第68話 頭から離れない
その日、『無名の夜会』にある男が参加していた。
夜な夜な開かれる、秘密の夜会。去年の末頃、そういうものがあると知った。
弱みを握り、借金で縛り上げた弱小貴族たちを洗っている最中、ふとある『集まり』の存在が浮かび上がった。 王都のどこかで密かに行われているという、素性を隠した夜会。
—— そんな怪しい会、どんな奴が参加しているのか?
王都の端の、古びた洋館。彼は紫のランタンを見つけ、門番の前に立つ。秘密の夜会に参加する条件として、まずは場所を見つけることがルールであるというのだ。なんて面倒な、と男はその口元を曲げた。
男を視止めた門番はうなずき、ドアを開ける。
(参加料はいつ払うのだ?)
門番は何も言わず、ただドアを支えるのみ。男は訝しげに一歩、ドアの奥へと踏み出した。目の前には地下へ続く階段が螺旋状に伸びている。ドアが締まると、踊り場は一気に暗くなった。男は暗闇の中、壁に手をつきながらその階段を下りていく。
——カツン、カツン
自分の足音だけが響く。目が慣れれば、ひそかな明かりが足元を照らすのがわかる。そして降りた先には、驚くべき光景が広がっていた。
たくさんの灯りに照らされた明るい空間。天井を覆い尽くす、紫。
ぶどうの様に垂れた花が何層にも奥へと広がり、この世ではないような錯覚になる。
タバコを片手に語らう人々。
書類を眺め、商談をしている人。
熱く持論を語り合い、熱弁している人…。
仮面をつけた人間たちの、深夜とは思えないほどの熱気とざわめき。男は完全に面喰らい、その場に棒立ちになった。
——なんだ?ここは…!
自分の生きている世界とは全く違う、秘密の、夜の濃密な空気。
「シャンパンでもいかがですか?」
声をかけられ、男はびくりと跳ねる。仮面をつけたウエイターは、口元しか見えないが、微笑んでいるのがわかる。
「…い、いただくよ」
男は動揺を隠すように、声音を隠してグラスを受け取る。初めて来た自分がなぜか恥ずかしい。そんな気持ちが一瞬よぎる。いや、そんな思いをする必要は全くない。とすぐさま自分を否定する。
(こんな場所に馴染む連中とは違う。自分は、もっと上の世界の人間だ。 )
——成功している自分は、こんな場所にふさわしくない。金ですべては手に入るのだから。
そうプライドを保つと、ふと、隅に目が行く。
壁にもたれている、美しい銀髪の青年がいた。 白い仮面をつけて、群青色の燕尾服を着ている。
男は、思わず足を止めた。息を吸うのを忘れた。
この場所に似合わない。 そう思ったのに、目が離せない。整った輪郭。 白い仮面に切り取られた、形の良い唇。 壁にもたれる仕草すら、絵画のようだった。
(なんだ、あれは)
言葉にならない感情が、男の胸の奥に落ちる。
男が青年を見つめていると、どこからかコソコソと声が聞こえてきた。
「あの二人、最近随分と仲が良いな」
「彼、ずっと一人でいたのにな…」
青年のことだとわかった。
秘密の夜会という存在を知ったのと同時に、夜会に参加している人の中で、話題になっている人物がいるということ。
月の光を集めたような銀色の髪をして、夜の色の燕尾服を着た青年。男にも女にも見える、とにかく美しい正体不明の人物がいると…。
(あれが噂の)
男は青年を遠くから見つめる。
整った横顔。形の良い唇。
なぜ青年はこの場に似合わないと思ったのか、男はわかった。
それは、誰もが自分を偽るこの場で、彼がとても自然でいるのがすぐにわかったからだ。まるで静かな森の中で、気持ちよく葉を揺らす木のように。夜空に浮かんでは沈んでいく月のように。彼という存在からは、爽やかな森の気配を感じたからだった。
青年は隣に立つ女性の腰に手を当てたまま、ワインを静かに飲んでいる。女は彼に抱きついたまま、動かない。ヴェールを被っているため、顔も見えず、背の高い女ということしかわからない。
青年が低く何か言う。隣の女が小さく笑う。
その笑顔を見た青年の目が、一瞬だけ溶けた。
——ああ、あれは本物だ。
男は紫の瞳を細めた。
男の中で、最近聞いた、とある話が頭の中で反芻する。
