からのこの変化は何なんだ?
——気に入らない。吐き気がするほど、胸糞悪い。
そう激しい嫌悪を覚えるのに、なぜかアレクシスのその言葉が、オスカーの脳裏に呪いのようにこびりついた。
「ご回復されたようで何よりです、ヴァルトハイム卿」
帰るため、鞄に資料を入れていたアレクシスの目の前に、オスカーは立ちはだかった。襟足を刈り込んだ艶のある茶髪。珍しい紫色の瞳。アレクシスはオスカーを見上げる。
「お気遣いありがとうございます、ヴィルヌーヴ卿」
アレクシスはオスカーに冷酷な微笑みを向けた。
完璧な貴族の微笑みを交わし合う二人。だが、バチバチと周囲の温度が下がっていく。
「最近、ご婚約者と大変仲睦まじいようですね」
アレクシスがまた完璧な笑顔で「おかげさまで」と返す。
「社交界でも、お二人の話題でもちきりですよ 」
「それは光栄です」
「……随分、変わられたようですね」
オスカーは一歩距離を詰め、挑発するように声を潜めた。
「ご婚約者も……以前とは随分印象が違う。男の寵愛を受けると、女はああも劇的に変わるものですか? 以前の彼女は、もっと大人しく無能で、目立たない陰気な令嬢かと思っておりましたので」
明確な毒。 アレクシスの周囲の空気が、一瞬で氷点下へと落ちた。
「彼女は昔から、あの人ですよ。周囲の無能が勝手に自分たちの小さな型にはめて、彼女の本質を見ていなかっただけです」
地を這うような冷たい声。抑えきれない苛烈な苛立ちに、オスカーの眉がピクリと跳ねる。
「……随分、理解しておられる」
「ええ。愛していますから」
迷いのない声だった。オスカーは、一瞬言葉を失う。冗談でも、牽制でもない。
(この男、本気だ。)
オスカーは笑みが固まり、顔が動かせない。
——弱点だ。
あれほどの男が、堂々と弱点を晒している。ありえない。ヴィルヌーヴ家の常識からすれば、自滅行為に等しい愚行だった。
その時、アレクシスの指先が胸元へ触れた。 礼服の胸ポケットに挿された、あの灰色と青の羽根。それを確かめるように撫でる彼の横顔は、切ないほどに柔らかく、愛おしげな光を帯びていた。
オスカーは眉をひそめる。
——なんだ、それは。
胸の奥が、妙にざわついた。
アレクシスは軽く会釈すると、オスカーの横をすれ違う。
その瞬間。さっきまで羽根を撫でていた彼の青い瞳から、一切の光が消えた。
「ですから——彼女に二度と、無用な興味を持たぬことです。ヴィルヌーヴ卿」
すれ違いざま、耳元に落とされた冷酷な低音。 もし一歩でも境界線を越えれば、ヴァルトハイムの総力を挙げて圧殺するという、容赦のない「黒い警告」。
ハッと振り返ったときには、アレクシスはすでに悠然と歩き去っていた。
完璧だった公爵令息。誰より冷たく、隙のなかった男。
——なのに今は。
胸元の羽根に触れた瞬間の、ひどく人間らしい顔。
そして、あの底知れない警告の目。
オスカーは無意識に眉を寄せる。
理解できない。
理解したくもない。
だが、なぜかその顔が忘れられそうになかった。
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離れた柱の陰で、セドリック・ローゼンベルクはその一部始終を静かに見つめていた。 娘に粘着していた男と、それに冷酷な牙を剥いたアレクシス。
セドリックは眉をひそめ、静かに踵を返した。
本日もお読みいただきありがとうございました。
猫に書いていた内容を消されてしまい。。(泣)今回も遅くなってしまいました。
次回10/18(日)公開予定です!