****
先日。ある公爵貴族家に仕えていたというメイドを捕まえた。
老婆だ。
仕事をやめ、老婆は一人暮らしをしていた。
話をしていると、もう年のせいか、話がおかしいところもある。
しかし、仕えていたときの記憶はあるのか、老婆はにこやかに当時のことを語る。
公爵は堅牢な男だが、使用人にもやさしい人であること。
夫人は社交に活発な、親切な人であること。
そして一人娘。
元気で、庭で走り回っていたのを世話したという。
「とてもかわいらしいお嬢様なのに、騎士のようなかっこいい顔をすることがあって。私たちメイドもそれはそれは可愛がりましてね…」
老婆は言う。
「きれいな銀色の髪をブラシでとかせていただいたのは、私の大切な思い出です」
「きれいな、銀色の髪——」という老婆の言葉が、夜会の青年の姿と重なる。
まさか、という考えが浮かんで、男は首を振った。
黒い仮面の奥、紫の瞳が青年を捉える。
——不快だ。
この場所も、この空気も、あの女も。
なのになぜ、目が離せない。
男は自分の感情に名前をつけることなく、グラスを傾けた。
「初めていらしたのー?」
振り向いた途端、ふー!と煙を吹きかけられ、男は盛大にむせた。
「う、ゲホ‥‥!何だ!お前は!」
男は嫌悪感を隠さずに、顔まわりの空気を払う。
「わかるわ。初めて来た人は。彼を見る目でね…」
女は分厚い唇を、にやりとゆがめる。
真っ赤な口紅が妖艶に光っていた。
体格の良い体、たっぷりとした夜のドレスを身にまとい、赤い帽子を被っている。
タバコをぎゅーっと深く吸い、またぶはーっと豪快に煙を吐く。
男はその様子にたじろぎ、一歩、二歩、と下がる。
そのままグラスを一気にあおり、足早に出て行った。
「…ばいばい、坊や」
女はこっそりつぶやく。
男は息も絶え絶えに階段を駆け上がり、重い扉を力任せに開ける。
速足に明かりの消えた通りを通り抜け、待たせていた馬車へと乗り込んだ。
——何だったんだ、あの女。
胸糞悪い空気を吸い、不快極まりない。
あの空間自体の異様さにも言葉がない。
(行くんじゃなかった)
男は仮面を外し、顔の汗を拭う。
さっきまで体中に張り付いていた夜の空気が払拭される。
窓からの風を深く吸い込むと、肺が浄化されるようだ。馬車に控えている執事に向かって、男は言い放つ。
「この件については、極秘だ」
そうして、男は最大限の不快を表現するように、馬車の中で足を蹴り上げ髪をかきあげた。
(すべてが、胸糞悪い!!!!!)
——アレクシス・ユリウス・ヴァルトハイム。あいつをこの貴族社会から必ず引きずり降ろしてやる。
誰もが知る、その有能さ。
恵まれた美貌、家柄。
先日、体調を崩して倒れたことは、貴族の間で話題になった。一週間以上熱にやられ、生死の境をさまよったらしい。
最近また勢いを取り戻してきているようだが、前のようには張りがないように見える。
奴は、婚約者にぞっこんだと、社交界でも話題だ。
先日の夜会でも、奴は婚約者にずっとくっついていた。今までのぎらついていた相貌が嘘のように、楽しそうに踊り、笑う顔。
そんな奴を初めて見た。
——奴の婚約者。エレノア・フォン・ローゼンベルク。
目立たない地味な令嬢だった。ついこの間までは…。先日の社交界では別人のように雰囲気が違っていた。
病の床から復帰したアレクシスの社交界の参加に、みなが興味津々だった。
しかし当日、蓋をあけてみれば、その視線と話題を総なめにしたのはエレノアだ。
私からの婚姻を断った、あの失礼で、侮辱的な、常識のない令嬢。
男は紫の瞳をぎらつかせ、膝の上で手を組んだ。彼に向かって、執事は頭を下げる。
「承知いたしました。オスカー様」
オスカー・ド・ヴィルヌーヴは、煮えたぎる闘志をその瞳に宿し、ひっそりと屋敷へ帰る。
着ていた服はすぐさま全て脱ぎ、すぐにメイドへ洗濯させるように命令した。夜中であるが関係はない。
湯を浴び、バスローブを身にまとう。
手も顔もすべて洗った。
――汚れはすべて、綺麗に洗い流したはずだった。
しかし彼の頭から、夜会で見た、あの月の光を浴びたような銀髪の青年の姿が、呪いのように焼き付いて離れなかった。
****
「行きは、ずいぶん緊張したけど…いい部屋。どうもありがとう」
エレノアがふと呟く。
夜会を出て、二人は再び隠れ家へと戻ってきていた。控えめなランプの明かりだけが灯る静かな一室には、最低限の家具と、小さな洗面室があるだけだ。
「そうですね」
アレクシスが、ゆっくりと彼女の燕尾服のボタンを外してやりながらつぶやく。
「……ねえ、リィ」
「はい?」
ボタンを外す指を止め、アレクシスが首を傾げる。ノアは仮面を外し、少し首をひねった。
「気のせいなら良いのだけど。……なんだか今日、いつもより人が少なかった気がしない?」
「人が、ですか?」
「うん。熱気はあったけれど……以前よりどこか冷めているというか、人の入りが少なかったような……」
ノアが首を傾げると、アレクシスは愛おしそうに彼女の頬を撫で、柔らかく微笑んだ。
「催しの内容にもよるのかもしれませんね。……それに、僕としては邪魔者が少ない方が、あなたを独り占めできて嬉しいですが」
ノアが小さく笑う。だが、アレクシスのサファイアの瞳の奥には、わずかな警戒の光が走っていた。
(……確かに。少し、空気が冷えていたな)
――数刻前。
「今夜は、少し違うやり方で行きましょう」
出発前、アレクシスが静かに切り出した。
「屋敷から直接ではなく、途中で一度、別の場所に立ち寄ります。……着替えは、そこで」
手には、小さなトランクが一つ。中には、いつもの仮面と燕尾服が畳んで収められている。
「今までは、屋敷を抜け出すだけで十分でした。……でも、最近の様子を考えて部屋を借りてみることにしました」
「……面倒だけど、それが良さそう」
渋々といった様子ながらも、彼女はトランクを受け取った。
信頼できる筋を通して、こっそり借りた王都の外れの空き部屋。誰の名義でもない、目立たない一室。
そこで着替えを済ませ、二人は改めて夜会へと向かった。
――そうして、今夜という夜が過ぎたのだった。
迎えが来るまで、まだ時間がある。
隠れ家の薄暗い部屋で、アレクシスはエレノアを壊れ物のように優しく、けれど隙間なく抱きすくめ、自身の膝の上に座らせていた。
「……リィ、帰る前に髪を染め直さないと」
首筋にすり寄せられる金の頭に、エレノアが呟く。
けれどアレクシスは彼女の腰に回した腕を微動だにさせず、首筋に深く顔を埋めたまま、小さく首を振った。
「……もう少しだけ」
低く、甘く、どこか底の抜けた声。
男装の香水の奥から香る、ノアの肌の甘い香り。
アレクシスが肺いっぱいに吸い込むたび、思考の隅々まで彼女の毒で侵されていく。
夜会で、男も女も等しく狂わせていた男装の美貌。
周囲を圧倒する知性と情報網。迫りくる不穏な気配すら、自ら楽しむように潜り抜けていく凛々しさ。
そのすべてが、いま自分だけの腕の中に収まっている。
——あれほど眩しく、恐ろしく、誇らしい存在を、自分だけが独占しているという酷く歪んだ優越感。
胸の奥で黒く濁った熱が、アレクシスの胸にどろりと重く沈み込む。
この瞳も、指先も、纏う空気のすべてすら、誰の視線にも触れさせたくない。
どこへも行かせず、誰にも見せず、このまま暗闇の中に閉じ込めてしまえたら…とさえ思ってしまう。
何かが起ころうとしている、不穏な気配。
見えない危険から、この人を守りたい。
首筋へ落とされる口づけと触れる肌の熱さに、エレノアは呆れたように、けれど愛おしそうに彼の金の髪へ指を滑らせた。
あやすようなその指の動きに、アレクシスの青い瞳からすっと光が消えていく。
アレクシスはエレノアの手首を取り、トク、トクと脈打つ静脈の上に、すがるように何度も唇を押し当てた。 もう片方の手は、彼女のシャツの裾をシワができるほど強く握りしめたまま、動かない。
「……僕の、ノア……」
焦点の結ばない、光の消えた青い瞳。 優しく触れながらも絶対に逃がそうとしないその重い体温に、エレノアは静かに身を委ねるのだった。
本日もありがとうございました!
オスカーって誰だっけ?という方は『第40話 敵対貴族 来る』を読んでいただければと思います。
次回は10/16(金)公開予定です。




